ツイッターをやめた話【山中志歩】

更新:2021.3.4

夏ですね。みなさんはどうお過ごしでしょうか。私は、夏がくーれば思い出すーはるかなおぜ とおいそらーって感じです。すみません、いい加減が過ぎました。

1993年生まれ、三重の山奥ですくすく育つ。高校で演劇部に入り、大阪芸術大学進学後も学内外の公演に多数出演。2016年より上京。青年団所属。現在までに、名だたる演出家の作品に出演し存在感を示している。本連載は個性派女優・山中志歩が、演劇愛・読書愛に溢れた内容でオススメの本を紹介するコラムです。 https://www.ginacm.com/shiho-yamanaka/
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いきなりですが、ツイッターをやめました。

色んな方にフォローしていただいて嬉しかったのですが、ツイッターをうまく使いこなせてないなぁと思うことが増えたので、よっしゃ!ここでスパッとやめてみるか!と思った次第でございます。ご心配をおかけしてしまって、すみません!

ツイッターをやめた理由は色々あるのですが、大きな理由の一つとしてツイッターをやめてみたら一体どうなるんだろうか?という興味本位です。

ツイッターは私にとって、多くの情報を得るための手段、そして自分の活動を知ってもらうためのものでした。

暇つぶしに最適で、電車に乗っているときや寝る前なんかはよく見ていました。色んな情報が溢れていて、面白く、刺激的。だけど、私の場合、知らないことをツイッターで見たというだけで知った気になってしまう。自分の頭で考えることが少なくなったんです。

もちろん、ツイッターをうまいこと使って、より多くの人たちに自分の表現を届けることのできる方々はいらっしゃるし、私も工夫して使えれば良かったのですが、きっと向いていないし、私はそこに喜びを感じたりしないだろうなと思いました。

今、ツイッターをやめてから数日しか経っていないので、日々に大きな変化はまだないのですが、ツイッターのない生活をわりと楽しんでいます。ときどき、癖で「ツイッター」と無意識に検索していて、はっと気づき、習慣とは恐ろしいものだなぁと感じます。たばこをやめるとか、お酒をやめるっていうのもこういうことなんだろうか。もうすぐ禁断症状みたいなものも出てきたりして。ちょっぴり楽しみです。

今回はここ最近で一番影響を受けた本の中の一節をご紹介します。

”ぼくらはけっして「身分相応」の、飼い慣らしやすい存在になってはいけない。ほどほどのサイズ、人あたりのよいイメージのなかにすっぽり自分をはめこみ、そこで安眠を決め込んではいけない。つつましくおさまりきった<わたし>をたえずぐらつかせ、突き崩すこと。そう、じぶんの存在がちぐはぐであるという負の事実を、ぼくらの特権へと裏返さなければ……。ちぐはぐであるということは、じぶんの存在ががちがちにまとまっていなくて、むしろじぶんのなかにじぶんをゆるめたり、組み替えたりする「あそび」の空間があるということなのだから。”

自分に対して「なんだかなあ」と思うことが増えてきたときに、この本に出会ったので、心が揺さぶられました。

そして、この文章は、こう続きます。

”できあがった「わたし」ではなく、「私が生れたよりももつと遠いところ、そこでは可能性が可能のままであったところ」までいつでも一挙に引き返せる準備をすることだ。そのためには、その存在の表面に張りをもたせておかねばならない。いつもじぶんの表面に最大限の張力を保っておくこと、これがファッションの原則だ。優等生に、模範青年に、ならなければいけないというプレッシャーをふとじぶんのなかに感じたとき、言いかえると、何をあせっているのかじぶんでもわからないまま、まとまろう、まとまろうとしはじめるときに、そういうじぶんを底の底から廃棄する用意ができていること。いつも一からそっくりやりなおす準備をすること。「等身大」あるいは「身分相応」という観念から遠ざけること。だれが言いだしたのかわからないような観念にがちがちにならないで、肩から力をぬいて、じぶんというものをいつも組み換え可能に、フレクシブルにしておくこと。”

おー!と感嘆の声をあげたい気持ちです。ナポレオンがこの言葉を言っていたら、真っ先に雪山まで着いていくだろうな。

まだまだ知らないことは多いですが、年齢を重ねることによって「知っている」もしくは「知った気になっている」ことが増えました。知る前には戻れません。だけど、固定観念、今まで身体につけてきた垢を落とすことはできる。自分が「正しい」と思い込んできたことから少し離れ、もっと柔軟になれるはずだ、私。

途中で「ファッション?」とハテナマークが頭に浮かんだ方も多いと思います。

今回の本は、ファッションと哲学の本です。

ちぐはぐな身体

著者
鷲田 清一
出版日

この本は4年くらい前にライターの友人と本屋に立ち寄ったときに、選んでもらった本です。

作者は鷲田清一さんという哲学者。ファッションを通じて、「じぶんの存在」を論考されています。

身体はイメージでしかない。服を着ることによって、じぶんの存在はどういう風に揺らぐのか。皮膚感覚。潔癖症。じぶんの存在の輪郭をはっきりさせるものは何なのか。制服。匿名。着崩すということ。モード。コムデギャルソン、ヨウジヤマモト、イッセイ・ミヤケ。<他者の他者>としてじぶんを確認すること。

ページをめくるたびに、「なるほど~なるほど~」と今まで見てきた世界をもう一度違う視点から見ていくような感覚でした。

特に、

“じぶんがだれかということがよくわからなくなるとき、じぶんのなかにほんとうにじぶんだけのもの、独自のものがあるのかどうか確信がもてなくなるとき、ぼくらはじぶんになじみのないもの、異質なもの、それにちょっとでも接触することを怖がる。じぶんでないものに感染することでじぶんが崩れてしまう、そういう恐ろしさにがんじがらめになるのだ。”

この言葉に意表を突かれました。たしかに、そうだなと。

身体的に特に敏感で、色んなものを排除したくなる時期だからこそ、心はそうじゃなくいたい。そして、排除される側に回ったとしても、大丈夫。自分がだめだから排除されるわけではないんだと自信を持つことができる言葉だと思います。

服を着ること。布をまとうことによって、<内>と<外>ができ、「見せる」と「隠す」という行為が出現する。スカートの丈。半袖か長袖か。襟はどんな形か。ネックレス。髪の長さ。タイツのデニール。身体というイメージに切れ目をつけること。

読み終わったあとに、どんなに似合わなくたっていい、値段なんか気にしない、じぶんが一番着たいと思う服を買いに行くぞ!と思いました。

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