大航海時代の先駆者といわれるポルトガル。種子島に鉄砲を伝えたり、宣教師ザビエルがやって来たりと、日本とも深い関わりがあります。この記事では、大航海時代を中心に、日本やスペインとの関係も含めたポルトガルの歴史をわかりやすく解説。また後半ではおすすめの本も紹介するので、ぜひチェックしてみてください。
イベリア半島の西端にある共和制国家のポルトガル。大西洋上のアゾレス諸島とマデイラ諸島も領有しています。
首都はリスボン。国土は南北に長く、北と東で接しているスペインとの国境線は1200キロメートル以上もあります。国土面積は日本のおよそ4分の1にあたる約9万2000平方キロメートルで、人口は約1000万人です。
国民の大半がイベリア人やケルト人、ラテン人、ゲルマン人、ユダヤ人、ムーア人などの混血で、公用語はポルトガル語。また国民の約97%がカトリックの信者です。
ファティマという中心部にある都市は、1917年に起こった「聖母マリアの出現」という幻視によって、有名な巡礼地となりました。「発見のモニュメント」や「ジェロニモス修道院」など歴史ある観光名所も数多くあるほか、エッグタルトなどのスイーツを目当てに多くの観光客が訪れています。
治安は良好で、テロ事件などの発生例もなく、外務省が発表している危険情報も特にありません。ただし日本人観光客に対するスリや置き引き、車上荒らし、マリファナの売買などの犯罪行為は頻繁に起こるので注意が必要です。
ポルトガルのあるイベリア半島へ人類が進出した時期は早く、旧石器時代前期の遺跡が発見されています。紀元前10世紀頃には北方からケルト人が移住し、原住民と混血してルシタニア人となりました。現在のポルトガルに相当する地域は、ルシタニアまたはルジタニアとも呼ばれますが、これはルシタニア人が住んでいる土地という意味があります。
紀元前8世紀頃になるとフェニキア人やギリシア人が移住し、造船技術やワインを持ち込んで、南部に植民都市アルガルヴェが築かれました。ローマとカルタゴとの間に「ポエニ戦争」が起こると、イベリア半島はカルタゴの軍事拠点となり、敗れたカルタゴはイベリア半島の支配権を失います。
一方のローマは紀元前155年に「ルシタニア戦争」を起こし、およそ100年間にわたる戦いのすえ、紀元前19年に征服。イベリア半島はローマの支配下に組み込まれることになりました。
5世紀頃にローマの力が衰えると、イベリア半島にゲルマン人が侵入し、スエビ族によるガリシア王国、西ゴート族による西ゴート王国などが栄えます。その後715年までに、アフリカから侵入してきたイスラム勢力によってほぼ全土が征服されました。
わずかに残ったイベリア半島最北部には西ゴート系のアストゥリアス王国が建国され、イスラム勢力に対するレコンキスタを続けます。914年にレオンへ遷都し、国名もレオン王国と変更しました。
一方で、756年にイスラム勢力内の内乱を制したアブド・アッラフマーンが興した後ウマイヤ朝は、キリスト教との戦いや反乱で情勢が悪化し、1031年に滅亡。その後イベリア半島では小国家が乱立するも、イスラム勢力は弱体化していきました。
1064年には、イスラム教とキリスト教が争っていた土地コインブラをレオン王国が征服。1096年には国王の娘婿であるフランス人のアンリ・ド・ブルゴーニュの領地となります。
1112年にアンリが亡くなると、跡を継いだ息子のアフォンソ・エンリケスは、カスティーリャ=レオン連合王国と対立。1128年の「サン・マメデの戦い」で母親の後ろ盾となっていたガリシア地方の有力貴族に勝利し、レコンキスタを推進して勢力を拡大していきました。名目上はカスティーリャ=レオン連合王国に臣従を誓いつつも、実質的には独立国として振る舞うようになります。
1139年の「オーリッケの戦い」では、イスラム教のムラービト朝に大勝。王を自称し、カスティーリャ=レオン連合王国を刺激していきました。ちなみにポルトガルに伝わる神話では、この時のアフォンソはイエス・キリストから勝利の予言を授けられたといわれています。
1143年、王を自称するアフォンソは、カスティーリャ=レオン連合王国と「サモーラ条約」を締結し、王位を承認させ、ブルゴーニュ朝ポルトガル王国を建国。ローマ教皇への臣従、サヴォイア伯家やフランドル伯家との婚姻関係を使って勢力を広げ、1147年にはリスボンを征服。1179年にはローマ教皇庁によって正式にポルトガル王位が承認されました。
第3代国王であるアフォンソ3世の時代には、最南端にあるアルガルヴェ地方を征服。レコンキスタを完了させます。第6代国王ディニス1世の時代にはカスティーリャ王国との間に「アルカニーゼス条約」を結び、国境線を確立。現在でもポルトガルとスペインを隔てる国境線で、ヨーロッパ最古の国境線でもあります。この時期にはイギリスやフランスを相手に交易も盛んにおこなわれ、大いに栄えました。
ディニス1世のもとで最盛期を迎えたポルトガルですが、1348年にペストの大流行に襲われ、人口の約3分の1を失うことになります。人口の減少は農業の担い手の減少を意味し、国は深刻な歳入不足に陥りました。
1383年、このような状況で第9代国王のフェルナンド1世が崩御。息子がおらず、唯一の子どもである王女がカスティーリャ王と結婚したため、カスティーリャ王国に併合される危機に陥ります。1384年にはリスボンが包囲されますが、フェルナンド1世の異母弟ドン・ジョアンが活躍し、防衛に成功しました。
ドン・ジョアンは新たなポルトガル王に推戴され、1385年にジョアン1世として即位。アヴィス王朝が成立します。
1415年には、ポルトガルがモロッコの港町セウタを占領し、アフリカに進出。大航海時代の幕開けです。セウタの占領を指揮したドゥアルテ、ドン・ペドロ、ドン・エンリケらはいずれもジョアン1世の息子でした。
特にドン・エンリケは別名をエンリケ航海王子といい、大航海時代の初期における重要人物と評されています。探検家や航海者を援助し、マデイラ諸島やアゾレス諸島の発見など、偉業を果たしました。
エンリケ航海王子の死後もポルトガルの海洋進出は進み、1488年にはバルトロメウ・ディアスがアフリカ最南端の喜望峰に、1498年にはヴァスコ・ダ・ガマがインドのカリカッタに、1500年にはペドロ・アルヴァレス・カブラルがブラジルに到達します。
その一方で1492年にグラナダを攻略し、レコンキスタを完了させたスペインも海洋進出に乗り出していて、クリストファー・コロンブスがアメリカ大陸に到達していました。
ポルトガルとスペインは、新たに発見した領土をめぐる紛争を回避するため、1494年に、新世界の領土を子午線に沿って東西に分割する「トルデシリャス条約」を締結します。その後ポルトガルは東へ進出を盛んに進め、インドのゴア、マラッカ、モルッカ諸島のテルナテ島、イエメン沖のソコトラ島、ペルシア湾のホルムズなど各地に拠点を構築しました。
さらにアジアへも進出し、1541年には日本の豊後国神宮寺浦に漂着。1543年には種子島に鉄砲をもたらし、1549年にはフランシスコ・ザビエルが日本を訪れ、キリスト教の布教活動に従事します。戦国時代の日本の様子について記した『日本史』の著者である宣教師のルイス・フロイスも、ポルトガル出身です。中国の明王朝から租借したマカオを拠点とする「南蛮貿易」を展開し、銀などと引き換えに、多くの製品や文化が日本にもたらされました。
16世紀後半になると、ポルトガルは「海上帝国」といわれるほど世界各地に植民地を拡大。しかし広大な領土を維持することは負担でもあり、スペインやイギリス、オランダなどと争うなかで、衰退していきます。
1580年には国王のエンリケ1世が後継者を残さないまま亡くなり、アヴィス朝が断絶。スペインのフェリペ2世によって併合され、ともにハプスブルク家の王を戴く同君連合となりました。
この間、ブラジルにはオランダが進出し、オランダ領ブラジルが成立。ポルトガルは1640年に起きた反乱がきっかけの「ポルトガル王政復古戦争」で独立を果たしますが、ブラジルにオランダが進出する状況を危惧して、1646年にブラジルを公国に。ポルトガル王がブラジル公を兼ねるようになります。
1648年と1649年の「第一次・第二次グアララペスの戦い」でオランダに勝利。1661年に締結された「ハーグ講和条約」でオランダ領ブラジルを獲得しました。ブラジルの主要生産品は染料として用いられていた「パウ・ブラジル」という木で、パウ・ブラジルが枯渇した後はサトウキビ栽培が主な産業になりました。
1789年に起こった「ナポレオン戦争」の後、イベリア半島のポルトガル本土はイギリスの占領下に。王族は植民地にしていたブラジルへ逃れ、1808年から1821年にかけてはブラジルのリオデジャネイロがポルトガルの首都となるなど、重要な土地となります。
1820年、ポルトガル北部の港湾都市ポルトで「自由主義革命」が起こります。イギリス軍が撤退し、ブラジルからジョアン6世が帰還。憲法が制定され、ポルトガルは立憲君主制に移行しました。
「自由主義革命」はブラジルにも波及し、独立運動に発展。「ブラジル独立戦争」の結果、ポルトガル王太子ドン・ペドロを皇帝とするブラジル帝国が独立しました。
最大の植民地だったブラジルを失ったことは、ポルトガルの経済に大打撃を与え、国内の政情が混乱。やがて自由主義と保守主義の対立を引き起こし、王位継承問題から「ポルトガル内戦」に発展していきました。
内戦は自由主義の勝利に終わり、ブラジル皇帝ペドロ1世がポルトガル王に即位。ブラジル帝国憲法をモデルとする体制が構築されます。大土地所有制度が拡充され、ブルジョワジーと零細農民の格差が拡大。工業化が進展しなかったため農業の生産性も向上せず、国内市場も外国産農産物に席巻されるようになります。
打開策としてアフリカへの進出を狙い、「バラ色地図構想」を打ち出すものの、イギリスの圧力に敗れ、ザンビア、マラウィ、ジンバブエなどを失う結果になりました。
これに対して、共和主義者らは王政批判を展開。1910年に反乱を起こします。国王マヌエル2世はイギリスに亡命し、ポルトガルは共和制へと移行しました。
「第一次世界大戦」ではドイツ帝国に対して宣戦を布告するものの、新たな領土を得ることはできず、食糧危機などの社会不安をもたらす結果に。戦中から戦後にかけてはクーデターもくり返し起こり、1926年に軍事政権が成立して第一共和政は崩壊しました。
軍事政権下で財務大臣を務めたアントニオ・サラザールは、混乱していた経済の再建に成功。世界恐慌も乗り切ると国民の支持を受けて1932年に首相に就任します。1933年には新憲法を制定し、独裁的な「エスタド・ノヴォ(新国家体制)」を確立。ドイツのナチス党やイタリアのファシスト党、スペインのフランシスコ・フランコ総統らに接近しました。
「第二次世界大戦」では中立を維持し、戦後は反共政策を推進。NATOや国連にも加盟して西側諸国との友好関係を構築するとともに、秘密警察を用いて国内の反対派を抑圧するなど、長期独裁体制を構築していきます。
一方で海外の植民地では、アンゴラやギニアビサウ、モザンビークなどで独立戦争が相次ぎ、戦費の負担が重くのしかかる状態。国民の不満が徐々に高まっていきました。
さらにサラザールが、1968年に頭部を強打し、一時意識不明の重体に。2ヶ月後に意識を取り戻したものの、すでに政権は後継のマルセロ・カエターノ首相に移っていました。しかし周囲の者たちはその事実を本人には知らせず、サラザールは亡くなるまでの約2年間、何の効力もない命令を出し、用意された偽の新聞を読んでいたそうです。
一方で、エスタド・ノヴォを継承して戦争を継続しようとしたマルセロ・カエターノ首相には、国民から不満の声が挙がり、1973年にはポルトガル領ギニアで勤務していた将校を中心とする「大尉運動」が結成され、翌年には全軍に拡大。「国軍運動」となります。
1974年4月に国軍運動が革命を起こし、これを民衆が支持したため、エスタド・ノヴォは無血で倒されました。カーネーションがシンボルだったことから、「カーネーション革命」と呼ばれています。
1999年にはポルトガル最後の植民地であったマカオが中国に返還され、長い大航海時代が終わりました。
- 著者
- 金七 紀男
- 出版日
本書は、ポルトガル近世史とブラジル植民史を専門とする作者が、ポルトガルの建国前から現代までの歴史をわかりやすく解説した作品です。
ヨーロッパから見たら、地の果てともいえる日本。そんな日本に最初にたどり着いたのがポルトガル人でした。本書を読めば、常にスペインの脅威に晒されてきたポルトガルを紐解きながら、彼らがなぜ海に乗り出し、大航海時代の先駆者となったのかがわかるでしょう。
文章も易しいため、事前知識がなくても大丈夫。ポルトガルの歴史を知りたいと思ったらまず読みたい一冊です。
- 著者
- 博高, 立石
- 出版日
イベリア半島内で隣りあうポルトガルとスペイン。そもそもポルトガルはスペインから独立し、併合や再独立など複雑な関係を構築してきました。
本書は、そんな両国が紡いできた歴史を紐解いていく一冊です。地図や写真、絵など豊富な資料を駆使しているのが特徴。また参考文献も詳しくまとめられているので、より深く学びたい時にも役立つでしょう。