5分で分かるデカルトの哲学|理性の光を追求した「方法序説」|元教員がわかりやすく解説

更新:2023.8.16

現代社会は“数字”によって動いています。現代人は数字から逃れることができません。 私達のあらゆる「価値」は全て数字に変換されます。学校での評価は数字ですし、会社では数字(利益)を上げることに血眼になっています。「数字」が悪ければ“数字のため”に、人間はリストラの対象に…。見方を変えると、私達は「数字の奴隷になっている」という解釈もできます。 数字は人間の目には見えないものです。肉眼で確認できない数字があたかも世界の真理であると、私達はどこかで信じ切っています。 しかし数字は、人間や世界をどこまで正確に映し出すのでしょうか? 「数字が世界の真理を導き出す」という考え方を確立したのはデカルトです。 デカルトの人生は、まさに数学と共にありました。 今回はデカルトの思想を見ていきたいと思います。 デカルトの生きた時代背景を振り返りつつ、数学にエネルギーを注ぎ続けたデカルトの哲学を紹介します。

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デカルトの考える理性とは?

デカルトを理解するためのキーワードは「理性」です

私達が抱いている理性のイメージとデカルトが想定しているものとは、全く考え方が異なります。

「あまり感情的にならないで、理性的に話し合おうよ」と、日常会話でよく使われるように、私達も「理性」という言葉を使うことがあります。

この場面で、私たちが考えるのは人間が持っている認知能力、つまり生物として環境に適応するための能力を意味します。そのため人によって能力的な個人差もありますし、感情によっても理性の働きは左右されます。

理性は神からのプレゼント

しかしデカルトの考える理性は、神に通じる普遍的な概念になります。デカルトはキリスト教の神学論に基づきながら、独自の考え方を展開します。

理性は私達の内側にありますが、我々の所有物だけではありません。私達が備える理性は、神に属するものでもあるのです。

神は世界を出鱈目に創造したわけではなく、自らの理性に従って想像したに違いない。デカルトは「世界は合理的にできている」と考えます。

神は世界創造の最終段階で人間を作った。そして全ての人間に対して、神自身が持つ理性の一部を分かち与えた。そのため、私達の理性は神からのプレゼントであり、誰にでも平等に備わっている能力である。

さらにデカルトは続けます。

普遍的認識を得るためには、動物的能力である感覚(肉体)と理性を交えないことが重要である。理性だけを正しく働かせれば、同じ理性を備えている他者と同じ理念を共有できる。さらに世界を創造した神の存在構造、世界の設計図を知ることも可能になる。

このようにデカルトは考えました。

超自然的原理がついに人間の内部に

プラトンによって形成されたイデア論は、ヨーロッパ哲学を貫く一本の生命線です。現実世界には存在しない「(超自然的)原理」を設定し、世界を説明(理解)しようとする姿勢は、現代社会にまで続いている思考様式になります

プラトンが「イデア」、アリストテレスが「純粋形相」、キリスト教神学が「神」と呼んだ超自然的原理の設置場所が、デカルトの登場によって“人間”に設定されます。あくまでも神のサポートが必要ですが、ついに人間が超自然的原理、つまり世界の支配者としてポジションを占めることになるのです

数学的自然科学の形成

14世紀のルネサンス時代に入ると、ギリシア・ ローマの古典が再発見され、またアラビアの科学、ユダヤの神秘主義思想などもヨーロッパに流入。多種多様な思想が展開されます。様々な思想が入り乱れ、百花繚乱のごとくヨーロッパ文化が咲き乱れることになります。

ガリレオの登場 観察 → 実験 → 研究

そうした展開の中で、ガリレオ・ガリレイのように世界(自然)を数学的に解釈しようとする人々も現れました。コペルニクスやケプラーなどの天文学者もそうです。

自然という書物は、数学的記号で書かれている」と、ガリレオは考えます。

世界は“機械”のように精密な動きをしている。その動きを数学的に読み解くことで「世界の真理」を理解できる。それこそが「自然科学研究の目的である」という信念があったからです。

「世界を数学的に表現する」とは何を意味するのでしょうか。具体的に説明してみます。毎日の天気予報では「今日の最高・最低気温」が表示されます。気温だけではなく、湿度や雨量などあらゆる自然現象が数値で表現されています。

ガリレオの目的は、世界で起きるすべての自然現象を数字に変換することです。世界のあらゆる存在者を数字に置き換えることが、数学的自然科学の目的であり、神の真理に近付ける営みである。このようにガリレオは考えたのです。天才レオナルド・ダ・ヴィンチも力学に関しては、数学的表現の重要性を強調します。「(力学こそ)数学的科学の楽園」 と主張するのです。ダ・ヴィンチの方向性をさらに徹底したのがガリレオになります。

自然を単に「観察」するのではなく、能動的な「実験」によって自然に働きかける必要がある。実験からもたらされた結果を「研究」し、数字に置き換えることで、はじめて世界の実像(真理)を理解したことになる。

このようにガリレオは考えました。ガリレオによる最大の功績は、数学的(機械論的)な自然科学の方法論を確立したことになるでしょう。

数学論的自然科学への疑いとキリスト教

しかし、ガリレオが主張する数学的自然科学を疑う声も存在しました。世界(自然)はあくまで私達人間の“外側”にあります。「人間の外側で起きる自然の現象をどこまで正確に理解できるのか」という疑問です。例えば、温度について。「暑い」「寒い」と人間が感じるのは、感覚的(肉体的)な部分になります。

暑いと感じる人もいれば、平気な人もいるため、あくまでも人間の主観的な部分に委ねられてしまいます。ここから「人間が持つ感覚は曖昧な部分があるため、自然(世界)を普遍的に説明することは果たしてできるのか?」という指摘が出てきます。

またキリスト教の教義に反する、という声もありました。世界を「数学的(論理的)」に説明することは「神を必要としない世界」に繋がってしまう可能性があるからです。

ヨーロッパでは長年にわたって「天動説」が信じられてきました。天動説とは「地球を中心として他の天体は回っている」という考え方です。しかしコペルニクスは「太陽を中心に他の天体が回る」地動説を主張。今では当たり前の理論ですが、当時のヨーロッパに大きな波紋を引き起こしました。

イタリア人のジョルダーノ・ブルーノは、コペルニクスの地動説を支持。ローマ教会から火あぶりの罰を受け、処刑されています。

ガリレオも自身の研究結果から、地動説を確信します。しかし宗教裁判にかけられ、地動説を放棄する書類に署名をさせられました。このとき「それでも地球は回っている」という言葉は有名です。ローマ教会がガリレオの名誉を回復したのは1992年になります。

デカルトのよる方法的懐疑の目的

「数学的自然科学への疑い」「数学的自然科学とキリスト教との対立」…。

この状況に対応するため、デカルトの課題は2つありました。

・数学的自然科学の普遍性を証明すること

・数学的自然科学とキリスト教的世界観の折り合いをつけること

この課題を解決するために、デカルトが考えたのが「方法的懐疑」になります

「私は考える、ゆえに私は存在する」の「私」とは何か?

私は考える、ゆえに私は存在する

デカルトの主著である『方法序説』。この有名な言葉の意味は、以下の通りです。

世界に存在する全ての存在を疑い、どんなに否定しても、疑っている「私自身」の存在は否定することができない。

このようにデカルトは考え、哲学による普遍的存在論の出発点を「私」に定めます。では「私」とは、具体的に何を意味するのでしょうか?

まずデカルトは、人間を「肉体(自然)」と「精神(理性)」に区別します。そして「私」は「肉体と理性」のどちらに属するのか、デカルトは考察を進めます。『方法序説』において「あらゆる存在を疑い、否定した私」は、目に見える物質的なものではない。そのため「私」は存在するための「場所」も必要としない。「私」は物質的な肉体(自然)に属するのではなく「理性」の側にある。これがデカルトの結論になります。

もっと簡単に言えば、人間の存在にとって価値があるのは「理性」です。「肉体(自然)」は偶然に付属しているただの物体です。「理性」と「肉体(自然)」は完全に分離可能であり、肉体(自然)がなくても理性はそれだけで存在できる。

デカルトが考える「理性」は、自然を超えた存在(超自然的原理)であり、まさに神から与えられた能力なのです。

「私」=理性 理性=神 神=普遍性

数学的自然科学の普遍性を証明するため、デカルトは「神」を持ち出します。デカルトの神に対する考え方は、先程確認しました。

神は「世界」を創造し「人間」も制作した。人間に備わる「理性」は神からのプレゼントである。つまり「世界」と「人間の理性」は「神」を媒介にして繋がり(連続性)がある、ということです。

数学的自然科学は「人間の理性」を用いて世界の真理を解こうとする営みです。この営みは神の一部である「人間の理性」によって答えが導かれるのだから、数学的自然科学には普遍性があることになります

また神は世界を創造した存在です。ここからデカルトは「数学的自然科学は、理性によって神の世界設計の意図を理解する試みである」と結論付けます。そのため、数学的自然科学はキリスト教の教義にも違反しないことになります。

このような論理によって「数学的自然科学における普遍性の証明」「数学的自然科学とキリスト教的世界観の折り合い」という、2つの課題をデカルトは解決しました。

まとめ

オランダで数学研究を続けるデカルトですが、1649年スウェーデン女王クリスティーナに招かれることになります。極寒のストックホルムで女王のために講義などをしますが、肺炎にかかってしまい、1650年に亡くなりました。53歳でした。

ここまでの内容を簡単にまとめます。

・私達の世界は神によって創造された。

・人間の理性は神からのプレゼントである、とデカルトは考えた。

・14世紀のルネサンス時代、全ての自然現象を数字によって表現する「数学的自然科学」が、ガリレオらによって確立した。

・デカルトは数学的自然科学の普遍性を証明するために、方法的懐疑を考案した。

・デカルトは人間を「肉体(自然)」と「精神(理性)」に区別し、精神(理性)にのみ価値を置いた。

・神は世界を合理的に作り、人間の理性は神の一部である。そのため理性を用いた答えを導き出す、数学的自然科学には普遍性があると主張した。

・数学的自然科学は、神による世界の設計図を理解することにもなるため、キリスト教の否定には繋がらない。

数字に対する盲目性

GDP(国内総生産)は「国の豊かさ(幸福度)」を表す経済指標として有名です。しかしGDPを考案したアメリカの経済学者サイモン・クズネッツは「GDP=国の豊かさ(幸福度)」という考え方には疑問を持っていました。

1930年代のアメリカで、クズネッツは大恐慌からの経済回復を把握するために、GDPを計算する手法を開発しました。しかし彼はGDPには限界があり、国民の厚生や福祉に「関係するもの」と「関係しないもの」が混在していることを指摘しています。

1940年代に入ると、アメリカは第二次世界大戦への参戦を検討し始めました。当時のアメリカ国内では、第二次世界大戦への参戦について、国民の意見は真っ二つに分かれていました。参戦を希望していたフランクリン・ローズヴェルト米大統領は、戦争準備や防衛支出を増やすためにGDPを利用します。軍事支出をGDPに含めることで、戦争準備や防衛支出が経済成長に貢献する、という印象を国民に与えるためです。

クズネッツは軍事支出を含めた計算方法に反対し、GDPは国民の厚生や福祉に関係するものだけで計算すべきだと主張。彼はGDPは国家の戦争能力を測るための指標である」と皮肉を込めて発言しました。

この歴史から引き出せる教訓は「数字は必ずしも世界の真実を示すとは限らない」ということです。使い方を間違ってしまった場合、人々を誤った方向に誘導してしまう恐ろしい力があります。

GDPの数値が上昇し生活が豊かになれば、人類の幸福度も上昇する。この神話に盲目的に従い、現代社会は作られてきました。確かに物質的には豊かになりましたが、私達は果たして幸福を達成したのか、深く考えてしまいます。

「メディアによって提示された統計結果の目的は何なのか」「この指標は本当に人を幸せに導くものなのか」…。今こそ根拠のない数字への信仰を考え直す時代に来ているのではないでしょうか。

(参考文献)

木田元(2010)『反哲学入門』新潮社

著者
元, 木田
出版日

書籍紹介

上野修(2011)『デカルト、ホッブズ、スピノザ − 哲学する17世紀』講談社

著者
上野 修
出版日

著者の上野修先生は、大阪大学教授でスピノザ研究の第一人者です。近代哲学の祖とされるデカルト、ホッブズ、スピノザの思想を、機械論的な世界観から分析したのが本書になります。どんな時代背景や文化的な影響を受けて、3人の哲学者が思想を形成したのか詳しく説明されています。またドゥルーズやラカンなどの現代の哲学者や思想家の見解を参照しつつ「17世紀の哲学が現代の私たちにどんな示唆を与えてくれるのか」についても考察しています。

フッサール(2001)『デカルト的省察(浜渦 辰二訳)』岩波書店

著者
["フッサール", "浜渦 辰二"]
出版日

1929年にパリで行った講演をもとにしたものが本書になります。「現象学」を説いたフッサールは、デカルトの理念を現代哲学で復活させようと試みます。フッサールは、デカルトの精神を復権させつつ、デカルトを越えて超越論的現象学へと進むという「新デカルト主義」の主張を展開しますデカルトの『方法序説』と本書(『デカルト的省察』)を同時に読むと、2人の問題意識はぼほ同じであることが確認できます。デカルトから始まる近代哲学の流れを批判的に継承しつつも、現象学を確立したフッサールの思想は、今日の私たちにも多くの示唆を与えてくれます。内容は難しいですが、ぜひチャレンジしてほしいと思います。

ダイアン・コイル(2015)『GDP〈小さくて大きな数字〉の歴史』(高橋璃子訳)みすず書房

著者
ダイアン・コイル
出版日
2015-08-26

経済学者のダイアン・コイル先生が、GDP(国内総生産)という指標の起源と変遷、そして現在の問題点をわかりやすく解説してくれた本です。GDPは、国の経済活動や成長を測るために考案されたものですが、その計算方法や意味合いは時代や場所によって変わってきました。GDPを考案した経済学者のクズネッツは「国民の繁栄を測る上で軍事費などをマイナス要素として考慮するべき」であると提案しました。しかし第二次世界大戦に対応していたホワイトハウスは、戦争に勝利するためには軍事費を増やす必要があり「軍事費を増やす=GDPが減少する」ことは好ましくないと判断しました。その結果として、現在のGDPも軍事費などを含めて算出されることになったそうです。本書では、GDPがどのようにして生まれたのか、どんな人たちが関わったのか、どんな課題や批判に直面しているのかなどを、豊富な事例やエピソードを交えて紹介されています。

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