本好き芸人でnote芸人でもある、レッドブルつばささんによるブックセレクトコラム「今月の偏愛本 A面/B面」がスタート!B面では、新旧・ジャンル・話題性に囚われずレッドブルつばささんが「今読んでほしい!」と思う本を自由におすすめしていただきます。 第2回は決して得意ではないという「ホラー」ジャンルから、『かわいそ笑』という小説をおすすめします。(編)
読者が参加することによって完成する体験型ホラー小説
私はホラーが苦手だった。
昔から怖がりで、小説や映画やドラマでも怖そうなシーンがあるものは極力避けてきた。
『千と千尋の神隠し』を初めて観たのは二年前で、『世にも奇妙な物語』はいまだにきちんと観たことがない。
それぐらい怖いものを避けてきたが、知人が“笑いと恐怖は紙一重”と述べていたことがきっかけでホラー映画を少しずつ観るようになった。
確かに実際に観てみると、登場人物が恐怖に陥れられるシーンでも「これをお笑いライブのネタとしてやればウケそうだ」と思うことが多かった。
反対に、今まで笑っていたコントなどもホラー映画として発表すれば、恐怖を感じるものも多い気がする。
笑いと恐怖はやはり紙一重、本質は同じなのだと思った。
私は段々とホラーに惹かれていった。
しかし、ホラー映画を観るのは怖い。
ホラーだから怖いのは当たり前だけど、ホラーをいくら観ても怖いものが怖くなくなるわけではない。怖がりなままで勇気を振り絞って観ているだけだ。
特にホラー映画は事前の情報だけでは“どのように怖いのか”が不透明な場合が多い。
私はいわゆるジャンプスケア(観客を驚かせるために、いきなり大きな音や何かを出現させる技法)が苦手なのだが、ジャンプスケアを多用しているホラー映画は多い。
映像ではない別ジャンルでホラーはないか、と探しているうちに本書に出会った。
私が本を読む理由は様々だが、大きな理由の一つに“感情を動かされたい”というものがある。
壮大な冒険譚に胸を躍らせたいし、切ない物語に涙を流したい。
実生活では得られない感情を、読書を通して体験したいから本を読んでいる。
恐怖は、人間誰もが持っている感情だ。
怒りや恐怖のような感情は一般的にマイナスだと思われているし、自分でもそう思う。
だが、喜びや楽しみのようなプラスと同じぐらい、場合によってはそれ以上に感情が動かされることがある。
本書は決して“物語”で感情が動かされる内容ではないが、確実にあなたの感情を揺さぶり動かしてくれるはずだ。
- 著者
- 梨
- 出版日
インターネット上に出回る様々な怪談。
とある掲示板、インタビュー、心霊写真、メール、ブログ、ウェブ小説……
その中で特定の「あの子」が被害に遭う怪談がいくつも出回っていたのだった。
本書はいわゆる分かりやすい“小説”の形式を取っていないので、最初は少し違和感があるかも知れない。
冒頭に説明が入る。
本書は、筆者がこれまでに収集してきたいくつかの話をもとに、中短篇として再構成したものです。(中略)また本書の性質上、実在する(あるいは実在した)ウェブサイトやファイルデータ、書籍などについての言及や、それらからの引用により構成された箇所が複数存在します。
著者はインターネットを中心に活動をしていて、ウェブ媒体で怪談をいくつも発表している。その中でも、ウェブならではの手法を取り入れているが本書でもその特徴は色濃く出ている。
特に2000年代のインターネット黎明期の文化に馴染みのある人は、そのリアルさに懐かしさを覚えるだろう。
匿名掲示板や個人サイトの“実際の書きこみ”といったものが多々登場するのだが、自分は実際にそれを見ていないはずなのに、「見ていた気がする」という錯覚が起こりそうになる。
かつて、自分が見ていた膨大な掲示板の書き込みに実は同じものがあったかも知れない、と思いそうになるリアルな手触りが読者に現実と虚構の境目を曖昧にしていく。
ちなみに私は前述の通り怖いものが苦手だったので、本書に登場するような「怖い体験を語りましょうスレ」のようなものには出入りしていなかったが、それでも“当時の掲示板の雰囲気”は充分わかるので非常に懐かしい気分になった。
だが、懐かしいと同時にインターネットが「よく分からないものだった」というじんわりとした恐怖も同時に思い起こされた。
私がインターネットに触れ始めたのは小学生の頃だったが、当時はインターネットに対する知識がなかったり具体的にどういうものなのか分からないということがあった。
そして、そういったインターネットの不透明な部分、不慣れな部分をギミックとして扱ったインターネット上のホラー作品がいくつか存在していた(「赤い部屋」など)。
人間は、本能的によく分からないものに恐怖を感じるものだと私は思っている。
知り合いが誰もいない不慣れな土地に来た時に不安を感じるように、インターネットの不慣れな部分を恐怖に変える手法は今思うと理にかなっている。
本書はインターネットそのものではないが、当時のインターネットのよく分からないものに対する恐怖を内容に組み込んでいる。
こう書くと「当時のインターネット文化を知らなければ楽しめないのか」と思われるかもしれないが、決してそんなことはない。
あくまで、インターネットは読者をよりリアルに恐怖させるためのギミックとして存在するだけで、その文化に馴染みがなくとも恐怖できる(楽しむことができる)構成になっている。詳しくは次に述べる。
当たり前の話だが、本は自分でページをめくらなければ話が進まない。
映像と違い“自分で動く”という能動的な部分に読書の面白さの理由がある。
映画やドラマは一度始まれば、視聴者の状態に関わらず自動的に話が進んでいく。
途中で席を立ったり眠ったりしてしまっても、変わらず進んでいくそれらのエンタメは受動的なものだと言えるだろう。
一方、読書には能動的にならなければ話が進まない。
映像と違い、自分が話を進めていくのだ。
その“自分が話を進める”という行為自体がこの本の重要な部分になっている。
本書の1ページ目に不思議な部分がある。
QRコードと〈本ページに限り無断複製、転載を認可します。〉という文字。
当然、読者はそのQRコードを読み取ってみるだろう。
是非、実際に手に取った際に試してもらいたいのだが、読み取った先にとあるページで読者は選択を迫られる。
その行為をするか、しないか。
どちらを選んでも物語に直接影響はない(と思いたい)のだが、その時点で読者はこの本がただの受動的なエンタメ作品ではないことに気づく。
自分がこの作品に“参加している”という感覚になるギミックは、他にも用意されているのだが、基本的にはページをめくるという行為自体が参加していることになる。そこに関してはインターネットの知識の有無は関係ない。
冒頭に書いた通り、私はホラー作品の中でもジャンプスケアが使用されているものは苦手なのだが、当然ながら本にはその技法は使われていない。
それでも、この本を読み進めていくうちに感じる恐怖は映像では味わえないものだと思う。
小説を読むときは情景描写などを自分の頭で想像しながら読むことしかできない。
具体的な挿絵があるならまだしも、文字だけしかないとその恐怖の描写も自分で想像する。
当然、全員が“全く同じ風景”を想像することはできない。
想像力は人それぞれで、育ってきた環境によってその風景は変わっていく。
そして、それは人それぞれだからより恐怖を感じるのだ。
無意識のうちに“自分の頭の中にある最も怖い風景”を描いてしまうからこそ、具体的な怖い風景を描いて私たちに見せてくる映像のホラー作品とは違う怖さを感じることができる。
じわじわと恐怖が浸食していき、自分の日常の中に気が付いたら入り込んでいて、気が付いたときにはもう後戻りできないところまで行ってしまう。
一気に感情がドンと動かされるような作品ではないが、少しずつ確実に恐怖が全身を包んでいき、感情が動かされていく。
最近、体験型コンテンツの人気が加速しているように感じる。
ボードゲームやリアル脱出ゲームなど、受動的ではなく自分もエンタメに参加している、という感覚になりたいという人が多いのだろう。
読書は古くから存在するエンタメなので、それらに比べると見劣りするかも知れないが、本書はれっきとした“体験型コンテンツ”だと思っている。
読書が能動的なエンタメだということは前述したが、本書はさらにその先に行っている。
そして、これは読書でなければ味わえない体験でもあるのだ。
ホラーが苦手という人の気持ちも充分わかるのだが、最初のハードルさえ乗り越えれば唯一無二の読書体験ができることは約束できる。
その体験をして良かったかどうかの保証は決してできないが。
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