5分でわかる「生」|人間は機械!? それとも…|元教員が解説

更新:2026.5.18

「生」の対義語は「死」になります。人間を含めた生物(生命)は、なぜ生きようとするのでしょうか。そしてなぜ生物のなかで人間だけが、自ら命を絶つ選択をするのでしょうか。人間にとって「生きている」というのは「ただ心臓が動いて血液が循環する」という生物的な意味だけではなく、哲学的な問いでもあります。 今回は「生」について考えたいと思います。

大学院のときは、ハイデガーを少し。 その後、高校の社会科教員を10年ほど。 身長が高いので、あだ名は“巨人”。 今はライターとして色々と。
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古代ギリシアにおける「自然(フュシス)」

世界最古の哲学者たちは「ソクラテス以前の哲学者(フォアゾクラティカー)」と呼ばれています

この世界を成り立たせている、万物の根源であるアルケー」を探し求めたと言われています

 彼らは世界全体を「自然(フュシス)」と捉え「世界は生成するもの、生命的なもの」と考えたのです。人間も自然の一部であるとし、自然(フュシス)に支配されている存在であると考えました。

このあとプラトンによって「ソクラテス以前の哲学者」の思想とは相反する「イデア論」が飛び出すことになります。しかし、弟子であったアリストテレスによってプラトンの思想は修正されることになります。

※プラトンの思想は、のちほど解説するニーチェのところで詳しく触れます。またプラトンに関しては「5分で分かるプラトン」もありますので、興味のある方はご覧ください。

5分で分かるプラトン|ヨーロッパ哲学はプラトンの脚注である|元教員が解説

5分で分かるプラトン|ヨーロッパ哲学はプラトンの脚注である|元教員が解説

イギリスの哲学者であるホワイトヘッドはこう言います。 「西洋の全ての哲学はプラトン哲学への脚注に過ぎない」 この言葉には「ヨーロッパ哲学はすべてプラトンの影響下にあり、プラトンから逃れることはできない」という意味が込められています。 「民主主義」や「資本主義」また「共産主義」など、人類の長い歴史を通じて、数々のイデオロギーがヨーロッパから生まれました。つまり、ヨーロッパ発祥のイデオロギーには「プラトンの思想が大なり小なり含まれている」という考え方ができるわけです。ヨーロッパとは関係のない私達であっても、民主主義や資本主義の社会に暮らしている以上、プラトンからは大変な影響を受けていることになります。 今から2000年以上前の哲学が、現代社会にも大きな影響を与えている。こう考えると、単純にすごいことですね。 今回はプラトンの思想をなるべく分かりやすく説明したいと思います。 プラトンといえば「イデア論」が有名ですが、当時の社会的背景を念頭に置いて理解する必要があります。そのため古代ギリシアの歴史にも少し触れつつ、プラトンの思想に迫っていきましょう。

アリストテレス

アリストテレスは哲学者であると同時に、生物学者でもありました

彼はあらゆる生物を観察し「生物は自らを動かす(運動させる)エネルギーを“内側”に宿しているもの」と主張します。

ここから生命と非生命の違いは、運動の原因(エネルギー)が「外側にあるか、内側にあるか」になります

アリストテレスは、あらゆる存在物には「形相的側面」と「質料的側面」があると考えました。生物で例えた場合、身体の「質料」と魂の「形相」によって構成されていることになります。この魂は人間だけに備わっているのではありません。植物の魂は栄養の摂取、成長、生殖の機能を持ち、動物の魂はさらに感覚や運動の機能を持ちます。

そして、人間が持つ魂は植物や動物に加えて「理性(ロゴス)」という機能を持っています。人間は理性を持っているため、言語を使用することができるのです。

アリストテレスの場合は「形相」と「質料」を切り離して考えることはできません。この点に関しては、近代哲学の父であるデカルトの思想と決定的に異なるところです

彼は「形相と質料」の構造に「成長」という要素を付け加えます。カエルの卵(質料)には、カエルへと成長する「形相」が含まれています。

アリストテレスは形相と質料」を「可能態と現実態」という言葉に置き換えます。この理論であれば「カエルの卵→おたまじゃくし→カエル」という「可能態から現実態」に成長する生物の在り方を正確に表現することができます。

世界全体は自然的(生命的)原理に基づいて成立している、とアリストテレスは考えたのです。

機械論的自然観を説いたデカルト

近代哲学の父であるデカルトは、 数学的自然科学の目覚ましい発展に適した自然観を構築しようとしました。アリストテレスに基づいた伝統的な自然観は、世界全体を生命的(自然的)なものとして理解しました。

しかしアリストテレスの自然観に従うと、自然を数値化するなど、世界の数学的な理解に障害が生じるためです。現代では当たり前ですが、私たちは「温度」という数字を通じて、暑さを感じます。数学的自然科学とは世界(自然)のあらゆる存在を数値化することなのです。

デカルトは自然を徹底的に機械的なものであると考えました。自然はただの物体でしかなく、植物には魂など存在しないし、動物もただの複雑な機械でしかないとします。つまり、世界に存在する植物や動物は魂を持たず、世界(自然)を認識する人間にのみ、魂(理性)が存在する、とデカルトは考えます。

 このデカルトの思いが「私は考える、 ゆえに私は存在する」という言葉によって表現されることになります。

ニーチェによる力への意志

19世紀後半から20世紀にかけて生じた「生の哲学」は、デカルトによって形成された機械論的自然観を克服することが目的でした。簡単にいうと「古代ギリシアの自然観を取り戻そう」になります。

その先駆者がニーチェになります。ギリシアの古典文献学者として出発したニーチェは、 ショーペンハウアーの「生への意志」に影響を受け、ソクラテス以前の哲学者やアリストテレスに基づく「自然(フュシス)」 の思想を取り入れた独自の哲学を形成します。

それが「力への意志」という考え方になります

ニーチェによると、人間には「ただ生きたい」という自己保存の欲求だけではなく「自分をより高めて、強くなりたい」という成長への欲求があります

現在の自分が持っている力よりも、 もっと強い力を得ようとする意志が「生の本質」を形成しているというのです

プラトンのイデア論がヨーロッパのニヒリズムを生み出した

しかしプラトンのイデア論によって「力への意志」が弱体化してしまったと、ニーチェは言います。

本来の世界(自然)は絶えず生成し、次々と変化を繰り返しますが、イデアは永遠不変の同じ形・状態を保ち続けます

イデアは「世界に本来ならば存在しないもの、自然を超えたもの」という意味で「超自然的原理」あるいは「形而上学」と呼ばれます

超自然的原理であるイデアは「不自然」な存在である、とニーチェは言います。この不自然な思考パターンがヨーロッパの歴史を長く貫き、ヨーロッパの文化を形成してきたのです。

キリスト教においても「民衆のために世欲化されたプラトン主義プラトニズム)」であり、ヨーロッパ哲学さえもプラトン哲学の書き直しに過ぎないと言うのです。プラトンに基づくヨーロッパ文化は合理主義に偏り過ぎてしまい、ニーチェによれば「生」の能動的、衝動的な側面、つまり「力への意志」を軽視してきたというのです。

その結果が「ヨーロッパのニヒリズム」になります

・プラトン主義(プラトニズム)は、人間の画一化をもたらし固定的な枠に押し込めてしまう。

・そして、人間が本来持っている「力への意志」を減退させてしまう。

このようにニーチェは言うのです。

彼が「神は死んだ」と宣言した背景は以下の通りです。

・イデアのような超自然的原理を否定し、古代ギリシアで展開された自然観を復活させる

・この復活を通じて、ヨーロッパ文化の転換を図る

上記のような目的がニーチェにはあったのです。

※詳しくは「5分で分かるニーチェ」をご覧ください。

5分でわかるニーチェ|ヨーロッパ哲学の破壊を試みた哲学者|元教員が解説

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ヨーロッパの近代哲学はデカルトによって始まります。デカルトは神との関係性から、理性の正しさを証明しようと試みます。デカルトは我々に備わっている理性は「神から与えられたプレゼント」であるとして「我々人間の保護者として、常に神がいるため理性は正しく作用する」と主張します。 デカルトを継承したカントは、人間と神との関係性を排除しました。カントは「神の保証がなくても、世界を合理的に認識できる力」を理性に与えたのです。さらにヘーゲルは「理性の進歩」を主張します。理性に従いながら「理想的な社会を作る力」まで人間に約束したのです。 しかし現代の社会はどうでしょうか? 様々な課題がありますが、特に環境問題は深刻です。今後、人類が地球に住むことすら怪しくなりつつあります。また近年の世界情勢の緊迫化に伴い、核兵器の使用が現実味を帯びてきています。人類の終わりは近いかもしれません。

ベルクソンの「純粋持続」

フランスの哲学者であるベルクソンにおいても、理性に偏った近代哲学の批判を展開します。

ベルクソンによると、世界とは様々な要素がダイナミックに入り乱れるカオス、つまり混沌とした状況を意味します。しかし全体として俯瞰すると、相互に関連し合いながら美しく機能し、持続している不思議な状態です

これを「純粋持続」と言います

人間の理性は、混沌とした世界を整理整頓します。そして世界を簡単に理解し、分かりやすく説明するため、世界を「加工」します。例えば時間は「過去・現在・未来」が互いに融合したり、関連し合うことで、私たち人間の前に体験として現れます。

簡単に説明すると、私たちは過去の失敗を教訓にして、未来に生かそうとします。過去と未来が別々にあるのではなく、私たちの前に“同時発生的”に現れて影響し合い、私たちに強烈な体験をもたらすのです。

ベルクソンは、理性によって加工される以前の体験を「純粋持続」と言うのです

理性は、本来(純粋持続)の時間を空間化し、平面に並べて直線的に表現しようとします。この理性の働きによって、数値化された物理学的時間が算出されるようになります。

数学的自然科学とは、世界の認識を「混沌(複雑)から単純(シンプル)に」「時間を空間」に置き換えます。本来ならば測体できない存在を、無理に数値化しようとするのが、理性の働きになのです

理性によって複雑な世界をシンプルにする作業は、たしかに便利さをもたらします。人間は自らの生活を予想したり、快適に暮らすため、世界の固定化と数量化を必要とします。また記号や言語も他者とのコミュニケーションに大きく寄与しています。

しかし理性主義の傾向が強くなるほど、理性によって加工された「分かりやすい世界」が「本当の世界」である、と私たちは勘違いをしてしまいます。この誤った認識によって、本来の人間が備えるダイナミックな生命力も失われしまう、とベルクソンは主張しました。

理性によって表現された世界は、あくまでも理性による「フィクション(仮の姿)」でしかありません理性の働きは世界を平準化、固定化してしまい、本来の激しいダイナミックな世界の姿が歪められてしまうのです

このようにベルクソンは言います。

人間は理性による「フィクション」ではなく、もっと深い場所にある「純粋持続」を捉えるため、人間にある「内的な直感」に頼らなければならないとしました

理性を重視する観念論、また物質の存在を重視する実在論も、人間の根源的な世界(純粋持続)を捉えていないとして、ベルクソンはヨーロッパ哲学への批判を展開したのです。

ディルタイの解釈学

ベルクソンとは違うアプローチによって「生」を捉え直そうとしたのがディルタイです。

生」は人間の“内側”だけで機能するのではなく、他者や社会など“外側”にある世界にも影響を与える、と彼は考えます。

「生」の衝動が外側に表出する働きを、ディルタイは「表現」と呼びます。芸術や学問、音楽など様々な形や方法で、人間は昔から表現を繰り返してきました。

この人間による表現を新しい視点で捉え直す試みが、ディルタイの「解釈学」です。

この解釈学の作業はこのような流れです。

自分自身の内側で体験したものを、表現として形とすることで、他者がその表現を受け入れます。そして自分自身の体験が他者の内側で“追体験”されるわけです。

難しい説明で申し訳ありませんが、私たちが小説や映画で涙を流すのは、まさに他者の表現を自分の内側で追体験しているからです。だからこそ、自分が実際に経験していない物語でも、私たちは自分が体験したかのように感じ、涙を流すことができるのです。

合理主義者が考えるように、人間の表現は必ずしも「理性(合理)的」ではなく、感情や意志といった「非合理的」な部分も多く含まれています。しかし人間は合理的ではないものの、まったくの無秩序というわけではありません。もし全てが無秩序であれば、他者の表現に感動することはないからです。

人間には個人的な体験に限定されない、他者と生(表現)を共有できる構造が含まれています感動するということは、その表現には涙を生じさせる何か普遍的な要素があるはずです。そのため私たちは、芸術や歴史、物語を他者と共有できるのです。

自分の体験と理解を基礎にして、他者の表現を追体験(共有)する作業を通じ、その普遍的な要素を導き出そうとする学問が「解釈学」になります。

ベルクソンの「純粋持続」やディルタイの「解釈学」は、現象学を提唱したフッサールやハイデガーに影響を与えました。

まとめ

混沌とした世界の有り様を、なるべく分かりやすく説明する努力を哲学は長年してきました。しかし世界がシンプルになり過ぎてしまい、人間の生きる力(力への意志)が減退し、ニヒリズムにおちいってしまったことは皮肉な話です。

「シンギュラリティ(技術的特異点)」という言葉が、現在しきりに言われています。人工知能(AI)などの技術が、人間の知能を超えてしまう臨界点を意味します。

「Chat GPT」など、人工知能の発達スピードに恐怖すら感じてしまう昨今。従来の人間観が崩れている今だからこそ、改めて「人間とは?」「生きるとは?」という哲学的な問いが重要であると感じます。

(参考文献)

木田元(編)(2004)『哲学キーワード辞典』新書館

著者
元, 木田
出版日

書籍紹介

村上春樹(2004)『ノルウェイの森』講談社

著者
村上 春樹
出版日
2004-09-15

村上春樹さんによるベストセラーになるため、読んだ方も多いかもしれません。しかも哲学書でもありません。しかし「生きることは何か?」という哲学的な問いを痛烈に問いかけてくれます。「死は生の対極としてではなく、その一部として存在している」という小説の一説は、まさに“哲学”ですね。

セネカ(2017)『人生の短さについて 他2篇』(中澤務訳)光文社

著者
["セネカ", "中澤 務"]
出版日

古代ローマ帝国の政治家であり、哲学者だったセネカによるに人生訓になります。「文句を言う時間があるなら、その時間で自分を高める努力をしろ」など、厳しいですが現代にも通じる教訓が散りばめられています。ところどころで上から目線で語っている箇所もありますが、なぜか嫌味に感じずクスッと笑ってしまうのが不思議です。

吉野源三郎(2017)『君たちはどう生きるか』マガジンハウス

著者
吉野源三郎
出版日

ジャーナリストでありながら、児童文学作家でもあった吉野源三郎さんによる熱いメッセージが込められています。「クラスのいじめ」や「貧困」など身近な問題が題材になっているため、哲学的な問いを自分に置き換えて考えることができます。お子様へのプレゼントとしてもオススメです。

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