日常生活の中で、私たちは言葉を自由に操っていると感じています。しかし私たちは、言葉によって嬉しくなったり、傷付いたりします。 また横暴な性格の人は、やはり攻撃的な言葉を放ったり、無神経な行動を取る傾向があります。 このように考えると、人間は言葉に大きな影響を受けており、むしろ言葉に支配されている存在であるとも言えます。 ウィトゲンシュタインは言葉と人間の関係性を深く考えた哲学者です。今回はウィトゲンシュタインの哲学を見ていきたいと思います。
ウィトゲンシュタインは、20世紀を代表する哲学者の一人として知られています。
彼の文体はとても独特で、極めて簡潔かつ凝縮された表現を特徴としています。
ウィトゲンシュタインの文体は、日本の俳句や短歌に通じるものがあるかもしれません。
「語りえないことについては、沈黙しなければならない」という有名な一文は、彼の哲学的立場をストレートに表現しています。
余韻を残す断定的な表現が、読者の想像力を刺激し、深い思索へと導くからです。
このような文体を選んだ背景には、言葉の限界に対する深い洞察があったからでしょう。
ウィトゲンシュタインが重要な課題として取り上げたのは「言語」そのものでした。
なぜ言葉に注目したのかを理解するには、人間の思考過程について考える必要があります。
私たちは日常的に「考える」という行為を行っていますが、この「考える」という行為は、実際には言葉を使って行われています。
つまり思考とは、言葉という記号を適切に組み合わせる作業なのです。
私たちが日常生活で使う「愛」という言葉を考えてみましょう。
「愛している」と言うとき、そこには様々な感情や行動が含まれています。
心理学者は「愛」という概念をより詳細に理解するために「親密さ」「情熱」「コミットメント」といった要素に分解して考えます。
同じように哲学では「正義」や「自由」といった抽象的な概念を扱います。
これらの概念を理解し議論するために、哲学者たちは「公平性」「権利」「責任」「自律」など、より具体的な言葦を用いて思考を深めていきます。
このように私たちは、複雑な現象や抽象的な概念を理解しようとするとき、より明確な言葉を用いて思考を組み立てているのです。
そして言葉を適切に選び、組み合わせることで、私たちは複雑な現実世界を理解し、他者と共有できる形に変換しています。
私たちは言葉を通じて思考し、複雑な現象を理解しています。言葉がなければ、抽象的な概念を扱うことや複雑な問題を分析することも難しくなります。
しかしウィトゲンシュタインは、言葉が生み出す問題を指摘しました。
例えば「ある(存在する)」という一見単純な言葉を考えてみましょう。
日常会話では「服は洗濯機にある」というように簡単に使えますが「神は存在するのか」という哲学的な問いになると、途端に難しくなります。
なぜなら「神」という概念は物理的な存在ではないため、通常の「ある」という言葉の使い方では捉えきれないからです。
ウィトゲンシュタインは、このような言葉の特徴を「言語ゲーム」と呼びました。
言語ゲームとは、言葉によって問題が生まれ、その問題に言葉で答えようとすると、また新たな問題が生じるという無限のループを意味します。
「神は存在するか」という問いに対して「存在する」と答えると「では、神はどこに存在するのか」という新たな問いが生まれます。
そして、その答えがまた新たな問いを生み出す...というように、言葉を使って説明しようとすればするほど、新たな問題が次々と立ち現れてくるのです。
ウィトゲンシュタインの主著『論理哲学論考』は、論理実証主義者たちに大きな影響を与えました。
この著作の中で「哲学の正しい方法は、自然科学の諸命題以外のことは語らないことだ」と主張しています。
なぜ自然科学の命題は語ることができるのでしょうか。
自然科学が世界の現象を客観的に言葉に変換する作業だからです。
例えば「今日は暑い」という主観的な感覚を「気温は35℃」という客観的な表現に置き換えるのです。
世界で起こっている出来事や現象を、自然科学は測定可能で検証可能な言葉に「移し変える」作業を行います。
自然科学で用いられる言葉は明確に定義されており、一貫して使用されるため、曖昧さが少なく誤解も生じにくいのです。
その一方、ウィトゲンシュタインは「倫理的な問題は自然科学の方法では扱えない」と考えました。
善悪の判断は、単純な事実の観察だけでは決定できません。
例えば「AさんがBさんを殴った」という事実があったとしても、この行為が善いか悪いかはすぐに判断できません。
なぜなら倫理的な判断には様々な要素が関わってくるからです。正当防衛のために人を殴った場合、それは悪であると言えるでしょうか。
もう少し考えてみましょう。
これらの要素は置かれた立場や環境によって、また社会によって大きく異なります。
そのため善悪の判断は主観的なものとなり、客観的な事実として扱うことは困難なのです。
さらに同じ行為であっても、置かれている状況によって判断が変わることがあります。
・緊急時の窃盗(食べ物を盗む)は、通常の窃盗よりも許容されやすいかもしれません。
・「平和な社会で発生した殺人」と「戦争など非常時の殺人」では、社会的な受け止め方が異なる可能性があります。
このように善悪の判断は複雑で、多くの要因が絡み合っています。
そのため自然科学のように客観的な事実として扱うことはできず、哲学や倫理学の領域では常に議論の対象となっているのです。
こうした倫理の複雑性を認識し、ウィトゲンシュタインは表面的な言葉や論理だけで善悪を定義する難しさを指摘したのです。
ウィトゲンシュタインは、倫理的な判断が客観的な事実として扱えないことを認識しつつ「哲学は倫理を語ることをやめるべきだ」と主張しました。
哲学が扱うべき対象を論理的に検証可能な事柄に限定しようとする、彼の哲学的立場が示されています。
しかし同時に「世界があるということが神秘的である」とも述べており、客観的に説明できない事柄の存在を認めているような解釈ができてしまいます。
一見矛盾する態度は、ウィトゲンシュタインの奥深さを表しているでしょう。
言葉で明確に説明できる領域(科学的な事実など)と、言葉を超えた領域(世界の存在自体の不思議さなど)の両方を認識していたのです。
「哲学は言葉で明確に説明できる領域に集中すべきだ」とする一方で、言葉を超えた領域の存在も認めていたと考えられます。
ウィトゲンシュタインは単純な二元論ではなく、言葉の限界と可能性を同時に認識する、より洗練された哲学的視点を提供しているのです。
この魅力が今日においても多くの人気を集める理由だと思います。
ウィトゲンシュタインの思想は、20世紀前半における科学的思考の発展と、伝統的な哲学の限界に対する認識から生まれました。
科学技術の急速な進歩により、世界を客観的に理解することへの期待が高まる一方で、形而上学的な問いに対する従来の哲学的アプローチの限界も認識されつつありました。
この状況下においてウィトゲンシュタインは、言葉の役割と限界を鋭く分析しました。言葉を通じて世界を理解することの重要性を説きつつも、言葉だけでは捉えきれない領域があることも指摘したのです。
ウィトゲンシュタインの哲学は、現代の多様化する社会においても重要な示唆を与えてくれるでしょう。
私たちの価値観や考え方は、育った環境や文化的背景によって大きく異なります。
言葉の限界を認識しつつ、言葉を通じてコミュニケーションを図ることの重要性は、グローバル化が進む現代社会においてますます高まっています。
異なる文化や社会的背景を持つ人々との対話において、言葉の使い方や解釈の違いに注意を払うことは、相互理解を深める上でとても重要です。
ウィトゲンシュタインの思想を学ぶことで、私たちは自分の思考や言葉の構造をより深く理解し、より効果的なコミュニケーションを図る方法を学ぶことができるのです。
価値観の多様化が進む現代社会において絶対的な正解を求めるのではなく、異なる立場の調和を認める重要性を、ウィトゲンシュタインが教えてくれているような気がします。
(参考文献)
木田元(1993)『ハイデガーの思想』岩波書店
- 著者
- 木田 元
- 出版日
古田 徹也(2020)『はじめてのウィトゲンシュタイン』NHK出版
- 著者
- 徹也, 古田
- 出版日
NHKの番組内容を書籍化したものになります。難しい言葉は極力排除されているため、哲学初心者でも理解できる内容です。
野矢 茂樹(2006)『ウィトゲンシュタイン「論理哲学論考」を読む』筑摩書房
- 著者
- 中山 元
- 出版日
ウィトゲンシュタイン研究の第一人者である野谷先生による書籍です。大変分かりやすく書かれているにも関わらず、深い部分にも入っていくため、これからウィトゲンシュタインを学ぼうとする人にもオススメです。
ウィトゲンシュタイン(2003)『論理哲学論考』(野矢茂樹訳)岩波書店
- 著者
- ウィトゲンシュタイン
- 出版日
- 2003-08-20
第一次世界大戦に従軍したウィトゲンシュタイン。このときノートに書いた内容をまとめたものが『論理哲学論考』になります。内容は難しいですがページ数は少ないため、意欲のある人はぜひチャレンジしてみてください。