5分で分かるニーチェの人生|自分自身は「超人」になれなかった哲学者|元教員が解説

更新:2026.5.19

「狂気と天才」 この言葉こそが、フリードリッヒ・ニーチェの人生を端的に表現していると言えるでしょう。 ニーチェは自らの苦悩と孤独を乗り越え、人間の存在と価値観を根底から見直すことを模索しました。 その過程の中で「超人になれ」「神は死んだ」という言葉を世に送り出し、ヨーロッパに深い衝撃を与えたのです。 しかし著作で展開される激しい主張とは裏腹に、彼の人生は葛藤と矛盾に満ちていました。 波乱万丈の生き方が、ニーチェの思想を魅力的にしていることは確かでしょう。 今回は、ニーチェの人生を紹介していきたいと思います。

大学院のときは、ハイデガーを少し。 その後、高校の社会科教員を10年ほど。 身長が高いので、あだ名は“巨人”。 今はライターとして色々と。
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ニーチェの人生

1844年、ニーチェはドイツのザクセン州の田舎町に生まれました。父親は牧師でしたが、ニーチェが5歳のときに亡くなっています。ニーチェは祖母、叔母、そして母親、姉という女ばかりの環境で育てられました。

幼少期、ニーチェはキリスト教の信仰を放棄し、母親と大ゲンカしたことがあります。父はルター派の牧師で、ニーチェも将来は牧師になると期待されていたからです。母親は激怒し、ニーチェは家を出て一人暮らしを始めました。

24歳で大学教授に

大学では古典文献学を専攻しています。古典文献学とは、ギリシア語やラテン語で書かれた大昔のテキストを解読・分析する学問です。文献学者としてのニーチェは優秀だったようで、スイスにあるバーゼル大学の教授に抜擢されます。

このとき、まだ24歳でした

ショーペンハウアーとワーグナーに傾倒

青年期のニーチェは、ショーペンハウアーの哲学ワーグナーの音楽に熱狂します。

ショーペンハウアーはドイツの哲学者になり、ニーチェよりも少し先輩です。1860年に72歳で亡くなっています。31歳のときに『意志と表象としての世界』という本を出版。音楽(芸術)を最高のものと考えたため、ニーチェの哲学とマッチしました。

ニーチェの時代には「音楽の神」と呼ばれる人物が生きていました。リヒャルト・ワーグナーです。ワーグナーは1813年の生まれであるから、ニーチェよりもかなり(30歳ほど)年上でした。ワーグナーはバイロイト祝祭劇場という音楽ホールを建設し「ニーベルンゲンの指環」などの超大作を作曲しました。ゲルマンの古代神話をモチーフにしたものが多く、後年ナチスが愛好する音楽となりました。

処女作『悲劇の誕生』

ワーグナーを信奉していた時期のニーチェは、28歳のときに『悲劇の誕生』を出版。ワーグナーに捧げました。この本はニーチェの処女作にあたり、古代ギリシア悲劇に関する内容になります。

古代ギリシア悲劇に登場する神々のなかに「アポロン」と「ディオニソス」という神がいます。アポロンは太陽神で、白昼に生きる神になります。一方でディオニソス(バッカスとも呼ばれます)は、酒(ワイン)とセックスを象徴する神でした。ディオニソスは生命の運動(衝動)や力(意志)を意味する、不気味な流れそのものであり、特定の形を持たない不定形のエネルギーでした。

この不気味なエネルギー運動が、あらゆる生命活動芸術の底に存在する、とニーチェは言います。このディオニソスのエネルギーに、アポロンは一定の形式・理論を与える力となります。この2つの神々(アポロンとディオニソス)による融合が「ギリシア精神を構成する」と、ニーチェは考えました。ニーチェはとりわけディオニソスを評価し、しばしば自分自身を「ディオニソス」と呼んでいます。

ニーチェの処女作はワーグナーを喜ばせましたが、大学の教授や同僚たちからは酷評されます。『悲劇の誕生』は学術論文のスタイルを取らず、ほとんど文学であると判断され、大学の関係者たちには受け入れられなかったのです。

「こんなものは文学であり、真面目な学者のすることではない」と言われたニーチェですが、くじけませんでした。「私は論文を書かない。論文は馬鹿どものためにある」とさえ言っています。古典文献学者たるものは「コツコツと古い文献の解読に努める地味な作業である」という常識がありました。この常識を無視したニーチェは、学会の偉い先生たちから嫌われてしまいます。

ニーチェはワーグナーとも決別しています。ワーグナーが名声を得たことで、ブルジョア化したと感じ、失望したからです。ワーグナーの音楽が、ドイツ民族主義やキリスト教的な要素を含んでいると批判しています。

それでもニーチェはくじけませんでした。彼は自分の文体、文章のスタイルを手に入れたのです。しかし、ニーチェには持病のようなものがありました。猛烈な頭痛が周期的に襲い、目も痛みました。

そして身体的な好不調の波と同時に、交互に訪れる躁と鬱の精神状態にも悩まされます。精神状態は、年を重ねるごとにますます悪いものとなり、授業どころではありません。ニーチェが32歳のとき、大学を一旦休職します。しばらくしても状態は改善しなかったため、1879年に退職。このとき35歳でした。バーゼル大学には、10年ほど在籍したことになります。

※ニーチェの哲学に関しては「5分で分かるニーチェの哲学」で詳しく解説しています。ぜひそちらもご覧ください。

5分でわかるニーチェ|ヨーロッパ哲学の破壊を試みた哲学者|元教員が解説

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ヨーロッパの近代哲学はデカルトによって始まります。デカルトは神との関係性から、理性の正しさを証明しようと試みます。デカルトは我々に備わっている理性は「神から与えられたプレゼント」であるとして「我々人間の保護者として、常に神がいるため理性は正しく作用する」と主張します。 デカルトを継承したカントは、人間と神との関係性を排除しました。カントは「神の保証がなくても、世界を合理的に認識できる力」を理性に与えたのです。さらにヘーゲルは「理性の進歩」を主張します。理性に従いながら「理想的な社会を作る力」まで人間に約束したのです。 しかし現代の社会はどうでしょうか? 様々な課題がありますが、特に環境問題は深刻です。今後、人類が地球に住むことすら怪しくなりつつあります。また近年の世界情勢の緊迫化に伴い、核兵器の使用が現実味を帯びてきています。人類の終わりは近いかもしれません。

大学退職後のニーチェ

大学を退職したあと、ニーチェはどのように生計を立てていたのでしょうか。大学を退職したとき、終身年金をもらっていたという説がある一方、ニーチェ家の財産のおかげで生活できたという指摘もあります。親戚の一人がイギリスでビジネスを成功し、この人が亡くなったときに、ニーチェ家に大きな遺産を残してくれたのだそうです。

ニーチェの恋愛について

生涯独身だったニーチェ。

彼の思想は「強者になれ」「超人になれ」と力強いものでしたが、ニーチェ自身は引っ込み思案な性格でした。特に女性に対しては顕著で、会ったばかりの女性にすぐに結婚を申し込む、という変な癖がありました。結局、このプロポーズ計画が成功したことはありませんでした。

1882年、友人の紹介を通じて、ニーチェはルー・ザロメという女性に出会います。このとき38歳になっていました。彼女はロシア貴族の娘で、ニーチェ哲学のファンでした。

まだ20歳になったばかりの女性に、ニーチェは恋をしてしまいます。内気だったニーチェは、自分の気持ちを直接伝えることができなかったため、友人の男性に仲介を頼みました。ところが、この友人男性もルーに夢中だったため、しばらく不思議な三角関係が続きます。

彼女はニーチェ哲学のファンでしたが、男性としてのニーチェに魅力を感じなかったようです。このあともルーは、多くの哲学者の前に現れては彼らをメロメロにし、そして彼らの前から消えていきました。

※ニーチェとルー・ザロメの奇妙な恋愛模様については「5分で分かるルー・ザロメ」でも詳しく解説しています。興味のある方はぜひそちらもご覧ください。

精神の悪化が増すにつれて…

大学を退職したニーチェですが、彼の精神状態は改善されず、ますます悪化していきました。病気の原因については諸説あります。遺伝的な病気だという説や、学生時代に娼婦と遊んで性病にかかった、という説など様々な指摘があります。

しかし皮肉かもしれませんが、精神の崩壊が進行するにつれて、ニーチェの哲学は深みを増していくことに。ニーチェは次々と代表作を執筆していくのです。

1883年、ニーチェが39歳のとき『ツァラトゥストラ』を発表します。最も有名なニーチェの作品かもしれません

「ツァラトゥストラ」は古代ペルシアの預言者で、ゾロアスター教の開祖になります。世界史の教科書に必ず登場するゾロアスター教は、紀元前6〜7世紀の古代ペルシア(現在のイラン北東部)で成立した宗教です。キリスト教とは異なる、古代の預言者を主人公にして、ニーチェは小説のような思想書を書きました。「神は死んだ」「“超人”として生きよ」という有名なフレーズは、この『ツァラトゥストラ』から飛び出します。

その後も『善悪の彼岸』(1886年)や『道徳の系譜』(1887年)などを次々と発表し、1888年の『この人をみよ』が最後の著作となります。『この人をみよ』の「この人」とは、ニーチェ自身のことです。冒頭部分で「なぜ私はこんなにも賢いのか教えてやろう」と言っています。

1889年1月、ニーチェはついに発狂し、廃人。そして1900年に亡くなります。55歳でした。

亡くなるまでの約10年間、妹のエリーザベトが彼の介護を担当しました。

「ニーチェをナチスに売り渡した女」

ニーチェの伝記にはエリーザベトという妹がかならず登場します

彼女はニーチェより2歳年下の妹であり、36歳のときに反ユダヤ主義の男性と結婚しました。その翌年にはアーリア人種の国をつくるという理想に燃えて、夫と一緒に南米のパラグアイに移住します。

しかし夢は破れ、夫は自殺。1891年、彼女はドイツに戻りました。このとき、ニーチェはすでに廃人の状態でした。

ニーチェの伝記と全集を編集、出版

エリーザベトは兄・ニーチェの代理人となります。世間には兄を崇拝しているように演出し、そして無力な兄を支配しました。エリーザベトは、それなりに学識のある人であったのでしょう。兄についての伝記を書き、兄が書いた哲学全集を編集、出版しました。

しかし彼女はニーチェの手紙や原稿に手を加え、自分の都合が良い内容に書き換えたのです。彼女はヒトラーとムッソリーニを賛美し「兄の哲学の精神はナチスである」と宣伝します。ナチスとエリーザベトとの交流は深まり、ヒトラーやムッソリーニはニーチェ哲学を絶賛しました。

このような背景があり、エリーザベトは「ニーチェをナチスに売り渡した女」と呼ばれることになります。

エリーザベトは1935年、89歳で亡くなりました。彼女の葬儀には、ヒトラーをはじめナチスの高官が列席し、ナチス突撃隊と親衛隊の隊列が彼女の棺を見送りました。

書籍紹介

ニーチェ(2018)『ツァラトゥストラ』(手塚富雄訳)中央公論新社

著者
["ニーチェ", "手塚 富雄"]
出版日

ニーチェの代表作になります。哲学書ではなく小説形式になるため、文学として読めます。哲学の予備知識がなくても、読むことができる作品です。ぜひチャレンジしてみてください。

ニーチェ(2009)『道徳の系譜学』(中山元訳)光文社

著者
["フリードリヒ ニーチェ", "Nietzsche,Friedrich", "元, 中山"]
出版日

中山先生による翻訳がなによりも素晴らしく、分かりやすいです。いきなり読むのではなく、中山先生による解説から読むと、より理解を深めることができます。

ハイデガー(1997)『ニーチェⅠ』(細谷貞雄訳)平凡社

著者
["マルティン ハイデッガー", "Heidegger,Martin", "貞雄, 細谷", "稔, 輪田", "泰一, 杉田"]
出版日

ニーチェに関するハイデガー講義録をまとめた内容です。ハイデガーの著作は難解ですが、講義録は非常に分かりやすく、面白いことで有名です。壮大なスケールで読み解かれる、ハイデガーのニーチェ解釈をぜひ味わってほしいと思います。

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