何本もの細かな皺が、それぞれの方向に入り乱れ、交錯している。引いて引いて縮小された街の地図みたいだ。黄味がかった肌色の地図の上に、ある時小さな茶色が浮かび上がる。
その茶色は徐々に隆起していき、やがてなだらかな地図に小ぶりな山を作った。
これが、イボ。
左手の甲にいつからか小さなイボが出来ていた。
最初、新しいホクロかと思いながら日々経過を眺めていた俺は、そのホクロが本来の姿に到達した時、
「うわ…イボやん」
と思った。
最初の出会いは最悪だった。
俺は撮影現場で心が息切れした時、自分の爪を眺める癖がある。
指を内側に折り曲げ、集結させた両手の爪を順に点検していく。
この動作は数年前の撮影現場でとある俳優さんが、決まって本番前になると見せる仕草だった。
何となくその姿が気に掛かり、俺も本番前に真似てみた。
そうすると外の喧騒が遠ざかり、自分の内側の小さな世界に気持ちがすっぽり入り込む感覚があった。
それからは自分を落ち着けるお守りみたいにして、この仕草を反復した。
しかし、手の甲にイボが現れてからは、爪よりもそちらが気になって、うまく心を調律できなくなった。
生まれた頃から馴染み深い自分の手の甲に現れたそれに何度も目をやっては、その度に悲しい気持ちになった。
少年時代に自分が過ごした地元に帰ったら、都市開発で見知らぬ建物ばかりの風景に様変わりしていたような寂しさだった。
人間の外見は一番外側にせり出た内面だと俺は思うのだけれど、じゃあ突如皮膚に現れたこの黒い点も、俺の内面から滲み出た黒なのかもしれない。
それからもイボは何食わぬ顔で俺の体に居続けた。
物思いにふけり手の甲を見つめる時、爪を切る時、腕に巻いた時計を確認する時、誰かと手を繋ぐ時。
イボは俺の体の一部のはずなのに、どうしても自分のものとして認知しきれない不思議な感覚があった。イボは俺でありながら、圧倒的に俺じゃなかった。俺の中でそれは「異物」であり続けた。
しかしある時、イボとのその歪な関係が、俺に救いを与え始める。
孤独な夜。一人ぼっちの溝に入り込んで眠れなくなってしまった。
俺はベッドに横たわり、止まった時間の中に沈んでいた。
枕の上の重たい頭蓋骨の後ろからは、粘り気のある暗い思考がジワジワと這い出て、脳みその隙間をゆっくりと埋めて行く。
この先、俺が自分の持ち物を少しずつ失って行き、いつか周りから誰も居なくなったら。
空想上のその情景は、俺の瞼の裏に生々しく転写された。耐えられなくなった俺が目を開けると、枕元に添えた左手が目に入った。その時、昼の世界で散々目にしてきたそのイボが、俺を現世に引き戻してくれる感覚があった。
このイボだけは、この先何が起ころうと、そこに在り続けるんじゃないだろうか。
そんな思いが、濁った脳を包み込み、なぜか俺の心は少しずつほどけ、やがて静かな微睡みの底に落ちた。
いつからか爪を見つめる儀式は、イボを見つめる儀式に移り替わっていった。
相変わらずイボは俺でありながら俺じゃなかった。だけどイボを見つめる俺の視線の意味合いが、最初の頃とは違っていた。
彼だけは俺と目を合わせてくれるし、俺も彼の目だけは真っ直ぐに見詰めることが出来た。そんな気がした。
限りなく自分みたいな他人。限りなく地人みたいな自分。
俺はその「異物」を自分の中で密かに「相棒」と呼ぶようになっていた。それまでの俺に友達は居ても、そんな風に呼べる相手は居なかった。
ネガティブもポジティブも、その渦の中を一緒に渡り歩いてきた。
俺たちは二人で一つで、地元じゃ負け知らずで、修二と彰だった。
この先、本当のひとりぼっちになることはない。それが心の楔となった。
もう何も怖がることはない。
どんな震えが体に起ころうと、それを遠ざけるようなことはしなくて良い。
陰でも日向でも、その時の気持ちは、その時にしかない気持ち。
味わって色んな気持ちを知っていけばいい。
自分の形がひしゃげてしまうほどに重力がかかる夜にも、そこから逃れようと足掻く必要はなくなった。粘土みたいに歪んでいく自分の体を、観察して、触って、知って、貴重な体験として味わうことを教えてもらった。
夢は熱が冷めた頃に叶うし、コンプレックスは障壁じゃなくなった時に消える。
兎に角、執着がなくなると、元あった願いが成就するという認識が俺にはあるんだけど、イボも然り、俺にとってかけがえのない存在に変わったところで突然、その姿を消した。
跡形もなく。
どこを探しても相棒の姿は見当たらなかった。
なだらかな手の甲だけが、そこに残されていた。
最後まで俺のそばに居続けるだろうと思っていた存在が、一番最初に居なくなった。
相棒は何の挨拶もなく俺の前から消えた。
「明日、何が起こるかわからない」という月並みな文言が頭の中で鳴り響き、俺の心臓を鋭くつついた。
彼との時間は、読めない世界地図の読み解き方を耳打ちで教わっていく様な日々だった。
最後まで、そのひとかけらを鼓膜に残して、どこかへ消えてしまった。
最初からいつだって俺は独りだったはずなのに、自分の知っている独りとは全く別の独りの中で。
だけどこの場所から逃がれる術を求めて目を泳がせたりは、もうしない。
静かにただ、ひとりぼっちの世界に、自分の足で立っていた。
※この岡山天音はフィクションです。実在する岡山天音のイボはただ左手の甲に現れて、何の感慨も残さずにいつの間にか消えました。
【#1】※この岡山天音はフィクションです。/「岡山天音って本名?」
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※この岡山天音はフィクションです。
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