【#8】※この岡山天音はフィクションです。/混ぜなきゃ危険

更新:2024.2.29

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「あるっすかね?」

自分の口から出た言葉なのに、引っかかりを覚えた。

時代が進むにつれて、言葉は形を変えてゆく。

色々な言葉が簡略化されていき、「マジ?」は「ま?」だし「了解」は「り」だし。

ただ俺はこれまでの人生で「ありますかね?」を「あるっすかね?」と略した事は一度もなかったはずだ。

「っすかね?」までならわかる。「ですかね?」の発音がラフになった場合、そう発語される。

ただそれが「ある」と組み合わさった時、口内の動きを正したとしても「あるですかね?」という言葉遣いになる。変だろ。萌えキャラみたいで。

ただ、言い慣れてはいなかったが聞き覚えはあった。

ラブ&ベリーがいつもそういう言葉遣いをする。

ラブ&ベリーは最近よく一緒に遊んでいる年下の2人組だ。

「寿司って米食うために食ってるみたいなとこあるっすよね?」

ファミレスで一緒に時間を潰していた時の事。話の流れからベリーが自分の大胆な価値観を俺に訴えてきた。

ベリーの隣に座るラブがそれに反論する。

「いやそれ言うなら醤油じゃない?闇出してくんなよ。米食いてえなら米食っとけって話でしょ?刺身は米の噛ませ犬じゃねえから」

「ま?寿司は米を引き立てる為の魚じゃね?メロンにハムみたいな。あれ?スイカにハムか」

「つか、とりま甘いとしょっぱいを交互に配置しとけみたいな喋りやめてもらっていい?オセロで言ったら拮抗に次ぐ拮抗で詰みだから」

「ばか花沢類あっての道明寺司だろーが。話聞けし」

「だから花沢類は道明寺司の噛ませじゃあるめえし。闇出してくんなよ。お互いがお互いの番犬ガオガオ、お互いがお互いに拮抗し合うオセロだっつーの」

「それってあなたの感想ですよね?こっちは西門総二郎以外アウトオブ眼中の身分だっつってんだろーが。バイクの後ろに女は乗っけないって話!」

「ちが、落ちてる牧野はらしくねーっつーの!」

三人で居ても俺にはなかなかボールが回ってこないし、ボール自体も目では追えない魔球の連続だ。しかしその異様に見える二人のやり取りも、信じられない事に二人の間では成立しているのだ。

それはまるで鮮やかなマジックのようで、俺はそのマジックに魅せられ最近はよく三人で動いている。

一昨日は三人で野鳥を見に行った。

あまりにも密度の高い時間を二人と過ごしてきたせいか、二人の言葉遣いが俺にもうつってしまったらしい。

というより実は会話の内容も、最近では少しずつ理解できる様になってきている。

考えてみれば不思議な話だ。

言葉のような表面が似てくるのはわかるけど、こんな奇天烈な魔球の交錯を、肉眼で終えるようになってきている。

そして二人と同じ所で笑うようになって、同じ所に嫌悪感を覚えるようになってきて。

脳みその形が近付いてきている。としか思えない。

人は誰かと長い時間を共にしていると、その誰かが自分に混ざってくるのではないだろうか。

 

そういえば以前別の友達のSが、長い時間を誰かと共にしていると、その相手とは仕草や思考が似てくるという話をしていた。

そのSが自分の職場で親友と呼べるほど仲が良かった同期のKと、退勤してからも一緒に飲み歩いていた結果、最終的には全く同じ人間が二人存在しているような状態になった、と笑って話していた。

しかしSは転職する事になり、その職場を離れて引っ越しもして、Kともそれからしばらくして疎遠になってしまった。

 

それから数年経って最近、SはKと再会したらしいのだが、Kの全く変わらない佇まいに嬉しくなった反面、どこか噛み合わない違和感を覚えたらしい。

というのもKがことあるごとに吐く陰口に面食らってしまい、素直に笑い返す事ができなかったというのだ。

しかし思い返してみると、Kは当時からも陰口を吐いていたし、Sもそれに笑ったり、追随したり、どころかその陰口の角度こそが二人にとっての共通項で、宝物であった事を思い出した。

数年前の転職を機に、Sを取り巻く周りの人間関係は一変した。Sが全く違う人間関係の中に心身を馴染ませていった数年間、Kはそのままの職場でSを除けば当時と変わらない交友関係の中を生きていた。

自分では自覚していなかったが、どうやら自分の方が変わってしまっていたらしい。

Sはこれまで出会っていなかった「新しい人たち」と毎日すれ違い、その度にそっと自分の周りの空気に新しい空気が混ざり合い、それを繰り返している内にいつの間にか、本人の中の価値観までもが少しずつ変貌を遂げていたのだ。

 

「自分は親友を置き去りにして成長してしまった…」Sはそんな感傷に一時浸ったそうだが、それを機にKとの逢瀬を再開すると、あっという間にKの吐く毒に共感し、笑い、時にはKを上回るような猛毒が自分の口からもこぼれ出るようになった。

つまりは、成長・上下の話ではなく、その時に自分が関わった人々が、自分の中に少しずつ何かを残して行き、それらの混合物がその都度その都度の「自分」として世の中に発表されているに過ぎないんだ、という話。

極論かもしれないが、一理あるかも知れない。

 

自分は自分という個別の存在だと思い込んでいても、所詮自分は周りを取り巻く人間が出入りした形跡に過ぎない。

 

やっぱり人は普段の実生活で触れるものに形作られていくんですね。

口にした食べ物によって体の状態は移ろいでゆくし、脳みそや心に入り込んできたものによって魂の形は移ろいでゆく。

古くは親の在り方を齧って。俺自身にも親と似た部分がたくさんある。

果たして、先天的な自分というものは今や、どの位この体に残っているんだろうか。というかそもそもそんなものあるのだろうか。

触れたものや、出会った人のかけら達が自分の器の中でそれぞれに少しずつ混ざり合って、今日の俺になっている。

自分がリーチ出来る狭い外界から放射されるそれぞれのパッチワークを、俺は俺と呼んでいる。

 

※この岡山天音はフィクションです。

概ね嘘です。

でも、誰の傍らで日々を過ごすのかって事は重要かも知れません。

 

【#7】※この岡山天音はフィクションです。/「多分そう。」

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【#6】※この岡山天音はフィクションです。/「〇月〇日」

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【#5】※この岡山天音はフィクションです。/「寝て見る夢」

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