殺したはずのDV夫が帰ってくる衝撃的な冒頭から読者を引き付けてやまない桜井美奈の小説、『殺した夫が帰ってきました』。 お互い訳アリな夫婦の心理的攻防を軸にしたラブサスペンスと見せかけ、東日本大震災や無戸籍児などの社会問題をストーリーに絡めた本作は、上質なヒューマンドラマに仕上がっていました。 今回は桜井美奈『殺した夫が帰ってきました』のあらすじや見所を、ネタバレ込みでレビューしていきます。
主人公は都内で一人暮らしをしているアパレルメーカー勤務の28歳女性・鈴倉茉奈。彼女には十代の頃に結婚したDV夫を崖から突き落とし葬り去った、人には言えない過去があります。
ある時を境に茉奈が担当していた取引先の中年男性・穂高がストーカー化し、一方的に付き纏い始めました。事情を知った上司はただちに手を打ち、茉奈を担当から外してくれたものの、脈アリと勘違いした穂高の言動はエスカレートするばかり。
その日も自宅アパートで待ち伏せていた穂高に迫られ、進退窮まっていた茉奈を身を挺し救ったのは、数年前に殺害したはずの夫・和希でした。
和希は「俺は茉奈の夫だ」と堂々宣言し穂高を追い払い、事態が飲み込めず混乱しきった茉奈と話し合いを持ちます。そこで発覚した衝撃の事実……和希は崖から転落時に頭を強打したショックで、ここ数年来の記憶をすっかり失っていたのでした。
記憶喪失に陥った夫と相対した茉奈は、妊娠がきっかけで入籍後まもなく和希が豹変し暴力を振るうようになったこと、命からがら彼から逃げてきたことを打ち明けました。
茉奈の話を聞いた和希は心から悔い改めた様子で謝罪し、茉奈さえよければ夫婦生活をやり直したいと懇願します。まさか貴方を殺そうとしたとは言えない茉奈は、済し崩しにその申し出を承諾し、数年ぶりに帰ってきた夫と同居することに。
記憶が戻る兆しがないか当初はビクビクしていたものの、彼の素行に不審な点は見当たらず、自分の留守中に掃除や料理までしてくれる和希に次第に心を許し始める茉奈。
穏やかな日常に安らぎを感じ始めた矢先、彼が警官と接触している所を見てしまい……。
登場人物紹介
- 著者
- 桜井 美奈
- 出版日
『殺した夫が帰ってきました』は桜井美奈の代表作にして出世作。デビューは2012年、メディアワークス文庫から刊行された『きじかくしの庭』。その後女子刑務所内の美容室を舞台にしたヒューマンドラマ、『塀の中の美容室』で実力が評価され、2023年3月に日本推理作家協会会員に選ばれました。
『塀の中の美容室』は小日向まるこ作画でコミカライズされ、第24回文化庁メディア芸術祭マンガ部門優秀賞を受賞しています。
- 著者
- 桜井 美奈
- 出版日
- 著者
- 桜井 美奈
- 出版日
- 著者
- ["小日向 まるこ", "桜井 美奈"]
- 出版日
あらすじの類似からドラマ化もされた八月美咲『私の夫は冷凍庫に眠っている』と混同されがちですが、テーマ性からして全くの別物。読み比べてみるのも楽しそうですね。高良百作画で漫画化もされています。
- 著者
- ["八月 美咲", "高良 百"]
- 出版日
- 著者
- 八月 美咲
- 出版日
思春期の少年少女が高校の敷地の片隅の朽ちた花壇に集い、互いの悩みを分かち合って成長していくデビュー作から一貫し、丁寧な人間模様と繊細な心理描写を手掛けてきた桜井美奈。
数年のブランクを経た復帰作、『殺した夫が帰ってきました』でもそのナイーブな感性は衰えておらず、歪な夫婦の微妙な距離感と、疑似夫婦の間に束の間通い合った淡い感情を描き出しました。
注目してほしいのは夫・和希の正体。
本当に茉奈の夫なのか、それとも和希の名を騙る偽者なのか?後者だとしたら茉奈に接触した理由は何か、復讐を企んでいるのか。すべては茉奈を欺く自作自演の狂言ではないか……。
茉奈の視点で進む物語はなかなか和希の正体を悟らせてくれず、霧の中を手探りしているようなモヤモヤが募っていきます。
理想の夫を演じる和希への拭い難い不信と疑い、歳月の経過に伴い芽生え始めた信頼の狭間を絶えず揺れ動く、茉奈のセンシティブな心理描写も見所。
信じたいのに信じ切れない、だけど信じさせてほしい……。
肉親の愛情に恵まれず孤独に生きてきた茉奈の過去と現在の幸せな日々が対比されることで、読者もまた和希を信じたい、彼に裏切られたくないと祈ってしまうのが本作の構成の上手さ。
はたして和希の正体は誰なのか?それを知った茉奈はどうするのか?疑似夫婦の選択と驚愕の結末をぜひ見届けてください。
本作は茉奈と一緒に和希の正体と真の目的を探っていくミステリー仕立ての小説ですが、その本質はずばり社会派ヒューマンドラマ。毒親・虐待・未成年売春・DV・保険機殺人・震災・無戸籍児と、現代社会の暗部と言える問題の数々が物語の根幹に深く関わっています。
主人公の茉奈はミステリーで言うところの信用ならざる語り手。秘密を持っているのは和希だけではありません。彼女もまた周囲に嘘を吐き、赤の他人の鈴倉茉奈になりすましていたのです。
彼女の本名は上坂愛……自分を搾取・虐待してきた家族のもとから逃げ出し、仙台で風俗嬢として働いている時に茉奈と知り合い親友になった、無戸籍の女性でした。
物語の合間合間に挟まれる愛の回想は壮絶の一言。唯一の肉親の母には一切の愛情を与えられず、義理の兄からは性的虐待を受け、数か月間交際していた初恋の人はそれを知った数日後に引っ越していきました。
茉奈と愛の境遇はよく似ていたもののそれは似ているだけ。茉奈は愛と違い、母親や義理の兄に愛された記憶がありました。さらに決定的な違いとして、茉奈は戸籍を持っています。この社会に存在を認められた人間なのです。
『殺した夫が帰ってきました』がミステリーとして優れているのは、二重の入れ替わりとどんでん返しが仕掛けられている所。和希が訳あって茉奈の夫を騙っていたように、愛は愛である動機から親友になりかわり、鈴倉茉奈として第二の人生を送っていました。
よしんば和希のなりすましを見抜いた読者も茉奈まで別人だろうとは予想できず、作者の手の平の上で転がされる快感を味わえます。愛が茉奈の戸籍を奪った背景にも不可抗力の事情があり、女同士の友情が涙を誘いました。
桜井美奈の文章は静的な抑制が利いており、人の生き死にと直結する重いテーマを扱っても、露悪的な暴力描写や甘ったるい感傷に溺れすぎないのが美点。
良くも悪くもドライで湿度と糖度は高くないので、ガッツリ恋愛小説を求めて読むと物足りないかもしれません。だからこそ大事な人を亡くした喪失感を互いの存在で埋め合わせる和希と愛の関係性が、単なる男女恋愛や夫婦愛の枠組みに落とし込めない切実なリアリティーを伴い、ひしひし胸に迫ってきました。
愛に感情を吐露させず、そのバックボーンを小出しにしていくことで淡白な描写の中にしみじみした情感を通わせ、人と人の出会いの不思議さや繋がりの温かさを描出する手腕はさすが。
愛と茉奈が仙台で知り合ったのも大きなポイントで、読後は東日本大震災が変えてしまった数多くの人生に想いを馳せ、ほろ苦い余韻に浸ってしまいました。
- 著者
- 桜井 美奈
- 出版日
桜井美奈『殺した夫が帰ってきました』を読んだ人には中山七里『境界線』をおすすめします。
本作は映画化された『護られなかった者たちへ』に続く、刑事笘篠誠一郎シリーズ第二弾。東日本震災で行方不明になった彼の妻になりすました遺体の身元を巡り、身分証偽装ビジネスの闇が暴かれていきます。
戸籍の簒奪および東日本大震災とテーマが共通している為、『殺した夫が帰ってきました』と読み比べると感慨が増します。
- 著者
- 中山 七里
- 出版日
次におすすめするのは辻堂ゆめ『トリカゴ』。
コロナ禍で発生したある殺人未遂事件。女刑事・里穂子は容疑者のハナを追跡する中で無戸籍者が隠れ住む共同体に辿り着き、ハナとその兄が二十数年前の誘拐事件の被害者ではと疑惑を持ちますが……。
本作は無戸籍問題に切り込んだ警察小説にして一人の刑事、一人の母親の葛藤を描いたヒューマンミステリー。社会からいない者として扱われてきた無戸籍児の苦境や哀しみに寄り添い、彼等の為に奔走する里穂子のひたむきな頑張りに感動しました。
- 著者
- 辻堂 ゆめ
- 出版日
水野梓『名もなき子』も無戸籍児童を扱ったミステリー小説。
ドキュメンタリー番組制作に携わるテレビ局員・榊美貴は、高齢者施設で相次ぐ不審死に疑問を抱きます。後日主要メディアや首相官邸に「何も生み出さない高齢者は社会悪だ」と糾弾する犯行声明が届き……。
美貴が偶然助けた無戸籍の青年と事件の意外な関係にハッとさせられる、大変なリアリティーを帯びたドキュメンタリータッチの小説でした。あなたも生きる資格を問い直す、本作の悲痛な叫びに耳を傾けてください。
- 著者
- 水野 梓
- 出版日