永井荷風に学ぶ東京での生き方|辞職プロデューサー、渾身のブックレビュー#7

更新:2025.8.22

定年後も読書熱冷めやらぬ元TVプロデューサー・藤原 努のブックレビュー連載、第7回。東京一極集中の時代に、なぜ自分は東京を愛し続けるのか――その答えを川本三郎『荷風の昭和』に探ります。私娼街や墓地めぐりに耽溺した永井荷風の孤独と享楽をたどりつつ、62歳からの「一人」と「つながり」のあり方を考えます。

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永井荷風に学ぶ東京での生き方

かつて東京・浅草に、凌雲閣(通称・十二階)という当時東洋で一番高いとされた塔がありました。102年前に起きた関東大震災で倒壊してしまったのですが、残された写真などを見ると僕はいつもハッとした気分になります。その塔は一種異様な空気を纏っているように見えるのです。

大正期は十二階下と呼ばれた塔のふもとの界隈に私娼街が広がっており、作家・永井荷風も震災前はよく通っていたらしいです。

でも天災や戦災、さらには再開発というものが繰り返され、東京はどんどん変わっていく。

 

今年もまた都道府県人口で去年よりも増加したのは東京都のみでした。

今世紀に入って東京以外の人口が増えたのは、2023年の埼玉県が一度あるだけらしいです。

日本の人口がずっと減少している時代にどうして東京だけがそうではないのか?

僕は京都市左京区に生まれ、1年の浪人時代も含めてそこに住み、名古屋大学に進学して名古屋市千種区に4年住んで、ホリプロに就職して上京、東京都中野区、杉並区を経て2度の結婚期間を千葉県松戸市で過ごし、また一人に戻ってそこからは現在にいたるまでずっと東京都目黒区在住です。

これまでの62年の人生の住所変遷は、そんな感じでやってきました。

京都生まれ育ちです、と言うと「いいところですね」「ちょっと性格悪かったりするんですか」などと善悪どちらの印象も抱かれがちなのですが、自分はあいまに名古屋在住を挟んだことでそういうある意味歪んだ京都自尊心みたいなものが完全になくなり、23歳で東京の地を踏み、上京人としての喜びや悲哀を存分に味わい続けてきましたが、そこから自分の住む東京を折に触れて散歩する中で、その奥の深さ、冷たさ、暖かさ、歴史の回転の速さ、みたいなものにグッときてしまう日々を送ってきました。今ではもう東京が間違いなく一番で、年も年なので田舎に住みたい、とか、海外に住んでみようか、とか、一切思いません。

東京なんて、と思っている人には顔を曇らせてしまうかも。

では自分の場合なぜこうなったのか。

 

著者
川本 三郎
出版日

20代だった頃、書店でふと目にした雑誌『東京人』を手に取り、そこで川本三郎が連載していた<荷風と東京『断腸亭日乗』私註>と言うのにハマり、それが単行本化された時に再読して、自分自身が持つ東京趣味のあり方が完全に決まってしまったのが大きいかなと思います。

あの頃から、永井荷風の東京での生き方、歩き方みたいなものが自分の中で一つの憧れとして内面化された感じがしているのですが、今年になって同じ川本氏が前後編に渡る『荷風の昭和』と言う本を上梓され、今さらもういいかと最初は思ったのですが、たまたま神保町の東京堂書店に平積みになっていた同書を手にして、目次を見た時に、何だかどうしようもない興奮のようなものがよみがえり、買わないではいられなくなりました。

著者
川本 三郎
出版日
著者
川本 三郎
出版日

全75章で構成されているのですが、<偏奇館で関東大震災に遭う>に始まって<中洲病院から隅田川へ><隠れ里、玉の井><浅草オペラ座への道><偏奇館燃ゆ><戦後の色街、鳩の街のこと><老翁、ストリップ劇場にあり><最後の日々>……

この感覚を共有できない人から見たら何のこっちゃかもしれません。が、あまり健康ではない高等遊民の荷風先生は、大げさに言うとひたすら東京都東部を散歩し続けた人でもありました。

私娼にお金と時間を注ぎ込んではそれを小説にしたり、でも東京大空襲で一人住まいをしていた麻布の自宅・偏奇館を焼かれたら、いろんな人を頼りながら空襲を逃れようと東京を出て西日本を転々とし、でも何とか東京に戻ってきて、これまた人のおかげでギリ東京ではないのだけど、千葉県市川に住んで、老いを押してまた浅草などに通い続けるー

家族とか誰かと一緒に住むことができない人生でした。

作家としての高名もあっていろいろな人が世話を焼いてくれるのですが、その人たちにも結局は恩を仇で返すようなことまでして見離されてしまう。この本の後編を読んだ人の多くは、あるいは荷風の性格が悪過ぎて嫌いになってしまうかもしれません。

ある意味徹底したエゴイストでもあったんだろうと、今回この本を読んで改めて思いました。

 

たとえば東京の隠されたような場所で懸命に生きようとしている日陰の女性を見つけては情趣を掻き立てられ、通いつめる。これは一種の陋巷(ろうこう)趣味というもので、知らない街を訪れると何となく路地を歩いてみたくなる僕も、もしかしたら陋巷の才の片鱗ぐらいはあるのかもしれません。

まあフェミニストの人からしたらちょっと許せない態度だとも感じてしまうこともあるかもしれませんが、そもそも世の中、と言うものに背を向けて、浮かばれてこない東京の街や女に入れ上げた人生を送った人なのだから、この際大目に見てあげてほしい、と言う気持ちにもなります。ただ先に言っておきますが、僕はいわゆる買春みたいなことは絶対しません。

 

陋巷趣味と同時に、川本氏の著作を通じて僕が荷風から得たのは、掃苔(そうたい)趣味です。

これざっくり言うと、著名人のお墓参りをする趣味のことですが、荷風はほんとうにいろんな人のお墓を参るのです。

荷風が毎日綴った日記である「断腸亭日乗」(断腸亭は荷風の雅号)には、しょっちゅうその記述が出てくるのですが、僕も読みながらいつか誰かの墓に行ってみたいと思いながらそのままになっている時期がありました。しかしたまたま幸田文の随筆で、父・露伴の代表作である『五重塔』のモデルである塔が昭和32年の夏に放火心中で焼け落ち、その跡地が台東区の谷中霊園の中にあることを知って、もう行かないではいられなくなりこの霊園に出向いたのが僕の掃苔趣味の始まりです。

谷中霊園には一番有名なのは徳川慶喜の墓があってそれだけを見にくる人もいますが、迷路のような霊園を歩くと、急に渋沢栄一、鳩山一郎から横山大観、鏑木清方など明治以降の近代史大好きの人間には応えられないような墓碑銘が目白押しで、知らぬ間に溜息を何度もついていました。

その頃は、僕自身二度目の妻ともまだ何とかやっていたので、一緒にヨーロッパ旅行した時に、パリのペール・ラシェーズ墓地というところを散策して、ショパンやサルトル、モディリアーニなどの墓を見つけて喜んでいたことも今ふと思い出しました。

荷風も若い頃一年だけパリに行っていたことを考えると、あの掃苔趣味からしてペール・ラシェーズにも行った可能性が高いんじゃないかと思います。

自分自身の仕事としても、WOWOWさんが僕の『掃苔のすすめ』という企画を通してくれたので、俳優の夏帆さんにさまざまな著名人の墓に出向いてもらう撮影を2015年にやらせてもらいましたが、彼女もどこか楽しそうにも見えたので、もしかしたら掃苔趣味をお持ちになったかもしれません。

 

話がそれましたが、陋巷趣味も掃苔趣味もいずれも基本的に孤独だと言うことが共通点です。

みんなでワイワイするのが好き、という明るい人たちには、縁がないことかもしれません。

今62歳、家族もおらず独り身の僕は、孤独死の可能性についての意識を常に持っており、今回の読書を通じて、永井荷風の晩年の行動から、一つそう言う懸念を薄めることができそうなヒントを得られた思いがしています。

荷風は、その頃、浅草のストリップ劇場ロック座を、市川から電車を乗り継いで頻繁に訪れていました。そして楽屋で踊り子たちと話をするのです。それは当時の荷風にとって、人との大切なコミュニケーションの場にもなっていただろうし、周囲の人からも荷風先生の存在確認ができる大事な時間になっていたのではないかと思うからです。

一人でいたいと言う思いは強い一方で、この作家は、人と話すことをほんとうはたまらないほど欲していたのではないか、そんな気がするのです。

僕自身も一人でする趣味は好きは好きなのですが、それでも常に誰かとお話をしていたい、との思いを消し去ることができません。

一人である自由は謳歌したいのですが、でも人とはいろいろお話ししたいのです。わがままなのでしょうか。

行きつけの飲み屋に行けば、店主や知り合いの常連客などが声をかけてくれて何でもないような世間話で盛り上がるー

ああ、なんて幸せなのでしょう。

東京にいる限り、旧知の人ともいざとなれば会えるし、新しい知り合いができて楽しい時間が始まる、ということがあるのですね、この年齢になっても。

コロナ禍、あまり外出ができず、家でのオンラインばかりになっていた時、毎日夕方になると近くを散歩して、円融寺という何となくたたずまいのいいお寺にお参りしていました。ある日、お寺の横の墓地を何気なく散策したらそこに一際派手なお墓を発見し、よく見るとそれは西城秀樹さんのお墓でした。その時、ああ早く掃苔を復活したい、東京散歩をしたい、そして人と会いたいとの思いを強くしたのを覚えています。


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