純然ヘテロの男が読む『レズビアン』『シスターフッド』|辞職プロデューサー、渾身のブックレビュー#9

更新:2025.10.24

定年後も読書熱冷めやらぬ元TVプロデューサー・藤原 努によるブックレビュー連載、第9回。 今回は、女性どうしの絆や愛を描く綿矢りさ『激しく煌めく短い命』と、哲学者と人類学者の往復書簡『急に具合が悪くなる』をピックアップ。著者自身の体験や感覚を手がかりに、"他者理解"の解像度を深めるような読書体験を綴ります。

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純然ヘテロの男が読む『レズビアン』『シスターフッド』

ほんの数年前まで、女性どうしの愛や信頼、友情というものに、自分は全く興味がありませんでした。  

僕は純然たる異性愛者ということもあり、男性をはなから相手にしないようにも見えるそうした女性の感情に共感を持つことが全くできなかったのです。  

今思えば教養のかけらも感じられない、全くひどい姿勢だったなと思います。  

しかし2025年の今、女性どうしのそうした感情を描いたものに、僕は物凄く惹かれています。  

 

きっかけは、20代の時に見た映画『テルマ&ルイーズ』を数年前、目黒シネマでのリバイバルで見直したことでした。昔見た時も面白いとは思ったけどそこ止まりでした。しかしリバイバルで見た時は、どうしてこんなに悲劇的な結末に向かうお話がこんなにも明るいのだろう?と思い始めたのです。それははからずもテルマとルイーズのキャラクターとそこに基づく関係性みたいなものに、全く打算的な要素がなく、抑圧から二人して何とか逃れようとする二人の連帯の強さと前向きさを映画を見ている自分はどこまでも応援したい、などという気分に柄にもなく思ってしまったのです。何十年もかけて制作者の術中にやっとはまったということですね。  

しかしこれが男どうしの話だったらどうだっただろうとも思いました。全然ダメでした。ホモソーシャルもホモセクシャルもどちらも苦手な僕は、想像のつくその暑苦しさにとてもじゃないけど耐えられないのです。  

今年の2月に『ザ・ルーム・ネクスト・ドア』と言う映画を見ました。死病にかかった女性作家が、昔の友人女性に声をかけて、自分の最期を見届けてほしいと頼むお話です。僕はこの友人女性役のジュリアン・ムーアという役者さんのたまにキョドったりする芝居が好きで見たのもあったのですが、胸を締めつけられる思いになりました。二人は昔は仲良かったのに今は疎遠になっていて、なんで私に頼むの?と思いながら、そういう感じに少しずつなっていくのも二人の関係が決して平坦ではなく、一種の緊張感があるのがよかったです。  

だから、最近ネットフリックスで配信になった韓国の連続ドラマ『ウンジュンとサンヨン』も同テーマだったので16話2日間で一気見してしまいました。  

さらに今もまだ公開中の映画『愛はステロイド』は、女が一目惚れで好きになった女と組んで家族や自分たちを巻き込む物事と闘っていく話ですが、これにもハマりましたね。この映画は『テルマ&ルイーズ』をベースにしているのではないかとも言われましたが、『ステロイド』のほうは完全に同性愛モノなので、そこが違いましたがどちらもグッとくるのは変わりありませんでした。  

 

映画やドラマの話で前置きが長くなりました。  

そんなわけで綿矢りさがこの度出した長編小説『激しく煌めく短い命』と、二人の女性学者が十通ずつの往復書簡を交わす『急に具合が悪くなる』の二冊は、僕の心の盛り上がり具合からしても今読まずにはいられないものとなったのです。  

著者
綿矢 りさ
出版日

 

あの綿矢りさが、なぜこうも仰々しいタイトルの小説を書こうとしたのかと思いました。なので読むかどうか決める前に、この小説について綿矢さん本人のインタビューを読みました。その中で彼女は、「女性どうしの“百合”についてきちんと書きたいと思った」と明言していました。あの綿矢りさが!と思いました。こんな先入観が陳腐であることぐらいさすがに分かっていますが、芥川賞同期の金原ひとみの発言であったなら受け入れられたとしても、綿矢さんの発言だと思うと衝撃です。  

それにしてもなかなかの大作でした。  

まず中学生時代の主人公・久乃(ひさの)と同級生・綸(りん)との出会いと淡い恋愛、大いなる誤解に基づく別離から卒業式の日に起きる事件までを綴る前篇。  

綿矢りさ自身が京都生まれ育ち、ということもあって、ここの舞台は京都です。地域の書きぶりから見て、たぶん京都市右京区、金閣寺なども近いあたりなのではないかと想像しました。僕は左京区下鴨の生まれ育ちということもあって、そのあたりは何となく肌感覚としてわかります。  

綿矢さんと自分とでは世代が20年ぐらい違うのですが、それでも京都ならではの同じような体験がいくつかあるのが分かり、中でもその一つがこの物語のかなり重要なキーとなっています。  

それは、京都市内にはいわゆる被差別部落というものが点在しており、小学校高学年から授業の一環で同和教育というものをされるのがあったということです。これ僕と同世代でも東京出身の人などには全く経験がないことらしく、この話をしてポカンとされたことが何度もあります。  

詳しくは述べませんが、島崎藤村の『破壊』や、中上健次が〝路地〟と呼んだそういうものへの差別意識を是正しようとする教育のことです。  

僕は小学校5年の頃、通っていた塾から家への帰り道、自転車でふと寄り道をしてふだん行かないところを走っているうちに、何だかいつもと違う時空を感じるところに迷い込んでいました。そこはあたりに住む人たちがいっぱい外へ出てきていて、家の戸を開けたままにしていたり、外でごはんを食べている人たちもいました。どうにも不思議な感じがしたので、後日母親を誘って今度は二人で自転車に乗ってそこを訪れてみました。  

母は黙ってその場を走り過ぎましたが、その地域を離れた後自転車を止めて僕に言いました。  

「あんた、ここは二度と来たらあかんで。これはこれや。」  

と言って、手を出して親指を折って四の字を示したのです。  

何だか恐怖を覚えました。  

そして後年、京都にはそうしたところに在日と言われる人も多いということを知るようになったのです。  

 

小説の中で、綸の家は中華料理の食堂です。親も中国の人です。  

明るくて友だちも多い綸は、いわゆるクラスカーストも高い感じで、引っ込み思案の久乃からは距離が感じられそうな存在。しかし入学式の日に、前に立っている久乃の髪を綸が後ろから束ねてくれたことで、二人の中学時代の関係は始まっていくのです。  

英語の成績がいい久乃が、綸に個人教授をするようになるところ。  

発音記号「æ」をどう発音するのかを久乃が綸に教えるのですが、自分自身何とも言えないデジャブ感があって意味なくグッときました。あの記号、何となくセクシーなんですよね。  

僕自身も大学受験の頃まで、この記号が出てくると口に変な細工をして発音しようとしてしまうのが習慣になっていました。  

でもまあそんな二人の出会いと別れがあって、時は過ぎ、二人は32歳になって、東京で再会する後篇へと繋がっていくのです。  

大人になってからの後篇は空気が一変します。  

読了してまず思ったのは、綿矢りさと言う人が、言い方が今さらちょっと変になるかもしれませんが、どうやら物凄い文学的才能の人であるらしいと言うことを再認識しました。  

後篇が始まって、読み進むに連れて、主人公・久乃の心や言動の流れに、どこか腑に落ちない、何かが変だ、との思いが僕の中で積もっていきました。どうしてそんな馬鹿なことをしているんだろう?やっていることが古過ぎないか?もう少し考えた行動をしたらどうなんだ?……みたいな思いが連続しました。  

でも最後まで読んで気づきました。ああ、この作家は、あまりうまく生きられず実際聡明でも何でもないごくふつうの女性どうしの愛を描こうとしたのだと。主人公の久乃も綸もそれなりにまっとうではあるけど、今風に言えば、意識も全く高くない。綿矢りさ自身は聡明で意識が高いことなど言わずもがなであることを考えれば、彼女はそうした女性主人公の主観になり切って最後まで書き切った、これはそういう小説なのだと思いました。  

ちなみに、中学生の時は二人の関係を綸がリードする形でしたが、大人になってからは、離れられない彼氏のいる綸から久乃が紆余曲折を経て再び自分の方を向かせるという逆の展開になります。同性愛指数みたいなものが個々人にもしあるとすれば、大人になってからの二人の間にはかなりの差があったようにも見えました。女性の同性愛は男性と違って、あるいは関係性を育んでいくような性格があるのかもな、と思いました。  

それにしても綿矢りさは、作家自身と価値観が全く違いそうな主人公を主観で、それも一切ツッコミも入れたりせずに書き切ると言うことをやっており、これはやっぱり至難の業ではないのか?と思わずにはいられません。  

この小説を全部読んだら、ここにはたとえば綿矢さんの私小説的要素があるかもしれない、などと誤解することもまずないでしょう。  

凄いぞ、綿矢りさ。怖い作家です。  

 

著者
["宮野真生子", "磯野真穂"]
出版日

『急に具合が悪くなる』。  

帯に映画監督の濱口竜介氏による映画化が決定しているとあるのを見て、しかもそれが、末期がんになっている女性哲学者と、その彼女から呼びかけられた女性人類学者による往復書簡だなんて。その二つの情報だけでこの本を手に取るには僕には十分でした。  

哲学者・宮野真生子は、1977年生まれ、人類学者・磯野真穂は、1976年生まれで、たまたま一緒に仕事をする機会があって知り合い、ある時、宮野の側から磯野に、自分が末期がんを患っていることを伝え、往復書簡のやり取りを自分としてくれないかと話すところから、二人の関係は始まります。  

しかしそこから実際に二人が十通ずつの書簡を交わしたのは、2019年夏の2ヶ月だけ。むろん宮野がそう遠くない将来この世からいなくなることが第一前提として二人の書簡は始まっていくのですが、昔からの友人とかでない分、お互いが研究を積み重ねて築いた見識に尊敬があり、しかしそのせいで診療のあり方などについては全く考えが違って衝撃を受けたり、そうした話し合いの中で、それぞれが自分の生き方についてより繊細さを極める新しい見方を身につけていく、そのようなやり取りになっていきます。  

そして十通目の往復書簡。読んでいるうちに、語の使い方の間違いをあえて気にせずに言うならば、これは<知的共依存>みたいな状態なのではないかと言う気分に僕はなっていきました。切羽詰まった状況を迎えてどちらも知的熱量のスパークが物凄く、読んでいる自分がいつの間にか震えていました。本の文字が時折り霞んだように感じたのも実は泣いていたのかもしれません。  

二人の関係をシスターフッドなどと言う言葉に嵌めてしまうのは、二人に対して失礼だとも思いますが、ある意味これはその言葉が表す一つの究極的な形なのではないかとの思いも募りました。  

僕もいつ死ぬか分からないけれども、それまでにもっと知性と感性を磨いてかけがえのない人を見つけてたくさんの対話を交わしてみたいと心から思いました。  

それにしても人間てどうなるか分からない。  

この前自分が参加した読書会でゲストにきた上野千鶴子先生も「人間は予想のつかない存在です」と言い切っていましたが、ほんとそう思います。  


著名人が絶賛して、急に売れる本について|辞職プロデューサー、渾身のブックレビュー#8

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定年後も読書熱冷めやらぬ元TVプロデューサー・藤原 努のブックレビュー連載、第8回。米津玄師が絶賛し再び脚光を浴びる『教養主義の没落』から、爆笑問題の太田光イチオシの有吉佐和子まで。教養と読書をめぐる自身の原体験や親との記憶をたどりつつ、還暦を越えてなお新たな学びを求める読書人生を綴ります。

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