元TVプロデューサー・藤原 努によるブックレビュー連載・第13回のテーマは、映画と小説のあいだで、「純文学って何なんだろう?」と立ち止まるような読書。映画監督・研究者の鼎談本、言語をめぐる思索書、そして芥川賞受賞作──「わかった気になっていた視点」や「言語化」という言葉の輪郭が、少し揺さぶられます。

小説を読んでいると、いろんな本好きの人などが、あれは純文学作品だから筋がよく分からなくてもあれでいいんだよ、とか、やっぱりエンタメ文学のほうが好きだな、などと言っているのを耳にすることがあります。
かく言う僕もどちらかと言うとエンタメ文学のほうが好きです。素直に、面白い!と言えるほうがいいんじゃないかとの思いがふつうにありまして。
でも今月は、ふとしたことから<純文学>について思いを巡らす時間になりました。
日本最高の文学賞と言われる芥川賞と直木賞は、ざっくり言うとそれぞれ純文学とエンタメ(大衆)文学の中から選ばれます。
まあこのことは、少しでも日本の小説を読んだことがある人なら、何となく知っていることだとは思いますが、しかし、純文学とエンタメ文学の間の明確な境界線についてそこまで意識することは、一般の本好きが読書する際にはむしろ稀なことでしょう。
でも映像作品を制作することを主な仕事としてきた身としては、仮にエンタメ文学の原作を映像化することを目的とするなら、そのストーリーが面白ければそれをベースに丁寧に脚本に落とし込んでいけば、ある程度のクオリティのものが作っていける可能性がある一方、純文学の原作の映像化はなかなかに難儀を極めると言う感じがあります。
かつての僕の同僚のプロデューサーなどは、直木賞作品は映像化できる可能性があるので読むけど、芥川賞作品はできなさそうな気がするので読まない、とはっきり言っていました。
なぜそう言うことになるのかと言うと、身も蓋もない言い方をすると純文学はやっぱりアートだからです。
エンタメ作品の映像化は、観る人に対して言わばそのストーリーを楽しんでもらえるように作ればいいのですが、純文学のほうはそうは行きません。
純文学の場合、ストーリーはもちろんですが、その表現にえも言われぬ空気感のようなものが付随し、あるいは場合によっては知的研鑽を積んでいないとその空気感を理解する(味わう)ことができないケースもある。
そう言う本を読んだことのない読者は、途中で
「なんや、おもろないし、何が言いたいのかもわからへん!」
などと言って投げ出してしまうかもしれません。
あ、別に関西人を差別してるとかではないですよ。これも空気感だと思ってください。
絵画とか彫刻、各種器(うつわ)などは、はじめからアートなのでそれを意識した上で見る人がほとんどだとは思うのですが、本や映像作品、舞台などの場合は、ただ楽しむため、と言うのと、味わうため、みたいな感じの大きな違いがあるためこのような事態が生じるのではないかと僕は思っています。
合わせて、文学には<純文学>と<エンタメ文学>という区分けらしきものが存在するのですが、映画でも舞台でもあまりそういうことを明確に表現しているものを見たことがありません(商業映画、商業演劇などという言葉は耳にしますが、あまりいい使い方でもない気がするのでここでは無視します)。
- 著者
- ["濱口竜介", "三宅唱", "三浦哲哉"]
- 出版日
しかし今回、映画監督の濱口竜介、三宅唱、映画研究者の三浦哲哉の三者による鼎談本『演出を探して 映画の勉強会』を読んで、この人たちは、明らかに映画の中にある純文学について話しているのだと強く思ったのでした。
ふつうの映画好き、と言うような種族の人がいるとして、この本を読んだら、あるいは、
「なんちゅう映画の見方してんねん。そんなことばかり考えて見てたらなんもおもろないやないか」
と思う人もいるかもしれません。
何度も言いますが、関西人差別じゃないですよ。
しかし僕はこの鼎談集を読みながら、「よくそんな見方ができるものだ」と何度もため息をつきながらも、もう面白くてたまらなかったことを先に告白しておきます。
映画にやたら詳しい人などを指して、あの人はシネフィルだから、などと羨望と揶揄の両方の意味を込めて呼んだりするようになったのはいつの頃からだったか。
この3人の場合、しかしもはやシネフィルなどと言う言葉で括れるレベルですらない。遠く近く深く狭く見てきた映画を、嫌と言うほど繊細に語り合っています。濱口氏と三宅氏の場合は、本人が映画監督と言うこともあって、当事者として言わば身体感覚を通して見ている側面もあるのでしょう。
結果的に、僕のようなふつうの映画好き人間がその語り合いを読むと、まずはため息が出てしまうことになるのです。
でもこの2人の映画監督を高く評価する評論家の蓮實重彦の映画批評本ともなると難解過ぎて読み進められないこともあるのですが、この鼎談本では3人が大好きな具体的な監督作品を取り上げて、そこについて熱烈トークを交わしている感じもあるので、その作品を見たことがなくても、なんだかそこはかとなく楽しめてしまうのです。
最初に出てくるロベール・ブレッソンなんて、誰ですか、僕は一作も見たことないですが、こんなに熱く語られると見たくなっちゃうじゃないですか。
3人の話し合いを読みながら、僕は彼らが映画の何について語っているのかが言語化できそうな気がしてずっと考えていました。
で僕はこれは<視点>というものがベースになってくる話なのではないかと思い始めたのです。
ある場面の映像を見て、なぜこう言うショットになっているのか?このショットをここに挟む演出の意図は何なのか?あえてカットを割らない(あるいはあえて割る)のはなぜなのか?さらには、この場面でこの俳優はなぜこんな芝居をするのか(なぜこの人をキャスティングしたのだろうか)?にいたるまで、場面ごとに立ち上がる関心と疑問が炸裂して、それを話し合わないではいられないのです。この本自体、サブタイトルに<映画の勉強会>と銘打ってるのでそこがより意識的になっていると言うことはあるかもしれません。
そこで「視点」の話なのですが、たとえば登場人物どうしが会話しているとして、お互いがどのように目線を交わしたり外したりしているのか、それを見ている観客にどう見せたいと思って撮っているか?と言うのがたぶん一番のベースになるのかなと思ったからです。
映像業界の用語で「イマジナリーライン」と言う言葉がありますが、これは、対話者どうしを結ぶ線があるとして一旦決めたカメラ位置を同じ場面内でその線を越えて移してはいけない、というようなルールです。
しかしこの勉強会鼎談の中で、さまざまな映画の話をする中で、濱口氏が三宅氏に「イマジナリーラインについてどう考えるか?」と問うて、三宅氏は「あまり考えていない」と答えていました。
しかし、ルール通り撮ることにこだわる監督がいるとして、その作品がきっとアート(=純文学映画)にはなり得ないだろうな、と言うのは僕にも想像が付きます。
「視点」は、この場面は、どう言う視点から撮られているのか、から、観客にどう言う視点で見てもらいたい映像か、あるいはどう言う風に観客を戸惑わせたり、騙したりしたいか、と言うような、ある意味限りなく複雑な分岐をしていくものなのだろう、と想像します。
さらにここに照明と言う、光の問題などが加味されて、撮り方はさらに広がっていくわけです。
それだけに僕自身が映画監督にお仕事をお願いした時に、まず最初にその人から聞かれるのが「撮照(さっしょう=撮影と照明)は、どのように(誰にお願いしようと)考えていますか?」と言うのが多かったことからも、エンタメ、アートを問わずそこが映画の生命線の一つであるのは間違いないでしょう。
さらにカメラアングルをどこに据えるか、それを広い画(え)にするのか狭い画にするのか、長回しを使うか、据え置きで撮るのか手持ちで撮るのか、さらにどう言うレンズを使って濃淡を変えていくのか、など無限の選択肢が監督にあってそれを丁寧に選んでいく、と言う感じなのでしょうが、そこにアート性のようなものが生まれてくる可能性があるのだろうと思いました。
でいろいろ考えながら読んでいるうちに、これは作る側がこの映画を客にどう言う「視点」で見て欲しい、と考えているのだろうな、と言うことなのかな、と言う僕なりの仮説にいたったのです。
それにしてもこの本の中で、ある種、アクションエンタメ大作ばかりを撮ってきたイメージのあるトニー・スコット(故人、リドリー・スコットの弟)を“映像作家“として3人が高く評価していることに目を惹かれました。
トム・クルーズの『トップガン』などを撮った人で、僕はそんなに見ていなかったのですが、この本のせいで何本か見直しもしました。
迂闊な観客である僕は、彼らが指摘するアート性よりもストーリーを楽しく追うことに気持ちが行くため、なかなか細部に目がいかないのですが、でも見終わった後に、何か他の監督のハリウッド映画などと違う、表現しようのない「空気感」のようなものを感じました。『デジャヴ』と言う映画なんか、何だか凄いですよ。
この鼎談集、ラストの2章は濱口氏が監督した『ドライブマイカー』と三宅氏が監督した『ケイコ目を澄ませて』について、3人で語り合っているのですが、もうここには監督当事者がいるので、より濃密な問いと答えがあるやり取りになっています。
このパートで、三宅氏は濱口氏の作品の中で出てくる映像について「どうしてこのカットとこのカットの間にこういうカットを挟んだのか、言葉にしてもらっていいですか?」と問うところがあります。
濱口氏のほうが少し先輩なので、聞き方が少し不遜なのではないか、と一瞬ドキッとしたりもするのですが、そうか、映画制作は小説などとは違って複数のスタッフ、キャストと言葉でやり取りをしていかないといけないものだから、監督がやりたいことを言語化することも大事なんだしなと思って腑に落ちました。
なるほど、映画の制作現場でも、言語化してそのやり取りをすることがとても大事なんだな、と改めて思っている時に、ふと新聞広告で見つけて気になるタイトルの本を見つけ、思わず購入しました。
大岡玲『日本語はひとりでは生きていけない』。
- 著者
- 大岡 玲
- 出版日
そこまで読んでいた本が、考えてみれば日本語への言語化による応酬でもあったし、僕自身、日本語を奪われたら、ほとんど社会的に死んでしまいそうな人間でもあるので、気にならないわけがありません。
Amazonで内容のサンプルを見て、かつて志賀直哉が、日本の公用語をフランス語にすべきだと言ったとか言う、驚天動地の歴史的事実を知ったのもあって、貪るように読んでしまいました。
この本、基本的には古代から始まって、いかに漢語の影響を受けたり離れたりしながら、漢字とひらがなのかな混じりによる口語体、それとは別にカタカナと言うものが現れて普遍化していったかについて歴史を辿りながら語ってくれます。著者が小説家で、言語の研究者ではないため、ある種の作家的嗅覚を働かせつつ書いているのも、僕的に難し過ぎず好感も持てました。
しかし僕自身、若い頃漢文の授業があまり得意ではなかったのもあって前半は解釈に手こずりましたが、もう後半の近代ぐらいから以降は、素直に面白かったですね。登場する人物の発言も面白いし、日本語というものが、発生の当初から現代にいたるまで、いかにさまざまな風雪に晒されてきたか、と言うのもよくわかりました。
志賀直哉のような人から見れば、当時の日本語には、あまり核のようなものが存在せず、漢語その他多くの海外言語の影響を受けながら何とかここまでやってきているだけで、もっとしっかりした言語を国語にするべきだと考えたのかもしれません。
しかし裏を返せば、日本の慣用句にあるような、柳に風、のような姿勢が日本語にあるせいで、いくつもの移り変わりをしながら、結局他言語とは全く違う構成と融通さを持つ言葉に育ったのではないかとも思えます。
現代の日本語の言葉遣いについて、大岡氏の考え方は僕などには少しナイーブ過ぎるように感じるところもありますが、「言語化」のような言葉が流行語になっている日本で、ますますその融通無碍さが大事になってきているタイミングだと言える気がします。
- 著者
- 鳥山 まこと
- 出版日
そしてこの1月に芥川賞を受賞した鳥山まこと『時の家』を読みました。
選評などを読んで、これぞ純文学と言えそうな小説なのだろうと言う気がしたからです。
これは小説にエンタメ性を求める人には向かない作品かもしれません。
しかし僕はこの小説を読んでいる間、何か自分の感傷的な部分をずっと刺激され続け、最後には決壊しました。
この決壊したところについてその気分をどうしても語りたく、しかし純文学の場合もネタバレというものがあるかもしれないことを考えると、未読でこれからこの小説を読もうとしている人はここから先は読まないでください。
40年以上に渡ってその家を建てた初代から、3代目までの住人たちの記憶を、その家を訪れた青年が、家の中の絵を描きながら、たどっていくこの物語。この話、しかし誰の「視点」で語られているのか、はっきりしません。
もし文学にある種のルールというものが存在するのなら、あるいはこの話はそうしたものも逸脱している気もします。
しかしそれだからこそ、この家だけを舞台に、住む人と家の造作を切々と綴るこんな小説が可能になったことも疑えないことだと思います。
読み始めた当初は、その家の中をただ繊細に描写しているだけで少し退屈かもと感じました。
しかし読み進んでそこに住んだ人たちの話が語られるにつれて、そうした描写の数々が切々と立ち上がってくる。
初代住人の薮さんがこだわった、丸柱に籐(とう)を巻く描写のせいで、物語の末尾、その家が解体されることになる描写の中で、痛過ぎる心を抱えながら、あの柱はどうなったのかと涙目で探している自分がいました。
純然とした日本語で、こんな物語を綴る35歳の新人純文学作家。
映画でも小説でも純文学は、今一つ苦手、などと思っていた僕を心の根元から惹きつけてくれる3冊の読書となりました。
小川哲と東畑開人と岸政彦|辞職プロデューサー、渾身のブックレビュー#11
ジャンルも立場も異なる三人の書き手──小川哲、東畑開人、岸政彦。小説/カウンセリング/生活史という全く別の現場で語られる仕事論を読み比べるうちに浮かび上がるのは、「どうすればうまくやれるか」ではなく、ある共通の問いでした。元TVプロデューサー・藤原 努によるブックレビュー連載、第11回も、読後に残る知的疲労と静かな高揚をそのまま言葉にしてお届けします。
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