ジャンルも立場も異なる三人の書き手──小川哲、東畑開人、岸政彦。小説/カウンセリング/生活史という全く別の現場で語られる仕事論を読み比べるうちに浮かび上がるのは、「どうすればうまくやれるか」ではなく、ある共通の問いでした。元TVプロデューサー・藤原 努によるブックレビュー連載、第11回も、読後に残る知的疲労と静かな高揚をそのまま言葉にしてお届けします。

ジャンルも才覚の種類も人間性も全く違う3人の日本人男性が、この3ヶ月ほどの間に、それぞれの仕事のハウツーを表す新書(小川さんの本は厳密には新書じゃないけど)を出しました。
小説家・小川哲、臨床心理士・東畑開人、社会学者・岸政彦。
僕はもともとこの3人がそれぞれなされている仕事に興味があって、割と読んできているのですが、たまたま3人の手法を記す3冊を連続で読んで、上手く言えないのですがいつもよりだいぶテンションが上がりました。
この3冊、面白さの方向はもちろんそれぞれ全く別物で、したがって自分の脳内が刺激される場所も全く違う感覚はあるのですが、読了後に脳が充実した心地よい疲労にまで達したのは同じでした。
それにしてもそれぞれ何の関連性もないのに、凡人の僕のような読者でさえどこか共通点があるように感じられるのは一体なぜなのか。読了の興奮の後、しばらくぼーっと考えてしまいました。
で、たどり着いた個人的結論が、この3冊はいずれも<人間の能力と感性>について書かれた本なのではないか、ということでした。
- 著者
- 小川 哲
- 出版日
まず、小川哲『言語化するための小説思考』。
小川氏は小説家としてはまだ若手の領域にいる人だと思うのですが、多くの先輩や売れっ子作家を差し置いて、こう言うタイトルの本を書いてしまうことに、この人の、ある意味、不敵なまでの自信を感じます。
すごく合理的にも感じさせる論の進め方は、この人がもともと理数系でアラン・チューリングという数学者を専門に研究していたことと関係があるのかもしれません。
氏は、AIよりも先にほんとうに面白い小説というものを書いてみせたい、と言うのですが、そんなの冷静に考えれば言語破綻してるんじゃないかとさえ思えることでも、この人が言うと、できそうな気がする、と言うより、小説家は本来、そういう思いでいてくれないと困るよな、と読むこちらも思ってしまう。
伏線、と言う言葉が嫌い、とか、伊坂幸太郎をはじめとするミステリー系の作家などが聞いたら怒り出すんじゃないかと思うことでも、平気で口にして、そもそも自分の価値観がマジョリティではないと言うことに気づいても全く悪びれない。
マジョリティの読者が持つ価値観が、どうやら自分の価値観とは違うらしいと気づいても、そのこと自体が小説を書く際の土台になると考える。
氏は小説を書く際に、プロットというものは作らずに書き始め、読む側の思いを抽象的に捉えながら(架空のコミュニケーションを取りながら?)書き進めていくらしいのです。
この際、一旦自分の価値観はゼロにして馬鹿になってしまったような態度(これを氏は「小説ゾンビ」と表現する)になるらしい……
すみません。小川氏が書いている理論をもしかしたら僕が「誤読」しているかもしれません。しかし僕はこの本を2度読み直してそのような結論に達しました。
氏は、いつも髪を切ってもらう美容師さん(女性)はいつも寡黙で仕上がりもいいので職人的でいいなと思っていたらしいのですが、ある日彼女がパーティションを挟んで別の客に接した時、とんでもないハイテンションで話しているのが聞こえて、それに衝撃を受けて落ち込み、その落ち込んでいる事実にまた落ち込んだと言います。で、これは小説だなと感じたと言うのです。
読んでいる僕も脳の中で液体がぐるぐると流れる音が聞こえたような気がしました。
雑談が大好きな僕などは、行きつけの床屋に毎月行く時に今日は主人とどんな話をしようかな、などと思っていたりするのですが。
ライターの武田砂鉄は、この本のことを<小説書いたことないし、書くつもりもないけれど、なんか悔しい。>と評していましたが、僕も似たような思いを抱きました。何であれ、小川氏の頭が良すぎることだけは間違いなさそうです。
- 著者
- 東畑 開人
- 出版日
東畑開人『カウンセリングとは何か』。
先にお話しておくと、僕は以前、東畑氏に、人物ドキュメンタリーの対象として取材させてほしいと依頼して、ご本人にも一度お会いしたことがあります。
カウンセリングとはどのようなものか、外形的に何となく知ってるつもりになって、氏がユーザー(カウンセリングを受ける側の人のことを氏はこう呼びます)にカウンセリングを施す場面を軸に撮らせてもらえないか、と話したのです。もちろんユーザーの顔は出さないし、声も変えますなどと言ったのですが、結果的にこの依頼は断られました。
しかし今回、この本を読んで、僕がかつて東畑氏に対してした依頼は、なんて理解がなく小っ恥ずかしいものだったのか、と深く深く反省しました。
この本を読んだら、そんな場面、そもそも撮れるわけがないと言うことがよくわかりました。
一対一でなされるカウンセリングで、ここまで繊細な時間が流れるところに、カメラが(仮に据え置きで無人であったとしても)入っていいわけがない。
この本の後半に出てくる<冒険としてのカウンセリング>の中で、ハルカさん(仮名)に続けていくカウンセリングとその終わり方は、ちょっとした小説のようでもありました。
この時、東畑氏は一体どのような問い方をして、それに対してユーザーであるハルカさんはどのような態度や声で話すのか、無茶苦茶興味を惹かれます。
東畑氏の著作を読んで初めて知った言葉に<転移>と言うのがあります。
それはカウンセリングの途中で、ユーザーがカウンセラーに対してたとえば恋愛感情を抱くようになる、あるいは、怒りを覚えてこのカウンセリング自体を中止したいと願うようになったりする、そう言う感情になることを指す言葉です。カウンセラーは、そうした自分に向けられてくる感情に対して職業倫理上も当然感情で返すことは絶対できない。しかしこのカウンセリングはもう十分だから辞めにしたい、などとユーザーに仮に言われたとしても、まだ終えられていない、これではカウンセリングの失敗になるとカウンセラーが判断すれば、何とか維持できるように状況を戻さないといけない。
東畑氏は、こうしたカウンセリングを、ユーザー主演の舞台で自分も一つの役割を演じるのだ、と言う表現をします。
で当然のことながら、氏は仕事としてこうしたカウンセリングを並行して何人にも施しているわけです。基本的には、週に1回、1時間限定で、それ以上にも以下にもせず、ユーザーは来週のカウンセリングに向けて言わば宿題を持ち帰るような形になるらしいのですが、ユーザーはそのまま感情を抱き続けるとしても、東畑氏のほうは演じた感情の役割のようなものを毎回切り分けて次のユーザーに対処しないといけない。とても感情に支配されやすい僕などからすると、東畑氏の行為はもはや心理的サーカスみたいなものじゃないかとさえ思えてきます。
ハルカさんへのカウンセリングは、当初の予測を大きく越えて8年に及んだと言う。何それ!?と言う気にもなりますね。どうやってこのカウンセリングの終わりを迎えるのが適切なのか、それもほんとうに難しいらしい。お互いもう今回で終わっていいね、と言う状況にどうやって到達するのか。
凄いです。
三宅唱や濱口竜介がもし興味を持つなら、是非映画にしてみてほしいとさえ思う題材です。
でも一点大きな疑問も残りました。結局このカウンセリングを受ける人は、お金に相当余裕がないといけない。お金がほんとうにない人は、そんな心理的な悩みを持っている場合じゃなくて、この本の前半に出てくる<作戦会議としてのカウンセリング>を受けるしかない、と言うことなのかもしれませんが、果たしてそれでいいのか。
素人考えではあるのですが、そう言う限界を抱えていることを東畑氏はどのように考えるのか聞いてみたい気持ちにもなりました。
- 著者
- 岸 政彦
- 出版日
岸政彦『生活史の方法』。
僕はNHKの『72時間』とテレ東の『家、ついて行ってイイですか?』と言う番組が好きです。ここではたまたまその場所にいただけの何でもない市井の人の生の言葉が聞けたり、生活の一端を覗けたりする。ここで放送されるものには、ごく普通の人が、日々どんなことを思いながら暮らしているのかが垣間見れたような気持ちになり、僕のような視聴者はなぜかそこはかとなく楽しい気持ちになれるのです。
僕はこれまで『情熱大陸』などのドキュメンタリーを制作してきましたが、見る側としては、功成り名を遂げた人の話よりも、普通の人が日々どんなことに悩み、あるいは喜んだりしているのかにより惹かれます。
だから、岸政彦氏がある意味ライフワークのようにやられている仕事を知った時には、そんなことを地道にやり続けている人がこの社会にいたんだと言うことに驚くと同時に、僕には絶対できないけどそれは一体どのようなアプローチでなされている仕事なのだろうととても興味が湧きました。
なので4年前に、岸氏編纂による大冊『東京の生活史』が出た時も迷いなく購入し、この本を自分の部屋の本棚に、昔実家にあった百科事典みたいな感じで置きました。
150人の無名の東京人たちそれぞれの暮らしや人生についてただ聞き取った記録ではあるのですが、いまだにそんなに読み込めていないにもかかわらず、そう言う人たちの人生が自分の本棚に文字で表現されたものとしてあるのだと思うだけで、どう言うわけか、自分が日々を生きるエネルギーをもらっているような、そんな気がしてしまうのです。
この『生活史の方法』と言う本で、そもそもその生活を語ってもらう人をどのように見つけるのか、どんな風に聞いて語ってもらうのか、それをどのように文字にして本にして出版するにまでこぎつけるのか、について氏は丁寧に語っています。
そもそもそんなこと話したい聞いてもらいたいと少しも思っていない人にとって、全く知らない人から、その人生について語ってほしいと依頼されたら、たいていの人は大いに戸惑ってしまうんじゃないかと思う。
実際断られることも多いらしいのですが、話し手になってくれる人は、たまたま入ったスナックのママに話して、こんな人がいるよと紹介されて会ってみたその人だったりとか、およそ学問研究には似つかわしくないように素人目には思える手法なのです。
でもたとえば何らかのコミュニティに所属する人に、その人の人生について聞いてみたいとして真正面からアプローチしたら、そのコミュニティを象徴するような代表的人物だったり広報的な人を紹介されてしまう可能性が高そうです。そう言う人たちは、きっと話も上手そうだし、話を聞こうとしている人の思惑を勝手に掬い取って、こう言う話が聞きたいんでしょ、みたいなサービス精神に満ちた話を語ってくれるかもしれない。
でも岸氏の仕事は、そう言う語りを全く求めていないのです。
その人が所属している場所や、もっと言うとその人が持っている思想のようなものが聞きたいわけでもない。その人がこれまでどのような生活、人生を送ってきたのか、ただそれを聞きたい、と言うわけです。
だから話を聞く側も、たとえば、あなたにとって○○はどのようなものですか?みたいな抽象的な質問はしない。そう言う質問をすると聞かれたほうはすごく考えて、それらしい格好のいい言葉を返すかもしれないけど、その答えがその人の生活とは何の関係もなさそうなのは何となく分かる。
ドキュメンタリー番組の制作過程で、何度もそう言う質問をしてしまったことがある僕は、仕事の質が違うのはあれど、そのことに自覚的でなかったことに気づいて、少し耳の痛い気持ちにもなりました。
岸氏は、聞き手のあり方について、<積極的に受動的になる、あるいはピントを合わせない集中>をすると言います。
話を聞いていて、聞き手にとって興味がある言葉が語り手から出たら、聞き手はついそれを深掘りしてさらに聞いてみたいと考える。人物ドキュメンタリーの場合だとそれは定石と言ってもいいと思うのですが、氏はそう言うことはしないと言う宣言なのだと思いました。
考えれば考えるほど、僕には難しいと思える。
でもそうやって得られた語り手の言葉こそが、結果的にその人を最もドキュメント的に描き出すものであることも間違いなさそうな気もします。
だからその人が、言い出しにくそうにして語ったことも、あるいは何かを思い出して泣きながら語ったことも、そのまま文字化する。凄いです。
こう言う仕事にどのような意味があるのか、と問う人もいそうです。たとえば統計学的に考えたらその属性から何らかの傾向などを見出す、みたいな指標があると思うのですが、そう言うのも全くない。
それなのに、その記録を読む僕は、どうしようもない愛おしさのようなものを全く知らない人に対して覚える。不思議です。
でも岸氏は、一点、語り手がたとえば差別用語のようなものを使った時、それをそのまま文字にすべきかどうか、悩むと言います。論文や出版物として出すものである以上、その語り手個人が読む人によって糾弾を受けるようなことは避けたい。でも確かにこういう形で自分の人生について語ってくれる人に対して、世間で言うところのコンプライアンスみたいなものを求めるのもおかしい話ですし、難しいですね。その差別語を使うところに、その人個人の生活史の一端が見える気もするし、岸氏もそこは悩まれているようです。
東京に続いて、『沖縄の生活史』『大阪の生活史』も出版され、今後は北海道、京都、名古屋でもこのプロジェクトを続けていくらしいのですが、それが完成する頃には、結果的に重大な国家的資料にもなっているんじゃないか、そんな風に思います。
ああ僕も岸さんへ自分の生活を語る語り手になってみたい。
でもそんなこと考えてる僕は、放っておいても小賢しいこととか言ってしまいそうだし、この調査のお呼びでないことぐらいは自覚しています。
- 著者
- 岸 政彦
- 出版日
人生初めて『罪と罰』を読んだ秋|辞職プロデューサー、渾身のブックレビュー#10
定年後も読書熱冷めやらぬ元TVプロデューサー・藤原 努によるブックレビュー連載、第10回。「いつか読む」は永遠に来ない!還暦で初めて『罪と罰』に挑んだ著者が、若きディレクターとの記憶から古典を読む理由を見つけ出します。異色のネタバレ本やTV番組を駆使し、万全の準備で挑む「邪道(?)」読書術を全公開。大古典を120%楽しむ極意と、作中人物への現代日本人の率直な肉声を綴ります。
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