その時私は、砂浜に打ち上げられたクジラの死骸よろしく、ベッドの上に仰向けのまま、成すすべなく寝損じていた。
全てが暗幕の内に仕舞われてしまったみたいに無言を貫く夜のもと、自分の交感神経だけがあまりにもお喋りだった。
一度目覚めたタイミングでトイレに行った。戻ってきてベッドに潜り込み、厚ぼったい掛け布団の下、もう一度素知らぬ顔で眠りの中に紛れ込もうとしたが、そこに至る糸口はもうどこにも見当たらない。さっきまではあったのに。
トイレで起きた際も、眠りが遠くなるから時計は確認しなかった。でも窓のカーテンの奥には濃厚な闇が広がっている様子で、日付が変わってから、多分まだそんなに時間は経っていないのだろう。目を閉じてみても真っ平らな瞼の裏が目の前に立ちはだかるばかりで、覚醒した意識だけが脈打つ。
かといって思った通りの時間に目を覚ましたいつもの朝も、引き剥がせない鬱蒼とした何かが背後から自分をつけてくる様な寝覚めだった。いつものホットコーヒーを淹れている間中、そいつは私の背後から耳元で何事かを囁く。何を言っているのかは聞き取れない。どれだけ耳を傾けようとしても認識できないそれは、つまり私が知っている言語ではなさそうだった。抽象的な不安だけを私に募らせて、気付いたらいつの間にか消えているそいつ。
これからまたしばらくすれば、カーテンの隙間からそういった無情な朝が溢れ出してくる事を思うと、気持ちが重たくなった。朦朧とした不完全な自分のまま、また世界との迎合を始めなければならない。鬱陶しい。
そのままの姿勢で天井を見つめていると、唐突にある情景が眼前に広がる。
今私が居る夜と同じ、地続きのどこか、どこだかわからない寂れたテーマパークの一角に建てられたステージ、それは、今どこかに現存する実際の風景だと、私は確信する。
昼間はうだつの上がらないヒーローショーが行われていそうな簡素なステージ。老いぼれたそのステージが、日本のどこに位置するテーマパークに建てられた物なのか、見当を付ける事はできなかったが、或いは幼い頃に連れて来られたこともある様な、要するに取るに足らない平凡な場所だった。でも私は頭のどこかで、今見ているこの情景が、私がここに実存するのと同じように、この世のどこかに実存している場所である事を、確信している。
私はこれまでにも何度かこういった情景を見てきている。頻度は月に一度、今日の様に眠れない深夜にそっと、私の目の前にその情景は放たれる。その時々によって映しとられる場所は違っていた。でもそこには毎回、とある一人の人物が姿を現す。
ステージ手前には等間隔に四つの四角いスピーカーが置かれ、その奥の、今は誰も居ない舞台の中央に向けては、白いスポットライトが当てられている。無機質に静まりかえった闇の中だからこそ、その有機的な照明は、そのステージの裏に潜む人々の気配を過剰に匂わせる。夜中の寂れたステージに客はいない。強いて言うなら遠隔でこの情景を眺めている私ひとりだ。
すると舞台奥の右側の衝立から、真っ黒な四角いサングラスをかけた初老の男がステージ上に姿を現す。一見黒のダブルスーツを纏っているようにも見えるが、照明に晒されるとその生地は濃い緑である事がわかる。緑である必要を疑わせるほど黒に近い緑で、初めて見た時私は、人を迷い込ませる為だけに存在する森みたいな色だな、と感じた。
か細い足取りでステージの中央に寄って来るその男は、オーラがあるのかないのか、そこはかとない胡散臭さを漂わせている。もしかしたら飲酒をしている可能性もあった。でもその奥にはきっと何か熱い芯の様なものが宿っている。
私が月に一度、ひとりの部屋で見るこの情景の、不自然なライトアップに照らされるのは、いつだってその不自然な男だった。
彼がステージの中央に着くと、ステージの端から黒い軽装の若い男が足早にスタンドマイクを運び込んでくる。余談だが若い男が着ている黒いTシャツはどこに光を当てようと単純な黒で、彼がこの場では特別な意味合いを持たない人間である事を表している様だった。彼がそそくさと舞台袖に捌けるのも待たずして、限りなく黒に近い緑の男は、マイクに向かってボソボソと喋り出す。
「お前を大切に扱ってくれたあの人は、お前のことが欲しかっただけだよ馬鹿野郎」
言い切るや否や、私の耳を高音質なバンドの音がつんざく。ライブが始まった。
男はいつもこうして、どこかの夜中に出現しては、唐突なライブを身勝手に始める。そしてそのライブの様子は、なぜか毎回私の脳裏にリアルタイムで映し出されるのだった。他にこういった現象を知らないので正確な説明のしようがないが、それは身体的に目で見ているというより、脳が見せている映像といった感覚に近い。
今回は廃墟みたいなテーマパークの一角だが、先月ライトアップされていたのは終電後の、砂利が敷き詰められたどこかの線路上だった。それ以前のいつだったかは、風神と雷神に挟まれた雷門の下でライブは始まった。社会人になってから見舞われるようになったこの現象において、自分でも特定できる場所が映し取られたのはその時が初めてだったので、今日と同じく覚醒した意識を持て余した私は、散々迷った挙句、ベッドからその重たい体を引き起こして、家の前に呼んだタクシーに乗り込んだ。
行き先は浅草の浅草寺。
初めてこの現象に出くわした時から、そこもまた上手く説明は付けられないのだが、この映像はリアルタイムのどこかで実際に起こっている様子の中継であると、なぜだか自分の中では腑に落としていた。それだけその映写は鮮明だったし、もっと言えばそこで披露される楽曲たちは、私が聴いた事のない音楽や言葉で形成されていて、自分の内的世界からそれらのものが醸成されたとは、どうにも信じ難かったのだ。男が歌う歌の歌詞が、自分の生活とは全く接点のない事柄に終始している点も、やはり自分の脳みその外の世界で起こっている事の裏付けに思えた。
だがタクシーに飛び乗ったその夜も、実際の肉眼でライブを目撃するには至らなかった。
私がタクシーの車窓から流れ行く深夜の街を眺めている内に、男は最後の歌を歌い上げてしまった。彼のライブにアンコールは存在しない。
もう用のない雷門の前で降ろされた私は、その周辺にライブの痕跡が残っていないか、少しだけ歩いて見てまわって、何も見当たらず、またタクシーを拾って家路についた。次の日はそのまま寝ずに会社へ出勤した。
何もないけど 全てがある
濡れて光を映し出すリチウム
曲目はライブ毎に異なっていたが、どの楽曲の歌詞においても、自分の読解力ではそれを理解し切るには至れなかった。
男の歌は上手くはない。
いや、素人からすれば十二分に卓越した歌声なのだとは思うのだが、彼の歌を背後から支えているのはそういった事よりも、自分にとってのままならなさに対応しようとする人間の気概の様な感じがする。だから、男の歌声は無闇に力強い。歌詞の本質的な意味が理解出来ずとも、その人間の生命力の発光が、自分の仄暗い部分を照らしてくれる様だった。
誰にとっても 足りない
僕はゴーストキッチン
幽霊みたいでも あなたに 置き配
ライブは滞りなく進んでいく。
彼のライブにはMCというものが殆ど挟まれない。骨子は歌で構成される。
彼のライブを眺めながら、私は眠れない夜のその場をしのぐ。明日からまた始まる、自分のぬかるんだ人生のことを思う。
私は何に怯えて、何に急かされているのだろう。人生に終わりが来るという事が、歳を重ねるごとに現実味を帯びてくる。
送り主不明 ボトルメール
魂は固形 怒る減る
夢みたいな事が好きだけど、現実が私を切迫してきているのかも知れない。人生を上手くやれる自信なんて、生まれた時から持ち得ていない。人が当たり前にできる事を前にすると、私の汗腺から動揺が吹き出す。
男のサングラスに照明が反射して、その部分に真っ白な円が浮かび上がる。
スーツの深緑が、美しく思えた。漆黒ではなくて深い深い緑である事の理由が、なんとなくわかった気がした。
私の人生は、これで良いのか?
ライブは終盤。男は最後に、歌以外の言葉を独善的に囁き出した。
「次が最後の曲。これはね、最近作った曲。俺はいつも自分の曲に、曲名は付けてないんだよね。いや、名目上は付けてるんだけど、その名前は代替可能というか、実際は何だって良いんだよ。曲を作り終えた時にお腹が空いてたら「空腹」。曲を作り終えた時が夕方だったら「夕暮れの行方」。そう。そうやってあの曲達も名付けていったんだけどさ。その一個の物の話をしたい時に、名前が無いとその物を指せないんだよね。名前をつけて、その物の範囲を規定するというか。ここからここまでが「置き配unlimited」です、みたいな。でも本当はそうじゃないんだよな。全部が大きなものの一部というか、全部が繋がってるというか。それで言うと次にやる新曲のタイトルは、どこかの誰かが持っているもので、それがその規定の一線を越えて、俺の中に流れ込んで来たからそう名付けただけ。何のことを歌った歌かっていうのは、まぁ聴いた人が勝手に決めてくれや。意味なんてないから。意味なんて無くて、意味はあるから。じゃあよろしく。「岡山天音」。喋り過ぎると気分悪いわ」
最後の一言と被せる様に、浮遊感のある電子音楽が流れ出す。
宇宙の中を遊泳している、そんなイメージが私の中に浮かんだ。
現実を生きれば生きる程、自分というものが規定されていってしまう。自分が具体的になってゆく。自分の人生の行く末も、なんとなく見通せる様になってきてしまう。
ナイーブな真夜中は、やがて朝と混ざり合って白んでゆく。
男の新曲らしい「岡山天音」は、相変わらず何の事を歌っているのか、皆目見当も付かなかった。
その歌を聴きながら、私は窓のある方へと、何となく顔をやった。
やっぱりカーテンの隙間からは、少しだけ朝の光が漏れ出していた。
その光が露わにする部屋の片隅を、私は睨む。
睨んで少ししてから、私は見つめた。
続く彼の歌声を耳にしたまま、あとほんの少しの猶予に返答する様に目を瞑って、夢と現の間に、この身を預ける。
※この岡山天音はフィクションです。実在する岡山天音は曲名ではなく人名です。
【#29】※この岡山天音はフィクションです。/前にハマってた
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【#28】※この岡山天音はフィクションです。/ヘラがりを奏でる。
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【#27】※この岡山天音はフィクションです。/人の善意につけ込むカス
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※この岡山天音はフィクションです。
俳優・岡山天音、架空の自分を主人公にした「いびつ」なエッセイ×小説連載を開始!