井の頭線のホームで見かけた小出楢重のポスターに導かれ、たどり着いたのは文豪・谷崎潤一郎の深淵でした。元TVプロデューサー・藤原 努によるブックレビュー連載・第14回のテーマは、美の執着と「変態的」天才の真髄。随筆『陰翳礼讃』から晩年の『瘋癲老人日記』まで——自身の私小説的体験とも重なり合う、エロスと恐怖が隣り合わせの「充実の谷崎読書月間」を綴ります。

井の頭線渋谷駅のホームに、さまざまな美術館・博物館の展覧会のポスターが全面にわたって貼り出されている壁があります。
僕は3年前から、久我山の教室で毎週お茶を習うようになったこともあって、その帰りにこの壁のあるホームに定期的に降り立つため、そもそも絵を見ることが好きなのもあって、そのポスターたちをいつもじっくりと見渡してしまいます。井の頭線沿線には、吉祥寺や下北沢、駒場の東大もあるし、文化度高めの若い客がここに降り立つ想定でこういう特化したPRにもきっと意味があるのでしょう。
現に若くはないけど文化度はそれなりに高い自意識のある僕のような客はたたずんでしまうわけですから、マーケティングとしては成功ですね。
その壁に今年に入って、『小出楢重 新しき油絵』展というポスターが貼られるようになりました。僕はこの画家の名前を聞いたことがある程度だったのですが、そこに出ていた絵の一つをどうにも実物を見てみたいと言う衝動に駆られ、先月府中市美術館というところに足を運びました。とても髪の長い裸の女性が、背中で髪をまとめようとしているのを描いた『裸女結髪』という作品です。行った結果、僕はこの画家の作品群にだいぶ見入ってしまい、ファンになることにしました。
そしてその中で、小出楢重が43年という短い人生の晩年、谷崎潤一郎の小説『蓼喰ふ虫』の新聞連載での挿絵を担当し、あの谷崎に「私は楢重君の素晴らしいさし絵に励まされつつ書きつづけて行ったので、あの作品の出来栄えは楢重君に負うところが少なくない」とまで言わしめていたことを知りました。
あの谷崎、などとさも文学通な人みたいな言い方をしてしまいました。
しかし僕はそれまで谷崎の長編で読んだことがあったのは『痴人の愛』のみで、それでもこれにだけはかなり嵌まって3回読み返しております。
高校の頃初めて読んだ時、僕はこれを書いた谷崎潤一郎という作家が一種の気狂い(キチガイ・すみません今は差別用語であるのは知っていますが、谷崎自身がその著書の中で割と使っていたりもするので許してください)ではないかと思い、すごく興味を駆られたのです。
90年代の終わり頃に中公文庫から『潤一郎ラビリンス』というシリーズが出て、そのタイトルに惹かれてだいぶ読んだのですが、中にあるのはどれも短編ばかりでした。結構探偵小説みたいなのもあって面白かったのですが、その頃から谷崎作品より谷崎潤一郎という人物自身に興味が湧いてしまい、小谷野敦というだいぶこじれた感じの日本文学者の『谷崎潤一郎伝』なども読みましたが、日々の移ろいとともに、僕の中での“変態”谷崎への関心は、だんだん頭の奥にしまわれていきました。
しかし、美術展で小出楢重の絵に打ちのめされ、ミュージアムショップに立ち寄ったら、その挿絵がすべて出ているという中公文庫『蓼喰ふ虫』が売られていて、もう買わずにはいられなくなったのです。
痴人の愛 (新潮文庫)
- 著者
- 谷崎 潤一郎
- 出版日
- 1998-05-18
- 著者
- 小谷野 敦
- 出版日
- 著者
- 谷崎 潤一郎
- 出版日
すぐ一読。あーこれこれ!となりました。妻には夫公認の恋人がいて、夫のほうにも愛人がいるのもあって、いつ離婚しようかとお互い思っているのに、どういうわけか別れられないお話。これは新聞連載だったようで、読者の多くは毎回「なんなんだよ!?」と思いながら読んでいたのかもしれません。
しかし『痴人の愛』の衝撃に比べると今ひとつ食い足りない。
この小説が書かれる少し前、弟子筋の作家・佐藤春夫に対して「妻譲渡事件」を起こした人なのだから、きっともっと何てことしやがる!?な展開のある小説があるはずだ。実際にあったその事件では、妻の妹のほうを好きになった谷崎が、佐藤春夫が自分の妻に惚れていることに気づき、彼に妻を譲るということをメディアで発表までしてしまいました。しかし肝心の妻の妹のほうが振り向いてくれず、結局妻を手放すのももったいない気持ちになって取り戻そうとし、最終的には佐藤春夫と絶交するにいたるわけです。
そう、谷崎は社会的に見たら、スーパーエゴイストのダメ人間なのですから。
ちなみに、先述の画家、小出楢重が死ぬ前夜、谷崎は妻とともに彼を見舞っているのですが、それは、佐藤春夫との事件の後、何とか復縁した妻をまた別の人に譲ろうとして、前年に離婚が成立し、新しい妻となったばかりの人を連れて行ったようです。
風前の灯の命になっていた画家も、二人を迎えてどんな気持ちだっただろうかと想像せずにはいられません。
食い足りなさの思いに駆られながら、僕は久々に谷崎潤一郎の新潮文庫の梅を描いた臙脂色のカバー作品群を検索し、2冊を選びました。
『陰翳礼讃・文章読本』と『鍵・瘋癲老人日記』。
どれも読んだことないけど、僕の谷崎に対する先入観を決して裏切らないであろうことをこの2作ずつのタイトルに賭けてみることにしたのです。
しかしこの4作をどういう順序で読んでみようかと少し考えました。
何せ谷崎は、1886年に生まれ1965年に79歳で死ぬまでそこそこ長く生きているし、その執筆期間には、大正期から関東大震災、太平洋戦争にいたるまでと戦後もあって、執筆スタンスが同じであるわけはないと思えるからです。
東京日本橋蛎殻町生まれの生粋の江戸っ子であるにもかかわらず、関東大震災に恐れをなして東京を離れて、関西に移り、晩年になるまで東京に戻ることがほとんどなかったような人でもありますから。
今回自分が選んだ2冊4作は、大きく1930年代前半と1960年前後でいずれも関西移住以後ではありますが、同じ作家のキャリアの中でも30年近い差があります。
僕は交互に読んでみることにしました。
『陰翳礼讃』から『鍵』、続けて『文章読本』『瘋癲老人日記』の順です。
- 著者
- 潤一郎, 谷崎
- 出版日
- 著者
- 潤一郎, 谷崎
- 出版日
『陰翳礼讃』は、西欧などと比較しての“日本固有の美”について、いろんな物に触れながら、その美がいかに優れているかを切々と綴る随筆です。
タイトル通り、日本の美の真髄は、陰翳=暗さ、あるいは陰の中にうっすらと浮き上がってくるもの、はっきりと見えないことの価値、にある、というものです。
当然この“陰翳”というものには、性的エロス的なものも含まれてきますね。
薄暗いモノクロのイメージですが、読んでいて僕が個人的経験として思い出したのは、若い頃自分が住んでいた下宿で、当時つきあっていた女性とセックスばかりしていたら、部屋が和室で畳敷きだったことで、両膝が擦れて火傷みたいになって痛くてたまらなくなったことがあり、でもどういうわけかこういうのってなんかいいな、と思ったことでした。
いや、これは<美>とは違うか。
性の話ではないですが、谷崎はこの随筆の中の厠(=トイレ)のことも書いています。僕の世代だと子どもの頃は、いわゆるポッチャン便所というものがそこそこあったのですが、しかし自宅はもう水洗だったのもあって、たまに入ることになるポッチャンは、ある種の恐怖を誘うものであった記憶があります。
しかし谷崎の時代なら、それを陰翳の美と捉えたのは、そこだけが、家の中で暗闇の中外気と繋がっている空間でもあったことと関係があるかも、と思い馳せることができました。
ここ3年お茶を習うことで知ったのですが、茶室というものには時として相当暗いものがあり、日中ならその暗さの中でどこに日がさすかに価値があるとか、そういうこともあるらしいのです。行ったことはないのですが、京都に待庵という千利休が秀吉に茶を供した二畳の茶室が現存しており、どちら側に座るかで外の日を受けて、相手にその姿がどのように見えるかが変わってくると言う話を読んだことがあります。
しかし谷崎はそうした闇の中にうっすらと浮かび上がる絢爛豪華な美、みたいな物にも言及しています。確かにお寺なのでそう言うのを見るとハッとしますが、これも少し僕には恐怖とも感じられます。
この随筆の中では、恐怖のことは一つも触れられていませんが、僕は読んでいるうちに美と恐怖はある意味隣り合わせなのではないかと改めて思うようになりました。
次に読んだ小説『鍵』。谷崎70歳の時の作品です。
いやこれぞ僕の谷崎への先入観を限りなく刺激して、もっとその先の地平まで連れていってくれる、真骨頂とも言える作品だと思いました。年季を重ねていよいよその描写も研ぎ澄まされてきている感じがします。
夫と妻、それぞれの日記が交互に綴られる構成なのですが、夫は妻が木村という男に惹かれていて寝盗られるのではないかという疑心暗鬼に陥っており、それを日記に書いて、でもそれを妻に盗み読まれてしまうかも、と思っています。いや盗み読んでほしいとの期待感さえどこかに持っている。そして妻も自分の日記について似たような思いを持っている。しかし地の文がないので、実際盗み読んだかどうかもなかなかわからない。いいですねえこの感じ。ワクワクします。
僕は個人的に2001年の元旦から今日まで毎日手書きの日記をつけている人間でして、かつて2度目の結婚をしていた時に当時の妻にそれを読まれて、怒りをぶつけられ、そこから離婚に繋がっていった思い出があります。
あの時は、離婚裁判にまでなり、弁護士さんに僕の日記を全て読ませてほしいと言われ、そこから作られた調書が当事者の僕が読んでも面白いと思えてしまうものになったりもしてちょっと凄いなと思いました。僕の場合、日記をつけていたことが、離婚するにもやや有利に働いたのです。
話がそれましたが、いやこの小説、終わり方も圧巻。そうきましたか、と思えます。なんで『痴人の愛』の次に読まなかったのだろうと自分を責めました。
『文章読本』。
これは、『陰翳礼讃』とほぼ同じ時期に書かれたもので、谷崎が文章の書き方というものを項目を箇条書きにしながら教えてくれる当時の言わばハウツー本です。wiki情報ですがこれは当時ベストセラーになったらしいです。
この本は2026年の今読んでもそんなに時代を感じさせない示唆に富んだものだと僕は感じました。
『陰翳礼讃』での指摘とも絡んでくるのですが、谷崎によると日本語は語彙が少ないのもあって、西欧語と比べて、たとえば一つの形容詞の中にいくつもの意味が込められたりしていることもあって、ある意味、みなまで言わない奥ゆかしさ、というものへの理解が必要、ということなのかなと僕は感じました。
でそれを考えれば考えるほど、日本文学の海外翻訳などは、当時はかなり難しいと感じられたのではないか、とも思いました。
現代では日本語の特性や文脈というものを正確に理解できる海外研究者なども多いので、そこはかなり進んでいると思うのですが、当時の谷崎からすると海外に目を向けて日本の小説を読んでもらいたい、みたいな風潮はまずなかっただろうと思うので。
世相的には日本が国際連盟を脱退して孤立化に進もうとしている時期でもあり、でもまだ大きな戦争に入る前ではあるので、まだ日本で文章を読んだり書いたりする十分な余裕がある時代だったことがベストセラーに繋がったのかなと思いました。
閑話休題。そんな個人的谷崎漬けをしている時に、ふと新聞の広告で、『読む技法』という新書が売れていることを知り、昔の『文章読本』を読んだ後でもあったので、ちょっと読んでみるかという気になりました。
新書はいつも結構当たり外れがあるな、という印象を持っているのですが、これはですね、当たり!でした。
特に第4章、芥川龍之介の短編『蜜柑』と梶井基次郎の短編『檸檬』の小説としての構造が同じであることを著者がある意味証明しようとするのですが、いやこれは面白かったですね。『蜜柑』も『檸檬』も個人的に好きで何度も読んではいるのですが、また読み返してしまいました。
主人公の感情線のようなものが物語の進行とともに折れ線グラフで示されているのですが、原作を読んだ上でその説明を読むと、うひゃあなるほど、となってしまうのです。これはだいぶ昔に流行した<構造主義>という哲学にもつながるものらしいのですが、学生の時考えてちっとも分からなかった構造主義が今さら少しだけ理解できた気がしました。
- 著者
- 伊藤 氏貴
- 出版日
そして『瘋癲老人日記』。これは谷崎75歳の時の作品でいよいよ晩年と言っても差し支えないでしょう。
『鍵』に似て、ほぼ全編、だいぶ年老いた男の日記で構成されます。
『鍵』の男と同じく、漢字とカタカナ混じりでずっと進行していくのですが、どういうわけか、『鍵』の男パートより読みやすいのです。いろいろ考えましたが、主人公の老人そのものが、『鍵』の男より馬鹿になっていて、思考回路そのものがある意味単純になっているせいかも、と途中で気づきました。
ところが、なのです。
数日前は『鍵』最高!と思っていた僕は、さらに最高の谷崎小説をここに見つけてしまったのです。
身体がかなり悪くなっている主人公の老人は、自宅に泊まってずっと見てくれている看護婦もいるし、妻と息子とその嫁、さらに孫もいて、ある意味至れり尽くせりの晩年的闘病生活を送っています。
しかし息子の嫁の颯子(さつこ)の魅力にとことんやられてしまっており、何とかして彼女を自分の病床に呼び寄せ、あまっさえ性的接触も図ろうとします。その義父の思いを手玉に取るように颯子はどんどん増長した態度を取るようになっていくのですが、妻をはじめ誰も老人の酷すぎる行動に鈴をつけることができない。と言うか、家の命運(主に経済的な意味で)を一手に握っているのがこの老人であるため、いざとなると誰も口出しできないのです。
現代の家庭にもしこんなことがあって、SNSに晒されでもしたら即世間に抹殺されるだろう、と言うような話なのですが、そんなバカな、という話がこの瘋癲老人の日記ではずっと続き、あまりにも情けなさ過ぎると感じる末に、死ぬ前にこんな老後があればちょっと楽しいんじゃないかと今62歳の僕には思えるようになっていきました。
『鍵』と違って、主人公の老人は結局この物語の最後までヨボヨボになりながらもまだ死なない。何だか終わらない晩年が続いているような、そんな気さえしてくるのです。
読了後のこの明るい僕の気持ちは何なのか。
そう言えば、この前読んだ『読む技法』の構造主義に従えば、『鍵』と『瘋癲老人日記』は、主人公の感情線の動きは大変似ているのですが、どちらも老年になった谷崎は、数年前に書いた小説をもとに、さらにイッチャッた小説をここらで書いてやろうと思ったのかもしれない。それこそ<瘋癲>だから、もはや確信的構造主義です。
しかしあんなに完成度が高いと思った『鍵』の後に、そう言う姿勢でさらに完成度の高い『瘋癲老人日記』を書いたのだとしたら、結局のところ谷崎は天才だったのだと僕は思わずにはいられませんでした。
ああ『痴人の愛』以外の長編を読めてほんとうによかった。
充実の谷崎読書月間でした。
映画の純文学、小説の純文学|辞職プロデューサー、渾身のブックレビュー#13
元TVプロデューサー・藤原 努によるブックレビュー連載・第13回のテーマは、映画と小説のあいだで、「純文学って何なんだろう?」と立ち止まるような読書。映画監督・研究者の鼎談本、言語をめぐる思索書、そして芥川賞受賞作──「わかった気になっていた視点」や「言語化」という言葉の輪郭が、少し揺さぶられます。
info:ホンシェルジュX(Twitter)
未来の「仕掛け人」のヒントになるコラム
華やかな芸能界には、必ず「裏方」と呼ばれる人々の試行錯誤の跡がある。その「裏方」=「仕掛け人」が、どんなインスピレーションからヒットを生み出しているのかを探っていく特集です。