原作モノの映画化について|辞職プロデューサー、渾身のブックレビュー#15

更新:2026.4.23

社会不適合な後輩から薦められたのは、苦手なSF大作でした。元TVプロデューサー・藤原 努による連載第15回は、原作と映画のあいだに漂う「割り切れぬもの」がテーマ。寝落ちした映画館で覚えた嫉妬を原動力に、アンディ・ウィアーから濱口竜介、旧知の監督による直木賞作の映画化まで——元プロデューサーとしてのプライドと複雑な胸中を抱え、表現の真髄へ迫ります。

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原作モノの映画化について

会社時代の後輩に、かなり社会的に不適合なのではないかと感じさせる男性がいます。彼は僕よりもはるか昔に会社を辞めて、その後はプロレスの会社や個人でのFX取引などの仕事を経て、今は介護職についているのですが、彼のSNSはいつも身も蓋もない、著名人などへの誹謗中傷に満ちており、その一方で本人は常に希死念慮に取り憑かれている様子でもあります。

そんな人物なのに、僕は時として彼の誹謗中傷投稿に思わず、いいね!しそうになってその度に思いとどまっています。

簡単に言うと彼の投稿は、ひどい内容であるにも関わらず、時としてこいつどうにもセンスあるな、と思わせるところがあるのです。これはもちろん僕の個人的感想ではあるのですが。

そう言う僕の気持ちを見透かしているのか、彼は個人的に読んで気に入った本を僕にLINEで急に薦めてきたりします。

で、それをつい読んでしまうとこれが結構自分的にも当たりだ!となることがあるわけです。

そんな彼が一年ほど前、「藤原さん、『プロジェクト・ヘイル・メアリー』てのがめちゃおもろいので、絶対読まんといかんですよ!」と送ってきました。

僕は一応読書好きを自認する人間ではありますが、数あるジャンルの中でもSFというやつがどうにも苦手なのです。

小説でも映画でももちろん手をつけてみることはあるのですが、正直、これ!というものにまだ出会ったことがありません。

SFはその言葉通り、現実世界では起こり得ないことが起こってくる物語であるわけですが、近頃のSFは、ベースになる科学などについてその造詣や論理についての知識がないとなかなかついていけないのではないかと思うことがあります。まあ一言で言うと、何かすごいことが起きているみたいだけど、どうすごいのかが今一つよくわからない、みたいなことになってくるのです。

それでも僕は後輩が薦めてくれた『プロジェクト〜』を上下巻購入し読み始めました。

著者
アンディ・ウィアー
出版日
著者
アンディ・ウィアー
出版日

そして翻訳文章もいたって平易であるにも関わらず、上巻の途中で挫折しました。一つには主人公の人物主観でとてもライトなノリで話は進むのに、宇宙や科学に関するあれこれの話が一つも頭に入ってこなかったからです。

文学が好きなんて言っていながら、このライトな感じと難解にも思える科学用語みたいなものの混淆が、僕の読書理解魂のようなものを萎えさせた、と言うようなところがあるかもしれません。

「あれは俺にはダメだったよ」と彼に返しました。

そこからしばらく時間が経ち、『プロジェクト・ヘイル・メアリー』がライアン・ゴズリング主演で映画化されたというニュースを見ました。

あれは無理だったなーと言う記憶がよみがえり、映画好きでもある僕もこれはパスしようと思っていたのですが、著名人の映画評などを見ると割と評価がよくてそんな言うなら見てみるかとふと思い、結局公開初日に見に行ってしまいました。

しかし体調があまり思わしくなかったせいか、何度か寝落ちしてしまったようで、やたら長い映画だな、と言う印象しか残らず、席から立ち上がろうとすると、後ろの席にいた若い兄ちゃん二人が「めちゃくちゃ面白かったな!」などとすごく盛り上がっているのです。

その瞬間、映画好き本好きを自称する僕の心が得体の知れない嫉妬のような感情でいっぱいになりました。

このままでは名折れになってしまう、と言うどこに向けたのか分からない感情に包まれ、まずは『プロジェクト〜』の原作を頭から読み直そうと思いました。

一つには映画の中で、サンドラ・ヒュラーというドイツ人の女優さんの空気感だけがどうにも頭に残ったというのもありました。

この人誰だっけ?『落下の解剖学』や『関心領域』に出てた人だ!なんか聡明そうな不思議な空気感の人で、『プロジェクト〜』の映画の中でも、空母の中、みんなの前で急に歌い出す場面だけが強い印象に残り、あの役が原作でどう描かれているのか気になったのです。

そして『プロジェクト・ヘイル・メアリー』上下巻、今度は一気読みしました。なるほど、そういうお話だったのね!という満足感に包まれました。

主人公のグレースは、何かちょっと驚くと「ワオ!」と驚くのですが、何だよそれと失笑を禁じ得ないと思っていたら、たまたま朝日新聞の天声人語で宇宙飛行の用語に「ワオ信号」なるものがあることを知り、自分の勝手な思い込みを反省する一幕もありました。

科学にまつわる話は相変わらず十分な理解には行き届かなかった気がするけど、一つだけああこういう考えでSF小説というのは作られていくんだな、と腑に落ちたことがありました。

物語の後半、アストロファージというエネルギーを捕食するタウメーバと名付けられる生物が見つかり、これを地球に送らないといけないというミッションが生まれるのですが、この生物が窒素に弱く、しかしどのようにやっても窒素がゼロの状態にはできないことがわかり、ある程度のパーセンテージの窒素があっても生き延びられるタウメーバを作っていこう、とするくだりがあります。

この原理を原作の中では、抗生物質との関連で説明されているのですが、これまで抗生物質というものの存在の意味がきちんと掴めていなかったのですが、この記述のおかげで自分の蒙(もう)が啓(ひら)けた思いがしました。

で同時に、すごいなSF作家ってこんな考え方をするんだ、とも思いました。

それにしてもサンドラ・ヒュラーが演じたストラットという人物は、僕にとって原作でもとても魅力的でした。世界が滅ぶかもしれない、という緊急事態の中で、それを何とかしないといけないミッションの責任者である彼女は、現代の世の中にあるコンプライアンスみたいなものは一切排除して、この事態打開が少しでも達成できそうな道を意地でも選ぶ。原作の中で、ストラットはヘイル・メアリーにグレースを強制的に乗らせようとする時、自分は実は歴史の研究をしてきた人間なのだと語る。そこまで読んだ流れだとストラットの言葉の意味することがよく理解できます。

映画にはこの場面がないのですが、その代わりに原作にはない、先述したストラットが歌う場面があるのだとふと気づきました。

結局、もう一度映画『プロジェクト・ヘイル・メアリー』を見ることにしました。

原作と映画。どちらかにあってどちらかにないもの。この作品の場合、僕的な観点では補い合って、同点ぐらいの価値あるイメージが残りました。

 

そんなことでふと原作のあるものの映画化というものについて考え始めました。思えば黒澤明の『羅生門』は、芥川龍之介の同名短編が原作で映画の導入はそこだけれども内容は芥川の別の短編『薮の中』が軸になっている。あの映画の場合、『羅生門』だけを原作としたら黒澤得意のエンタメ性はなかなか生まれない気がするけど、『薮の中』と言う、トリッキーな筋の物語を入れることで、映画としてワクワクする面白さを獲得することになったのだなと思います。

一方、村上春樹の短編を、濱口竜介が映画化した『ドライブ・マイ・カー』。以前この欄でも書きましたが、僕はそこそこ熱めの春樹読者であったりもするのですが、その映像化作品はそれほど多くない中、数本の中でも当たり外れが大きく分かれるな、と言う個人的な印象を持っています。

まず村上春樹原作の場合、原作に忠実に映画を作ったとしてもそんなに面白いものにはなりません。やっぱりあれは文章や文体あってこそのものだと思うので。その中で濱口氏が手がけた映画『ドライブ〜』は、原作をベースにしながらも、監督の想像力、創造力を駆使した全く別物の一種の抒情詩として完成されたような、そんな印象を持ちました。

濱口氏は、原作の要素自体もかなり改変し、さらに映画の7割ぐらいはオリジナルの要素を加えて作っています。しかしそこに通底するトーンは、濱口氏が村上春樹の文章や文体をリズムとしても感覚としても内在させながら作っている感じがして、春樹世界をきちんと守りつつ独自の作品を作り上げた、そんな思いに囚われ、この映画を見た時、僕はなぜか言いようのない嫉妬を覚えた記憶があります。

著者
["芥川 龍之介"]
出版日
著者
村上 春樹
出版日
2016-10-07

 

嫉妬と書いてふと思い出したのですが、映画などのプロデューサーをしている人は、映画監督という存在に対して、どこか嫉妬に似た感覚を持っているのではないかと僕は思います。

僕自身がずっとプロデューサーと言う仕事をしてきて、でもその映像作品をどう作るかはやっぱり監督のもので、自分のような人間には立ち入っていくことができない領域と感じてきたからです。

その意味で今年公開された原作モノの映画について最後にお話ししておきたいと思います。

『木挽町のあだ討ち』。

これは永井紗耶子の直木賞作品を源孝志氏が脚本・監督して映画化されました。先に言っておくと、この源さんという人、ホリプロ時代の僕の3年先輩に当たる人で、かつてNHKのドキュメンタリーなどを彼が演出で自分がプロデューサーとして制作したこともあります。

バブル世代の先輩・後輩というのは、今と違ってなかなか後輩が先輩に物申せない空気がそもそもあったのですが、ある番組を源さんの演出で作った時、テレビ局側への最初のプレビュー(番組のできあがりの予想を見てもらい、感想とともに修正などへの意見をもらう場)で、氏はその時番組全体の1割ぐらいしか編集できておらず、そこをちょびっと見せただけで残りの展望を自分の言葉の説明だけで局側にプレゼンして見せました。

そんなプレビューがあっていいわけがない、と僕は内心かなり憤慨していたのですが、先輩には言えず、局の人から二人して叱責を受ける覚悟だったのですが、編集していない大半の部分についての氏の説明は、何だか面白く出来あがりそうにも聞こえ、局の人も上手く丸め込まれてしまいました。

その時、僕は源さんに軽い嫉妬を覚えたのです。

あー物作りの人は、自分の言葉だけでスポンサーにあたる人をこんなにも上手く丸め込めるのだということに。

実際この人は物事をさも面白そうに語って聞かせる術に長けていました。

その後、何作か仕事を一緒にしたものの、僕は自分から源さんの仕事に絡まないように距離を置くようになりました。

演出の人がこれだけ口が立つ人だと、プロデューサーの立場で何を発言しても、作ろうとしている映像作品に影響を及ぼす(別の言葉で言うと“爪跡を残す”)ことはできないなと思ったからです。

その後、源さんはドラマや映画にもより大きく触手を広げ、そのいくつかを一視聴者として僕も見て、相変わらず上手く作っているなあ、との感想を抱いたりしていました。

そして『木挽町のあだ討ち』。

著者
永井 紗耶子
出版日

僕はこの原作を直木賞受賞の時に読み、やむにやまれぬあだ討ちに臨むことになる男を、周囲を取り巻く人間たちがその手助けをするに至るそれぞれの半生を人情風に見せる群像劇と捉え、そのえもいわれぬ心地良い感じに酔いました。

源さんはこれを映画化するにあたり、そうした人情群像劇を、あだ討ちの謎を、それを手伝った人たちにそれぞれの事情を取材して推理する言わば探偵のような人物を主役にして作りました。この人物、原作ではほとんど言葉を発さない存在で、あー源さんは、原作を逆手にとって、よりエンタメとして頭から終わりまで一貫してワクワクしながら見られる、そんな映画にしたのだな、と思いました。

かつて自分が目にしたテレビ局の人間に対していかにも面白そうに話し、ある意味ケムに巻く、氏の姿を思い出しました。

映画の末尾には、原作にもない、見る人がよりスカッとするオチが用意されていました。

つくづく源さんはエンタメの人なんだなとの思いを強くしました。その上手さはある意味小気味いいほどだけれども、今、僕個人はそう言うものを求めているわけではないのだなとも感じました。

映画、というものに何を求めるか、というのは人によるでしょう。

面白い、に越したことはないけど、僕は映画に、物語のその先にあるえもいわれぬ空気、あるいは割り切れぬもの、みたいなことを期待しているのかもしれない。もちろん何が正解とかいうのはないと思います。

割り切れぬ、と言えば、今回冒頭に書いた社会不適合の後輩は、SNSに誹謗中傷のあいまに、たまに自分が丹精込めて育てている植物のことを写真とともに投稿したりもします。あと若い頃の原田知世が好きで『天国に一番近い島』という映画の影響で、50歳を越えてから今まで全く学んだことのないフランス語を勉強し何級かの検定にも通ったらしいです。

割り切れません。

僕はどうやら、割り切れない、でも何だかその空気が気になるものに惹かれるようです。

 


突然、谷崎|辞職プロデューサー、渾身のブックレビュー#14

突然、谷崎|辞職プロデューサー、渾身のブックレビュー#14

井の頭線のホームで見かけた小出楢重のポスターに導かれ、たどり着いたのは文豪・谷崎潤一郎の深淵でした。元TVプロデューサー・藤原 努によるブックレビュー連載・第14回のテーマは、美の執着と「変態的」天才の真髄。随筆『陰翳礼讃』から晩年の『瘋癲老人日記』まで——自身の私小説的体験とも重なり合う、エロスと恐怖が隣り合わせの「充実の谷崎読書月間」を綴ります。

特集「仕掛け人」コラム

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