食わず嫌いを抜ける|辞職プロデューサー、渾身のブックレビュー#17

更新:2026.6.19

大岡山の書店での出合いをきっかけに、元TVプロデューサーの藤原 努が女性芥川賞作家たちの「食わず嫌い」に挑む連載第17回。柴崎友香のドライな質感、多和田葉子の軽やかな怪奇譚、そして津村記久子が描くロスジェネ世代の苦悩。作品の背景にある文化や時代性を、元制作者ならではの鋭くも泥臭い視点で解き明かします。

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食わず嫌いを抜ける

先月のこの欄でも書いた大岡山の『青熊書店』で、『日本文学の翻訳者たち』と言う本を手に取りました。

著者
金原 瑞人
出版日

その冒頭で、竹森ジニーというイギリス人の翻訳家がインタビューに答えていて、この人は村田沙耶香の『コンビニ人間』を英訳した人なのですが、その中でへーぇ!と思うことがありました。

この小説については前にも書いているので内容については省きますが、「いらっしゃいませ!!」と言う店員の客に対する掛け声のくだりは、物語の性質上当然のように何度も出てきます。

竹森氏は、この「いらっしゃいませ」を英訳するにあたって散々悩んだあげく

「irasshaimase!」にしたと言うのです。

この日本独特のお客様に対する丁寧な挨拶にあたる英語をどうしても思いつくことができなかったと。

えっWelcome!とかじゃないの?とか僕などは一瞬思ってしまったのですが、この「いらっしゃいませ」には、日本語独特の馬鹿丁寧さ、と言うか、それこそ登場人物の白羽さんがほざいたように何度も連呼すると新興宗教じみてくるニュアンスもある。

なるほどその文化的バックボーンの絶妙な空気感を表現するためには、むしろもうローマ字にしてしまって、英語話者の人にその空気を想像してもらうのが一番いいと言うことなのか、と思いました。

 

かつての僕は受験英語は結構得意であったにもかかわらず、今は現代日本語の話者、読者、書者としてしか生きていけない人間になりました。

海外の著作物でも日本古典でもそのまま読めれば、自分もどんなに賢くなれただろうかとほんとうに思いますが、まあバブル世代の人間なんて、大半そんなものだと思います。

あ、また世代のせいて言ってしまった。叱られちゃうな。

しかし真面目な話、たとえば海外文学を読む時、言葉だけでなくそこにある文化性を理解するのは、逆パターンの「いらっしゃいませ」の例を聞くまでもなくかなり難しい。これまでも『魔の山』『罪と罰』『城』などと言った海外の名作古典と呼ばれるものを翻訳で読んできた僕ですが、純然日本人として生きてきた身には、ゲルマンやスラブ、ユダヤの人たちにふつうに備わっている空気をそれこそ研究者でもないので吸うことなんてできません。

 

そんな中、『日本文学の翻訳者たち』を読み進むうちに、台湾人の翻訳家の人が、柴崎友香の『春の庭』がとても面白く、訳してみたいと思ったところからこの仕事を始めたと言っていました。

柴崎友香さん。

このコラムでも彼女が自らのADHDの症状や生活への影響について切々と綴った『あらゆることは今起こる』、谷崎潤一郎賞を受賞した小説『続きと始まり』について書いたことがありますが、僕はまだ彼女の作品のあまりいい読者ではないという自覚があります。

以前映画化もされた『寝ても覚めても』を読んで、なかなか文章のテンポが自分的につかめず、途中下車してしまったこともあり、もしかしたら読者としての僕の時間のつかみ方のようなものが、彼女の作品とずれてしまっているのかも、とか、いろいろ思ったのですが、『春の庭』は、芥川賞受賞作。

未読だったのですが、文化の違う台湾の翻訳家が面白いと感じたその空気を日本人の僕が味わえるのか試してみたいとふと思いました。

 

『春の庭』。

著者
柴崎 友香
出版日

世田谷のアパートに住む住人・太郎と同じアパートの別の棟に住む西さんという少し年上の女の人を軸に進むこのお話。アパートの隣にある大きな家の庭がかつてそこに住んだ夫婦が撮影した「春の庭」という写真集として出版されていて、その写真集に魅せられた西さんは、何とかして今のこの家の中を見てみたいのだと言う。今はその写真の主とは全く別の家族が住んでいるらしい普通の家なのだけれども。そんなちょっと不思議なモチベーションで進む物語なのですが、この話、もっと滑稽味を出すことも感傷的にすることもできるだろうのに、柴崎友香さんの文章は、どこかドライで読む人を感傷に溺れさせるようなことはしません。

そのために僕のような人間を最後までグッとくるような気持ちにはさせてくれない。しかしそれこそがこの人の小説が持つ味のようなものなのかもと思い始めました。物語の最後のほうでちょっとした事件が起こります。相変わらず淡々としているので、読んでいる最中は心にさざなみが立つぐらいの感じだったのですが、読了後その風景を思い浮かべているとなんだかとてもしんみりした気持ちになってきました。

一言でドライだなどと書いてしまいました。でも素っ気なく煽情的でもない表現のせいで、読む人の感情にタイムラグが起きるのかもしれません。

タイパの時代には向かない、スロウに味わう小説の魅力に気づいた気が今ちょっとしています。

 

柴崎友香さんの文章の魅力に気づきつつあるうちに、これまた不意に、自分が未読の芥川賞作家のその受賞作を他にも読んでみたい気持ちになってきました。それも女性作家の。

今どきフェミニストでもないのに、女性作家のほうが読みたいなどと言ってんじゃねーよ、との誹りも受けそうですが、僕はまあそんな責任ある立場でも何でもないし、ある種の感覚でモノを書いたとしても許してもらえるでしょう。

個人的な思いなのですが、実は村田沙耶香、金原ひとみ、川上未映子の3人を僕は<現代日本文壇三人娘>などと呼んでいます。

純文学とエンタメ文学のつなぎ目のようなところにいて、その生み出す作品が毎回おしなべて絶好調、人気も高く、別のメディアからも引くて数多、みたいな観点から、ここ数年はこの3人だなと。

いずれも芥川賞作家でもありますが、じゃあ小川洋子や川上弘美は違うのかと言われそうですが、僕の中ではこの2人は、少し年長というのもありもはや大御所感なのですね。その一方で、綿矢りさや、もっと新しい高瀬隼子、九段理江なども結構読んではいるのですが、三人娘の領域にはたどり着いてないな、という感じでしょうか。しかし三人娘の芥川賞受賞作はもう読んでしまっているので今回はそこには行きません。

 

それで未読の女性芥川賞作家の受賞作の中から、多和田葉子『犬婿入り』と津村記久子『ポトスライムの舟』を読んでみることにしました。

多和田葉子さんについては、食わず嫌いみたいな感じで、これまで一冊も読んだことがありませんでした。この人がドイツ在住で、たまに新聞投稿などを読むとたぶんにハイブローな感じがして、とっつけない気がしていたのです。

日本のノーベル文学賞候補作家では村上春樹の次に名前が上がっているらしいことも知っていて、より遠く感じたのかもしれません。

しかしこんなふとした気分になった時こそ、多和田さんの受賞作を読んでみるチャンスなのかもと思いました。

『犬婿入り』。

著者
多和田 葉子
出版日
1998-10-15

一読。びっくりしました。何だよ、面白いじゃん!何これ、ちょっと村田沙耶香的な面白さも彷彿とさせる。いや、多和田さんの方が村田さんよりは文学的にも先輩だから村田沙耶香のほうが多和田さんを彷彿としているということなのか。

主人公の北村みつこは、小学生の子どもたちをみる塾の先生だけど、最初から得体の知れない感じで、なんか途轍もないエロい話なんかもして子どもたちを混乱させ喜ばせる。子どもの母親たちはそんな報告を聞きながら疑念を抱きつつも、みつこのことが気になってしかたがない。そしてその塾にこれまた得体の知れない若い男が突然棲みつくようになって、話はいろんな人を巻き込みつつ怪奇譚のような様子を呈してくるのですが、なんだこれ、最後はちょっと怖いし、謎も残るけど、短い物語の内容が頭に染み付いて離れない。そうか多和田葉子はこういう小説を書く人だったのですね。食わず嫌い撤回します。それにしても謎はありつつも、軽やかな小説です。読み終わると、この内容について人と語り合いたくなる、そんな感じがしました。

そして津村記久子さん。

先に言っておくと僕はこの人の文章が割と好きで、その最大の理由は、エッセイなどを読むとたぶんに自虐的な傾向が感じられ、その「私なんか」みたいな空気に、自分も正直あまり自信がないほうなのでホッとしてしまうのです。

前にここでも彼女の『やりなおし世界文学』という本を取り上げましたが、文章のスタンスが僕の気持ちにもフィットして、おかげで自分が海外文学に手を出していこうとするきっかけをくれた感じがしました。

『水車小屋のネネ』という長編は読んでとても温かい気持ちになりましたが、芥川賞受賞作の『ポトスライムの舟』は初めてでした。

著者
津村 記久子
出版日
2011-04-15

読んで思いました。世代のせいにしてはいけないとさっきも反省したところで何なのですが、1978年生まれの彼女はロストジェネレーション世代だったのです。

この小説の主人公女性ナガセは、3つの仕事を毎日かけ持ちしながら母親と実家の奈良で暮らしており、そこまでしなくてもと周囲の人が思うほど詰め込んで仕事をしています。彼女はどうやら労働で自分の時間を埋めてしまいたい、そんなある種ワーカホリックなにおいも感じさせます。

しかしどの仕事もそれほど好きではなくてこなしている感じもある。

一体、何のために仕事をしているのか?

そうはっきりと自分に問う場面はないのに、そのことに気づいて絶望しないように隙なく働いているように僕には思えました。

学生時代の友人女性たち3人との絡みの中で、その不幸や幸福、生き方について彼女も何らか感じているようなのだけど、毎日の仕事があって自分的に深掘りしていくようなところもない。

しかしメインで働いている工場にたまたま貼られている世界一周ツアーのポスターを見てその金額が163万円であるのを見て、この工場で働く一年分の自分の給料とほぼ同等なのに気づき、残り2つの仕事で得るお金だけでこの一年を凌げば、一年後にこの世界一周に行けると考える。

何だかあまり健康な考え方には思えないし、実際その思いとお金は日常のさまざま出来事によって削り取られていく。

男女の性差もあるけど、この感じは1963年生まれの僕からすると、もしかすると就職氷河期世代の一つの象徴のようにも感じられました。僕が勤めていた会社の後輩や外部のフリースタッフなどにもこの世代の人たちがかなりいて、その生きづらさの片鱗と何度も触れたことがあるので、他人事ながらこの空気は何となくわかります。

津村さんの文章にあるそこはかとない自虐性みたいなものは、社会人としてまっとうにやっていこうとして苦しんだことも大きな要因の一つではないのか、この小説を読んで僕はそのように思いました。

苦しい。

僕は15年ほど早く生まれただけだけど、その世代生まれでなくてよかったと、大変申し訳ないような気持ちとともに思いました。

 

それにしても冒頭にあげた『日本文学の翻訳者たち』を手に取らなければ、今月こういう小説の読み方もしなかったかもしれません。偶然の読書も悪くないなと思います。

ちなみに翻訳者たちに対するインタビュアーは自身も翻訳家の金原瑞人さん。金原ひとみのお父さんですね。職種はちょっと違うけど彼女も二世と言えば二世なのか。

二世と言えば、吉本ばななが最近noteで500円取って発表した家族との確執を記した手記は何とも壮絶でした。父・隆明は、ある意味母に殺されたと言ってもいいかもしれないなんて書いている。

親子で表現者というケースは、いろんなところで見るけれどもその関係性はほんとさまざまなのでしょう。それについてはまたの機会に。

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