恋愛がリセットできればいいのに
「いえいえ、別に」
「いや、最近、昔の知り合いに会ったらとりあえず謝るようにしているんです」
「そんなに」
「えっ?」
「そんなにたくさん謝らなきゃいけない相手がいるんですね」
「ははは」
他にもたくさんいた、というニュアンスにダメージを受けて、また黙ってしまう。「俺のこと恨んでますか? 」今度は少しふざけて、笑いながら彼が言った。はい。恨んでいました、多分過剰なくらい。
私のことを好きと言いながら、嫌いだとも言いつづけた君のせいで、好きを信じられなくなったんだと、恨みました。きっと、君のせいじゃないところまで全部君のせいにしていました。
「そんな、恨むようなことないですよ」今度は彼の目を見て言ってみる。精一杯の見栄。そこからは他愛もない話をぽつぽつとした。向こうが大学院に進学すること、確定申告のこと、昔の知り合いの話。あんなに嫌いだと騒ぎ立てた人と、静かに話している状況がうまく受け入れられなくて、すぐに話を止める。
「もう、話、大丈夫ですよ」できるだけ穏やかに伝えると、「大丈夫ですか、刺したりしないですか」と、また彼がふざける。
「刺されることしたと思うんですか」
「いや、正直あまり思い出せないところが多くて」
「そうですか」
忘れているという言葉にまた少し胸が痛んだ。彼と私はどうしても噛み合ないところがある。私ばかりが彼を好きだったから。私はまだ、忘れられていないよ。じゃあ、と言って、彼にされた一番衝撃的な出来事を話した。
彼は驚いた顔をして「そんなこと……ありましたね、悪いことをしました」と、真面目なトーンで謝った。私は少しの沈黙の後に、「いや、すごく面白かったです」と返した。そう、すごく面白かった。そんな残酷で、面白いあなたが好きだったんです。
彼はその返答に吹き出して笑った。つられて笑ってしまう。二人を取り巻く空気が柔らかくほどけていくのを感じた。これからも頑張ってくださいねと言って彼は帰っていった。またどこかで、とは言わないまま。
帰り道はグラグラした。彼のことを本当に嫌いになったつもりだった。あいつは悪魔だと思い込んでいた。なのに会ったら彼は普通で、昔みたいに少し変で、面白くて、私の話に笑ってくれることが本当に本当に嬉しいと思ってしまった。
恋愛がちゃんとリセットされたらいいのに。別れた人のことを、完全になんとも思わなくなれたらいいのに。でも、一度好きになった人のことを嫌いになるなんて無理だ。きっとずっと、どこか好きで、時間や距離で忘れるだけで、好きなまま。タトゥーみたいなものだと思った。一度彫り込んでしまったら、いくら洗ったって落ちない。少しずつ、本当にゆっくり、薄れていくだけ。
昔好きだった人たちを思い出す。ろくな思い出はないのだけれど、きっと嫌いにはなれていない。忘れているだけだ。彼らは今もちゃんと、心の一番柔らかくて、跡がつきやすいところにしまわれている。そしていつでもまた愛せてしまう。
帰り道、ずっといるはずのない彼を探してしまった。今日聞けなかった、たったひとつのこと。君も、少しは私のこと好きだった? そればかり繰り返す脳みそをなだめながら、やっと地元の駅に着き、スーパーに入る。今日は高いお寿司を買って帰ることにしよう。サーモンのピンクが嘘くさい。ああ、サーモンの美味しさで、今日心が揺れたことも、笑ったことも、何もかも忘れたい。お願いだ、サーモン。また彼を、忘れさせてくれ。