渋沢栄一の本おすすめ5選!500超の会社設立など功績もわかりやすく解説!

更新:2021.12.8

日本の資本主義の父と呼ばれ、江戸時代末期から昭和初期にかけて日本の発展に尽力した渋沢栄一。2021年NHK大河ドラマの顔にもなり、ますます注目されています。この記事では、そんな彼の人生と功績をわかりやすく解説、またおすすめの本も紹介していきます。

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渋沢栄一ってどんな人?幼少期から一橋慶喜に仕えるまで

渋沢栄一の幼少期

1840年2月13日、渋沢市郎右衛門の長男として現在の埼玉県深谷市にある血洗島村で生まれた渋沢栄一。渋沢家は代々この地を開拓してきた豪農で、農民でありながら苗字帯刀を許される家柄です。当時の村には渋沢を名乗る家が17軒ほどありましたが、栄一の家は「中の家」と呼ばれていました。

父の市郎右衛門は、藍玉の製造販売や養蚕を手掛け、「中の家」は村でも有数の豊かな家だったそう。栄一も幼い頃より父の仕事を手伝い、14歳の頃にはひとりで藍葉の仕入れを任されるようになります。このような経験が、後に「日本資本主義の父」と呼ばれるようになる基礎となりました。

2人の従兄~尾高惇忠と渋沢喜作~

渋沢栄一には2人の従兄が居ました。10歳年上の尾高惇忠(おだかあつただ)と、2歳年上の渋沢喜作です。栄一は、喜作とともに尾高が開いていた私塾「尾高塾」で、論語や四書五経、日本外史などを学びました。

18歳だった1858年には、尾高の妹である千代と結婚。尾高は栄一にとっての義兄となります。千代は一男二女の母となりますが、1882年にコレラで亡くなってしまいました。その後栄一は、江戸屈指の豪商といわれた伊藤八兵衛の娘である兼子と再婚し、三男一女を得ます。また栄一には多くの愛人がいて、20人以上とも50人以上ともいわれる多くの庶子が居ました。

1868年から始まった「戊辰戦争」において、喜作は彰義隊や振武軍を結成。尾高も行動をともにし、「函館戦争」まで転戦を重ねます。

明治時代になると、尾高は栄一の推挙によって富岡製糸場の初代場長、第一国立銀行盛岡支店および仙台支店の支配人などを歴任。喜作も栄一の推挙によって大蔵省の官僚となった後、廻米・生糸貿易を営む渋沢商店を創業します。

一橋慶喜に仕官し、幕臣へ

元川越藩剣術師範・大川平兵衛より神道無念流を学んだ渋沢栄一は、1861年、剣術修業のため江戸に出て、北辰一刀流・千葉栄次郎の道場に入門しました。

ここで多くの勤皇志士と交流をもち、栄一は尊皇攘夷の思想に目覚めます。1863年には尾高、喜作とともに高崎城乗っ取りを計画しますが、尾高の弟である尾高長七郎の説得を受けて断念。栄一と喜作は江戸へと逃れ、一橋家家臣の平岡円四郎の推挙によって、ともに一橋慶喜に仕官することになりました。

慶喜のもとで、栄一は兵の徴募係を務めます。当時、慶喜は朝廷から禁裏守衛総督に任命されたものの、御三卿である一橋家には自前の兵力がなく、早急に兵を徴募する必要があったためです。

1866年に慶喜が第15代将軍となり、栄一、喜作の2人も幕臣に取りあげられることになりました。


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渋沢栄一ってどんな人?幕臣から大蔵省まで

渋沢栄一、ヨーロッパへ

幕臣となった渋沢栄一は、1867年、パリでおこなわれる万国博覧会に将軍名代として派遣されることになった徳川慶喜の弟・徳川昭武の随員として、ヨーロッパに渡航します。この時の栄一の肩書は、御勘定格陸軍付調役というものでした。簡単にいえば会計係です。

約50日間の旅路を経てフランスに到着した一行は、万国博覧会を訪問。その後、幕府代表としてスイス、オランダ、ベルギー、イギリスなどヨーロッパ各国を巡った後、パリで留学生活を送ることになります。

この間に、栄一の肩書は外国奉行支配調役、開成所奉行支配調役と変わりましたが、幕末の動乱からは距離を置いた日々が続き、その間に幕府は消滅してしまいました。

1868年5月、新政府から帰国命令が出て、10月19日にマルセイユを出航。12月16日に横浜港に帰港します。

静岡藩への出仕

帰国した渋沢栄一は、静岡で謹慎中の徳川慶喜と面会。恩に報いるため、静岡藩に出仕します。江戸時代の幕府および旗本の所領は700万石を超えていましたが、静岡藩の石高は70万石に過ぎず、旧幕臣を養うため、藩の財政は急速に悪化していました。

この窮状を救うため、栄一はヨーロッパで見聞きした株式会社制度や商法会所の仕組みを導入します。

1869年10月には栄一の見識を評価した新政府から出仕を求められ、固辞するものの大隈重信の説得を受けて出仕を決断。民部省改正掛の長として、度量衡の制定や国立銀行条例の制定を手がけました。

1871年に民部省が大蔵省に統合されると、大蔵大丞となり、1872年には紙幣寮の頭となります。

しかし1873年には予算編成を巡って大久保利通や大隈重信と対立。井上馨とともに退官し、民間の実業家となる道を選択しました。

渋沢栄一の功績を紹介!日本初の銀行を創業など

日本資本主義の父

大蔵省を退官した渋沢栄一は、第一国立銀行の総監役となり、日本初の銀行を創業します。

第一国立銀行は日本初の株式会社でもあり、江戸時代から続く両替商の重鎮であった三井組と小野組が資本金250万円の内、各100万円を出資して設立されました。総監役という栄一のポストは、三井組・小野組から選任される頭取の上に立つ役職で、経営の最高責任者でした。

栄一は私益のためではなく、公益の追及のために資本や人材を集中させるべきとする「合本主義」や、富を独占するのではなく、国全体を豊かにするために社会に還元すべきとする「道徳経済合一説」を経営の軸とし、新興の商工業者の創業や経営に対する支援を中心に展開しました。その結果、第一国立銀行のみならず、多くの企業の創業に携わることになり、「日本資本主義の父」と呼ばれるようになるのです。

経済団体の創設

1877年、渋沢栄一は銀行経営者が連携して政府に対する提言を実施するための組織として「択善会」(現・東京銀行協会)を設立します。

さらに1878年には、商工業者を中心とする経済団体・東京商法会議所を設立。発起人には大倉財閥の設立者である大倉喜八郎や三井財閥中興の祖とされる三野村利左衛門、同じく三井財閥を支えた益田孝など財界の大物が名を連ねました。そのなかには栄一の従兄である渋沢喜作も含まれています。

また、株式会社制度を発展させるために株式市場の創設が必須と考え、1871年には東京株式取引所を設立。開業初年に第一国立銀行を上場させています。

実業界引退後

1909年、渋沢栄一は古希に達したことを理由に実業界からの引退を表明。兼任していた60以上の会社役員をすべて辞任しました。しかしその後も1931年に91歳で亡くなるまで、民間外交や教育、福祉、医療などの面では精力的に活動を続けます。

特に、民間外交の面では大きな存在感を示しました。1909年には全国の商業会議所会頭を率いて訪米し、タフト大統領と面会。貿易摩擦の解消に尽力。1912年にはニューヨーク日本協会協賛会を設立し、自ら名誉委員長となります。

1913年には中華民国国民党党首・孫文を民間代表として迎え、翌年には中国を訪問して日中経済界の提携を呼びかけました。

1927年にはアメリカで排日運動が巻き起こるなか、国際児童親善会を設立し、アメリカの「青い目の人形」と日本の「市松人形」を交換して親善交流を深めることに貢献しています。

これらの活動が評価され、1926年と1927年の2度、ノーベル平和賞の候補となりました。

渋沢栄一が設立した主な会社を紹介

渋沢栄一が設立した主な会社

渋沢栄一がその生涯において設立や経営に関わった企業は500社以上にのぼります。

第一国立銀行、日本勧業銀行、日本興業銀行はその後合併を重ね、現在はみずほ銀行になりました。東京貯蓄銀行はりそな銀行に、熊谷銀行、黒須銀行、武州銀行などは埼玉りそな銀行となっています。

大蔵省退官直後から明治10年代にかけて、抄紙会社(現・王子ホールディングス及び日本製紙)、東京府瓦斯掛(現・東京ガス)、石川島平野造船所(現・IHI、いすゞ自動車及び立飛ホールディングス)、秀英舎(現・大日本印刷)、中外物価新報(現・日本経済新聞)、東京海上保険会社(現・東京海上日動火災保険)、日本鉄道会社(現・東日本旅客鉄道)、共同運輸会社(現・日本郵船)、東京電灯会社(現・東京電力ホールディングス)、大阪紡績会社(現・東洋紡)、ジャパンブリュワリー(現・キリンホールディングス)など、今日に続く名だたる企業を設立しました。

明治20年代においても精力的に活動を続け、東京人造肥料会社(現・日産化学)、東京ホテル(現・帝国ホテル)、札幌麦酒会社(現・サッポロホールディングス及びアサヒグループホールディングス)、日本土木会社(現・大成建設)、足尾鉱山組合(現・古河機械金属、古河電気工業、富士通、富士電機、横浜ゴム)、汽車製造(現・川崎重工業)、浦賀船渠(現・住友重機械工業)などの設立に関わっています。

明治30年代には、家業として澁澤倉庫部(現・澁澤倉庫)を創業したうえ、京阪電気鉄道(現・京阪ホールディングス)や帝国劇場会社(現・東宝及び東京会館)などを設立しました。

教育・福祉・医療関連

渋沢栄一は、銀行や事業会社だけでなく、多くの教育・福祉・医療関係の設立にも関わっています。

教育関連では、商法講習所(現・一橋大学)、台湾協会学校(現・拓殖大学)、大倉商業学校(現・東京経済大学)、東京女学館、日本女子大学などが有名です。

福祉・医療関連では、主に養育院(現・東京都健康長寿医療センター)、日本赤十字社、東京慈恵医院(現・東京慈恵会)、癌研究会(現・がん研究会)などの設立に関わっています。

渋沢財閥

渋沢栄一が経営に関わった企業を指して、「渋沢財閥」と呼ぶことがあります。その根拠とされるのが、栄一が1915年に設立した渋沢同族株式会社です。実際に戦後、日本を占領統治したGHQはこの渋沢同族株式会社を財閥の持株会社であると認定しています。

しかし、この会社は栄一が自身の死後に一族の間で財産争いが起こるのを避けるために設立したものであり、関連企業の持株比率はいずも数パーセントに過ぎず、財閥と形容されるほどの支配力をもつものではありませんでした。

栄一自身は合本主義や道徳経済合一説を思想の軸としていたこともあって、財閥自体を嫌っていたといわれています。

徳とお金の両立は可能か

渋沢栄一の講演、演説を文字に起こしてまとめられた、彼の哲学がつまった1冊です。通底するのは論語であり、「徳」と経済活動の折り合いをどうつけるべきかを説いています。

金儲けにどうもいやらしい印象を持ってしまう日本人に向けて、対照的な価値観にある「徳」と「金」の追求をいかに両立させるかを論じており、結果的に現代でもまったく色あせない経営論となっています。

それは利己主義に走らない経済活動というべきもので、私利私欲に邁進しがちななか、それが道徳的に正しいのかどうかを常に自問するべきであるという考え方です。まさに偉大なる資本主義の父の言葉といえるでしょう。

著者
渋沢 栄一
出版日
2010-02-10

彼は経済の巨人には2通りあり、徹底的に利潤を追求するタイプと社会と事業の調和を図るタイプに分けられると考えていますが、面白いのはその両タイプとも最終的にはその活動が社会貢献に帰結するということでしょう。ここが巨人と凡人の分かれ目になるのです。

本書はそういった渋沢の考え方だけではなく、論語に関しても詳しく語られているので論語入門としても面白いと感じられるでしょう。論語が手放しで礼賛されるべきか否かはさておき、徳と利益を共存させる考え方はいまこそ求められるべきものかもしれません。

巻末には渋沢の経歴などの資料も掲載されており、彼がどのような人物でどのようなことを考え、実践していたかを知るための最適なテキストとなっています。


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渋沢栄一の名言を知るおすすめ本

子孫である渋澤健によって編集された、渋沢栄一の名言集です。彼の訓言と渋澤健の解説が見開きで展開される構成となっており、抽象的な渋沢の言葉が具体的に説明されるので、内容の把握が容易になっています。

11章からなる本書は、さまざまな「教え」を我々に提示してくれます。その根底にあるものは、やはり社会、そして世界との関わり方です。

明治時代を生きた男の語った言葉なので分かりにくいところもありますが、渋澤健が自身の経験も含め絶妙な解説を加えています。章立ての的確さも含め、非常に読みやすい内容です。

著者
渋澤 健
出版日
2010-08-03

かのドラッカーも渋沢栄一を尊敬していたそうで、社会的存在としての個人を中心に据えていた考え方は共通するものがあります。その点で行き過ぎた金満志向に対して再考させられる内容となっているのが本書です。

その根底には「いかに生きるか」があり、読みようによっては非常にストイックな部分もありますが、「こういう風に生きたい」と思わせるさわやかさがあります。そして渋沢栄一は「楽しく生活する」ということを志向していたことがだんだんと分かるでしょう。

100の訓言が見開きで見られ、その内容も丁寧に解説されている本書は、経営が順調な人にも若干不調な人にもおすすめできますが、それ以前に人としてどのように生きるべきかを考えている人にもおすすめの1冊です。

シブサワ・スピリッツを会得する時空を超えた冒険

高校生が幕末にタイムスリップして渋沢栄一と行動をともにし、彼の生きざまを学んでいくというSF小説仕立ての作品です。元武士であった渋沢の哲学を日常でどう実践していけばよいか、奇天烈な設定ではありますが非常にうまく表現されています。

主人公の高校生は一家離散という悲惨な状況に陥ってしまい、定時制高校に通うことを余儀なくされます。そんな彼が突然タイムスリップし、足が3本あるヤタガラスの姿となって渋沢栄一と幕末を過ごすのです。その後、現代に戻り、彼の精神を継承し起業家を目指していく……というストーリーになっています。

小説仕立てなので渋沢栄一研究とその実践を1冊にまとめることに無理がなく、物語もテンポよく進むので快調に読み進めることができるでしょう。

著者
["香取 俊介", "田中 渉"]
出版日
2014-07-24

「シブサワ・スピリッツ」というキーワードが本書で書かれています。それは「富」に関して主人公が得た結論、「みんなが豊かになる」という考え方のこと。このように、物語は渋沢栄一が考える「富」の概念をバックボーンに展開されていきます。

渋沢の著作『論語と算盤』を意訳したもの、という捉え方もできる内容です。思想なき経営を両断する爽快な切り口が小説仕立ての本作においても健在なのは、さすが渋沢といえるでしょう。

まさに雰囲気はライトノベルであり、渋沢について詳しくない中高生でも手に取りやすくなっています。渋沢栄一について、初めて知る読者向けの入門書といえるでしょう。

渋沢栄一の経営者としての実践力を知るおすすめ本

渋沢栄一は幕臣から官僚、そして民間人として活躍するというように段階を経ていますが、ここでは彼の動きの大きな部分ではなく、彼が関わったさまざまな企業を実際にどう経営したかに焦点を当てています。

元々政府の重要人物であった渋沢栄一が、いち民間人の立場から国に提言をし、自身もさまざまな事柄を実行してきました。とりわけ、本書では民間企業がどう自立していくかについて、明治維新直後から実践していた彼の能力と行動力が浮き彫りになっています。

全5章からなり、明治維新後の近代的な産業の創出や人的ネットワーク、公共事業を通した国作りなどが収録されています。その背後にある教育者としての姿も見逃せません。

著者
島田 昌和
出版日
2011-07-21

実業家としての発端は大学と銀行の設立だったわけですが、そこでは、すでに彼が社会に貢献していこうとしていた経済活動の一端が垣間見えます。それにしても、活動の質はさることながら、ものすごい行動量だったことを再確認でき、驚かされるのです。

彼が設立した企業、組織の多くは現在でも一流として健在なものが多いわけですが、彼のような人物は洋の東西を問わず類を見ないでしょう。この書の冷静な研究、解説により彼の行動の源泉が何だったのかを読み取ることができるかもしれません。

読んで分かるとおり、渋沢の行動力には尋常ならざるものがあります。本書はそういった意味で、渋沢の人間研究とは別の、彼の実績を俯瞰して把握させてくれる作品ともいえるでしょう。

渋沢栄一の自伝。本人が語る歴史とは

本書は渋沢栄一の自伝です。裕福な農家出身から武士になり、幕末~明治維新を経験し、昭和初期までを生きた男の青春時代が語られています。

著者
["渋沢 栄一", "長 幸男"]
出版日
1984-11-16

本書を読むと、とにかく国のために努力していった渋沢栄一像が浮かびあがってくるでしょう。流され人生的な生き方をしているかのように自身を描いていますが、ありとあらゆるものに興味を持つ性格が彼をあそこまでの人物にしたことがわかります。

江戸時代から明治にかけて活躍した人は数多くいますが、ここまでまとまった形で回想している人物はあまり多くはないでしょう。当時の社会がどういうものだったかを知りたい、という方にもおすすめできる内容になっています。

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