教養

徳川慶喜にまつわる4つの逸話!大政奉還をした最後の将軍のおすすめ本も紹介

更新:2017.2.5 作成:2017.2.5

徳川幕府最後の将軍として知られる徳川慶喜は、幕府を守れなかったと酷評される一方で、明治維新を大きな内戦に巻き込まず諸外国から国を守ったと言われるなど、その評価が大きく分かれる人物です。今回はそんな慶喜の歴史を読み解く本を5冊を紹介します。

  • twitter
  • facebook
  • line
  • hatena

徳川慶喜の生涯。大政奉還を実行した理由とは。

徳川慶喜は1837年、水戸藩第9代藩主、徳川斉昭(なりあき)の七男で、松平七郎麻呂として生まれました。幼少からその才覚は抜きんでており、10歳の時に徳川家御三卿のひとつ一橋家を相続して、一橋慶喜と名乗るようになります。

1853年、徳川家定が13代将軍となった際に、次期将軍の跡継ぎ争いに巻き込まれました。薩摩・水戸などは慶喜のことを推し、紀伊・井伊などは紀州藩主の家茂を推します。

井伊直弼が大老に就くと家茂派がこれに勝ち、14代将軍になりました。

この時慶喜は将軍後見職となり、黒船来航や攘夷問題など、実質幕府側の代表者として責務を果たします。そして1866年、家茂が病死すると、遂に15代将軍徳川慶喜となったのです。

慶喜が将軍職に就いた時に、すでに時代は混沌を極めていました。参勤交代の緩和や、海軍・陸軍の整備など大胆な改革をおこないますが、幕府は衰退の一途を辿ります。

薩摩、長州などの討幕派は武力で徳川を滅ぼそうと暗躍し、彼はこれを避けるために260年続いた政治統括権利を朝廷に返上しました。これが世に言う「大政奉還」です。まだ将軍になってから1年にも満たない、1867年のことでした。

しかし時代の流れを止めることはできず、翌1868年、薩摩・長州を中心とした新幕府軍と、旧幕府軍が争った「鳥羽・伏見の戦い」がはじまってしまいます。

慶喜は武力衝突を避けるために、一貫して朝廷への恭順を示し、江戸城を無血開城。その後自身も謹慎します。

それ以降は政治には一切かかわらず、静岡に移り住んで余生を送り、1897年にその生涯を終えました。77歳でした。これは、歴代の徳川将軍のなかで最高齢だそうです。

徳川慶喜は、本当は将軍になりたくなかった?

江戸幕府最後の将軍となった徳川慶喜。しかし彼自身は、軍になりたいと表立って主張したことはありませんでした。これは実父の斉昭に送った「将軍になって失敗するくらいなら、最初から将軍になどなりたくない」という旨の手紙にも表れています。

13代将軍の家定が明日も知れぬ命となると、紀伊徳川家を擁する南紀派と水戸徳川家を擁する水戸派が次期将軍の座を争うようになり、彼が渦中に巻き込まれました。南紀派のキーマンは大老・井伊直弼で、彼は徹底的に攘夷を目指そうとする斉昭らを嫌い、慶喜を含めて謹慎処分としてしまいます。

1860年、「桜田門外の変」で直弼が暗殺されると謹慎が解かれ、慶喜は家茂の将軍後見役となりました。

1866年に家茂が亡くなった後も、老中から次期将軍に推されても頑なに断っていました。天皇からの将軍宣下を受けてようやく就任するのです。

実は当時、水戸藩までもが彼の将軍就任に反対しており、当然幕臣らも将軍家から血縁が遠い水戸家から将軍が出ることに反対していたので、彼はあえて本心を隠していたのだといわれています。

現に慶喜は将軍就任後も幕臣とは距離を置いていたような形跡があり、在位中は終始、二条城にて政治を執っていました。

徳川慶喜とカメラで繋がった子孫がいる

生涯で数多くの趣味を手掛けた慶喜ですが、もっともはまったのはカメラでした。彼は庶民の日々の生活を写し、これを雑誌社に投稿するなどしていましたが、その腕前は必ずしも良いものではなかったようです。

この趣味が発覚したのは、カメラマンで彼の曽孫である徳川慶朝が、慶喜の遺品を整理した時でした。作品は編集をおこなったうえで、『将軍が撮った明治―徳川慶喜公撮影写真集』として発表されています。

徳川慶喜にまつわる4つの逸話!大政奉還、家茂との関係など

1:幕府にフランス式の軍制を導入した

幕末、欧米列強は、中国の清を割譲支配したのと同じように日本を植民地支配しようと企んでいました。慶喜は将軍在位時、日本独自の軍事力ではとても彼らに勝てないと感じていたので、逆にその力を借りようとしたのです。

欧米列強の要求の大半は、日本の開港・貿易の全面開放・外国人の居住の許可でしたが、慶喜はこれまで幕府や薩長が絶対に拒否していたこれらの条件に同意します。勅許を得て正式に兵庫の開港と外国人居住を許可しました。

薩英戦争以来イギリスは薩摩を支援していましたが、そのまま日本市場を独占しようとしていました。フランスはこれを阻止するため、公式政権である幕府と契約することで大義名分と利益の両方を得ます。 当時のイギリスは内戦で国力を消耗していたのも、功を奏したようです。

幕府はフランスの支援によって、刀や槍といった前時代的な装備を捨て、少数精鋭の銃を携行させた部隊を編成し、条約違反で下関に居座るイギリスに強く出ることを考えていました。

2: ライバルだった家茂との関係とは

慶喜と家茂は次期将軍の座を争ったライバルですが、家茂が将軍になった後も、実際は慶喜が政治を主導していました。家茂は公武合体など朝廷との融和を図った将軍として知られていますが、慶喜は攘夷の実行を現実的とは思っておらず、頑なな朝廷をどうにか説得しようと考えていたのです。

しかし家茂自身も、朝廷が上洛を要求したことなどに対して、将軍辞職を申し入れるなど、決して暗君ではないような行動もしています。おそらく2人は、根っこの部分では同じことを考えていたのではないでしょうか?

家茂が虫歯が原因で病に倒れた時は、見舞いに行って普通に会話をしたそうで、案外お互いに信頼していたのかもしれません。

3:鳥羽・伏見の戦い、敵前逃亡の真実!

大政奉還を果たしたものの、薩長は慶喜が政権を維持することに同意しませんでした。岩倉具視の協力を得て、薩長は錦の御旗を持ち、「鳥羽・伏見の戦い」に参戦することとなりました。これによって朝廷は賊軍という立場に立たされたこととなります。

この戦いで慶喜は、大坂城にて指揮を執っていました。しかし、「士卒に至るまで死ぬ気で戦え」と指示を出しておきながら、自分は突如大坂城から姿を消してしまったのです。

この時幕府はまだまだ戦力があり、薩長に対抗できる力が十分ありましたが、欧米諸国が日本を狙っているなかで内乱を起こすほど馬鹿なことはありません。旧幕府軍は継戦意欲を失って、大阪城を空にしました。

慶喜は新政府からは朝敵とされ、かつての味方からも卑怯だと思われながら、自ら寛永寺で謹慎生活を送ることとなります。

4:新幕府の構造を練った龍馬を晩年まで知らなかった

幕末、大政奉還から慶喜による新たな民主主義政権の構想を練った坂本龍馬。彼は将軍ですから、当然日本中の誰もが知る存在。龍馬も慶喜の器量には感服していました。しかし慶喜は所詮下級武士でしかない龍馬を明治時代になるまで知らなかったといいます。

慶喜は維新後に当事者であった幕末時代の資料をひたすら読みまくったとされています。その際に龍馬の名前を発見し、大政奉還の裏にはこんなちっぽけな武士の存在が動いていたのだと知ることになるのです。

歴史は誰が動かすことになるのかは最後までわかりませんが、彼は幕府を潰すことも天皇に歯向かうこともしたくなかったのではないでしょうか。しかし動乱の時代にそれは許されませんでした。慶喜は「あの時」の選択をどのように思っているのでしょうか?

徳川慶喜の生涯がわかる一冊

本書は歴史小説の第一人者司馬遼太郎が、徳川慶喜の生涯を描いた作品です。徳川幕府を終わらせた最後の将軍は何を思い、どんな決断を下したのでしょうか。幕末の動乱期に将軍となった彼の苦悩を知る貴重な史料ともなる本です。

水戸藩徳川斉昭の子として生まれた時からはじまり、徳川家の家督争いや、幕府内での権力争いが描かれていきます。家康の再来とまで言われた慶喜の優秀さが際立ってわかるでしょう。

著者
司馬 遼太郎
出版日
1997-07-10
黒船来航以降、幕府の権力に陰りが見えはじめ、慶喜は将軍後見役としてさまざまな政策を実行しました。この頃の慶喜は攘夷思想だったようで、朝廷の攘夷派との調整や「文久の改革」といわれる人事や政務の改革に踏み切ります。

これらを見ても、慶喜がいかに政治的に優れ、文官としての能力があったかがわかります。


将軍就任後も、軍事改革として「慶応の改革」という幕府最後の改革を実行しましたが、時代の歯車を止めることはできませんでした。

この頃慶喜はフランスの軍備や文化に傾倒し、軍もフランス式を用いるようになります。攘夷思想だったのに、異国の文化に触れ開国派に変わっていくというその柔軟さは、彼の才能のひとつであるといえるでしょう。

本書には、諸外国の軍事干渉を危惧し、内戦を阻止するために大政奉還を決断し、その後江戸城の受け渡しから謹慎蟄居まで、一途に国を思って朝廷を奉る姿が描かれています。徳川最後の将軍の実像を探るのに必読の一冊でしょう。

曽孫が語る徳川慶喜の晩年

本書は徳川慶喜の曽孫にあたる徳川慶朝が、慶喜を思い描きながら一族の生活を語ったものです。

幕末の主役であった頃の慶喜に関する記述はほとんどなく、主に静岡で隠居してから、趣味人として生きた彼について描かれています。絵画や写真を愛すなど、動乱を生きた慶喜像とは別の顔を垣間見ることができるでしょう。

「わたしの名は徳川慶朝という。ずいぶんとご大層な名前だと思われるかもしれないが、芸名でもペンネームでもない、れっきとした本名である。」(『徳川慶喜家にようこそ―わが家に伝わる愛すべき「最後の将軍」の横顔』より引用)

軽快な文章ではじまる本作の世界に、一気に惹きこまれてしまいます。

著者
徳川 慶朝
出版日
「曽祖父の慶喜は、寝込みを襲われて刀で斬りつけられたときも、決して利き腕を斬られないよう、生涯、右腕を下にして寝るのが習慣だった。大口を開けて、大の字になって寝ることさえできなかったのである。」(『徳川慶喜家にようこそ―わが家に伝わる愛すべき「最後の将軍」の横顔』より引用)

このような普通であれば知りえないエピソードを交えて将軍の不自由さを語っています。また慶喜以降の代々の当主の生活も、等身大で知ることができるでしょう。

悲劇の将軍、その生涯から見た幕末とは

本書は、徳川慶喜の生涯から、明治維新という近代革命の社会学を学ぶ研究書です。慶喜という気鋭の人物を学ぶには恰好の一冊だといえるでしょう。

幕末から明治にかけては、坂本龍馬や西郷隆盛などの特出した英雄が生まれ、さまざまな伝説が存在します。またその物語を描いた小説などの書籍も数多くあり、そのなかで慶喜は討幕派の対抗馬的に描かれることが多いです。

凡庸な将軍だとか、幕府を崩壊させた愚君だとも揶揄されますが、本書では当時から現代にいたる歴史研究家たちの証言や資料をもとに、彼の才能と名君としての実像に迫っていきます。

著者
松浦 玲
出版日
慶喜が水戸藩主、徳川斉昭の子として生まれ、将軍世継問題、将軍職就任、大政奉還と、歴史の表舞台に立ち苦悩しながら決断していくさまや、江戸城受け渡し後に隠居して余生を送るまでの一生を書き示しています。

研究書ではありますがわかりやすい文章で書かれており、難解な政治的問題も理解しやすいです。慶喜の思慮深さや英知を知ることのできる資料だといえるでしょう。

歴史小説の王道から入る世界観

本書は、歴史小説家として数多くの作品を生み出している巨匠・山岡荘八が描く、徳川慶喜の半生と動乱の幕末を描いた物語です。全6巻からなる大作ですが、1冊読みだすと止まらなくなる名作中の名作です。徳川慶喜を語るには外せない作品だといえるでしょう。

1巻の冒頭は、西郷隆盛の若き日の話から始まります。当時、西郷はまだ見習い扱いの若輩でしたが、後の彼の思考に影響を与える水戸学者、東湖(とうこ)と出会いました。

「お庭方と書いてあったが、さすが島津候じゃの、それだけ眼につく偉丈夫ではコソコソ小細工はして歩けぬわ、いや仁王の子とはよく云った」(『徳川慶喜』1巻より引用)

西郷に初めて会った東湖は、こう言うのです。

後に西郷と徳川慶喜は何度となく相まみえることになりますが、慶喜は水戸藩、西郷は薩摩藩出身です。そんな2人が水戸学を学ぶ不思議な縁と布石と感じられる始まりとなっています。

著者
山岡 荘八
出版日
1986-10-01
6巻からは時代が一気に加速して、世の中が変わりだし、大政奉還から徳川幕府の終焉、明治維新へと突き進んでいきます。

慶喜の苦悩と決断がスピーディーに描かれ、大政奉還前の坂本龍馬らによる薩長同盟については

「最後の将軍である慶喜の心事を、彼(坂本龍馬)にはうかがい知ることが出来るわずかな通路が推察できるからである」(『徳川慶喜』6巻より引用)

など龍馬との絆にも触れられています。

西郷隆盛、坂本龍馬に限らず、本作では慶喜を通じて幕末のさまざまな人物との関係が描き出され、そのドラマティックな人間模様が物語に引き込まれる要因にもなっています。幕末から明治維新にかけての歴史を知るうえでも、読み応えのある大作です。

スローライフを送った?徳川慶喜

本書は、徳川幕府最後の将軍、徳川慶喜が明治維新後に蟄居してからの生活を描いた作品です。歴史の表舞台にいた将軍慶喜を描いた作品は多くありますが、晩年の慶喜の生活を描いた本作は、彼の人柄を探る貴重な史料です。

鳥羽・伏見の戦いでの敵前逃亡や、それまでの慣習に捉われないおこないで、明治維新を平和的に導いた英雄とも、凡庸な愚君ともいわれる徳川慶喜。その人物像はとかくわかりづらい性格とされています。本作では官位を失った素の慶喜の言動から、人間の本質を探っていきます。

慶喜は明治維新後、静岡で政府の監視下のもと隠居しますが、その生活は実に優雅だったようです。狩りや絵画、写真など多趣味であり、なおかつその才能も豊かなものでした。引退後、趣味に没頭して田舎で暮らすとは、まさに現代のサラリーマンが引退した後に送るスローライフではないでしょうか。

著者
家近 良樹
出版日
2017-01-10

元幕臣で箱館戦争の首謀者だった榎本武揚(えのもとたけあき)が、静岡の慶喜を訪ねた時には、慶喜自ら給仕をして驚かせたという逸話があります。彼は食通としても有名だったようです。

1913年に亡くなるまで、およそ46年間も送った蟄居生活は、優雅にも気楽にも見えます。しかし、明治天皇に合うことを頑なに拒んだり、政治に関することは一切口にしなかったりと、自分の存在が新しい明治の世に与える影響を理解したうえでの体裁だとしたら……慶喜の不思議な魅力が見え隠れする作品です。

徳川幕府最後の将軍・徳川慶喜は、さまざまな物語に登場しますが、いずれも違う顔を見せる不思議な人物です。多様な書籍から慶喜の魅力を探すことで、この時代の日本人を知ることができるでしょう。