化粧スキルが全くなかった、ということに気付いた24歳の収録現場。正しいやり方を学んでも、大きな変化はないのに「ちゃんと化粧をしている」という自覚だけで、生きるのがすこし楽になる。
先日とあるウェブのコマーシャルに出演する機会があった。化粧をするシーンのある内容だったのだが、こちとら生まれて24年、(「anan」のsex特集号を面白がって買った時以外)一度も女性誌を買ったことがない。
身につけた化粧スキルは全て見よう見まね、生きていく上で身についた最低限の技術しかない。RPGゲームで言えば、流石に布の服ではないけれど木製の鎧程度。初期装備だ。だけど腐っても女24年目、それなりに基本は理解しているつもり。だった。
「化粧、ある程度基礎はわかりますよね? シュミレーションしましょう」
そうディレクターに言われ、特に心配もせず化粧道具を鞄から引っ張り出す。
「はい、えーと……」
うっすら黒ずんだポーチから、一体いつ買ったのかもわからないリキッドファンデーションを見つけ、肌色の液体をブチュッと手に出す。それを指先で、おでこ・鼻・右頬・左頬・顎の順にちょいちょいとつけ、両手で思いっきり顔全体に伸ばし……始めたあたりでストップが入った。一緒に見ていた美人ADさんによると、私のメイクは「腹を空かせた男子高校生のラーメンの食べ方くらい雑」だったらしい。
仕方がないので急遽ヘアメイクさんに基本的な化粧の仕方を教わることになった。わざわざ休日にスタジオまで行かなきゃならず面倒だな。そこまで今のやり方と違わないだろうに。そう心中で不平不満を垂れていた私は完全に予想を裏切られた。私の化粧は本当にガサツで要領が悪く、とにかく下手くそだった。
そもそも化粧下地なんて知らなかったし、コンシーラーを放射線状に目の下に塗るなんて聞いたこともなかった。下地を塗るときは指の腹に少量取ってポンポン叩くように広げる。肌のトーンを上げるためには小鼻の周りにコンシーラーを塗る。まつげの間を黒のペンシルで埋める。突然新しい呪文をたくさん教えられて面食らってしまった。必死の思いでそれらをメモし、練習し、覚えた時、確かに頭の中で「テレレレッテレーン!」とレベルが上がる音がした。
それ以降、無事にそのコマーシャルを撮り終えた後も、大切な用事があるときはその面倒で正当な化粧をし続けている。不思議なのは、出来上がりとしては大して変化がないということだ。写真で見比べている限り、ちょっぴり肌にトーンのムラがあるくらいで、丁寧な化粧時も雑な化粧の時も、ほとんど顔は変わらない。だけどどうしても私は昔の雑な化粧方法に戻れない。
すっぴん時の防御力はゼロだ。誰にも顔を見られたくなくて自分の足もとばかり見てしまう。もし万一、美人と目でも合おうものなら「こんなブスが生きていてすいません」と心の中で土下座をしてしまう。逆に丁寧な化粧をした時の私は、まっすぐ前を向いて颯爽と歩くことができる。
顔の作り自体は変わっていないし、元がブスならいつまでもブスなのに、「ちゃんと化粧をしている」という自覚だけで、生きやすい。よく考えれば、誰もこっちなんて気にしちゃいない。一通行人がどの程度化粧をしていようと、自分の立場に置き換えたら心底どうでもいい。そんなのわかってるよ。わかってるんだけど、きちんとした化粧をすると強い気持ちになるのはなぜなんだろう。
鏡の前に立って髪をとかす。ちょっと内巻きになるように櫛を内側から入れる。化粧水と乳液を雑に顔に染み込ませて、鏡の中の自分と目を合わせる。そんなに嫌いじゃないなあ。美しいとは思わないけど、24年間見つめ続けてきた顔だ。愛着がある。なんか愛嬌ある顔だよね、と思う。
化粧下地を左手の親指の根元あたりに出し、右手の人差し指と中指でぽんぽんと顔全体に広げてゆく。コンシーラーでクマと肌のムラを誤魔化して、パウダーを軽く全体にはたく。眉を描き、ついでに眉頭から鼻筋にかけて薄い茶色でシャドウを入れる。買ったばかりの朱色のチークは頬骨の一番高いところを中心に。
その日の気分の色のアイシャドウ、今はピンクとラメがマイブームなのでピンクのラメをアイホール全体に指で載せ、二重幅に濃いめのピンクブラウン。アイライナーを目尻飛び出すくらいにキュッと引いて、涙袋にはチークと同じ色を少しだけ。ハイライトを目頭、鼻筋、目の下に入れて、お洒落な友達が誕生日にくれたしたたかな赤色の口紅を塗る。
ようやく私が鏡の中に現れた。私は自分の顔を思い浮かべる時、この顔を思い浮かべる。すっぴんのふにゃふにゃした顔ではなく化粧をした顔を。ついでに言えば服を着た状態で思い浮かべる。服や化粧を含めてようやく、私の個性は完成する気がする。
身近な美人と比較して、なるほど美人ではないな、とだけ理解しているけれど、実際どういう顔に他人から見えているのか知る由もない。そんなふわふわした自覚しかないものに、ちょっとだけ実体を与えてくれるのが化粧なのだ。お化粧には確かな色と形がある。
曖昧さはなく、アイライナーを引けば黒い線が現れ、口紅を塗れば唇が赤く艶やかになる。化粧でわたしはわたしの顔をなぞって、思い出しているような気がする。「化粧をしていない私」から「化粧をした私」に、行為の上では確実にアップデートされるのだ。だから強くなった気がする。
街を歩いて自分の顔が不安になった時「でも前よりもしっかり化粧しているから」と、そこに根拠を見つけられる。爪を塗ったり、新しい服を買ったり、実際に可愛くなっているかどうかより「可愛いとされる行為をしていること」自体に満足感を感じたり安心感を感じている。お洒落や化粧は鎧だけど、武装されるのは多分心なんだ。
今日も時間がない中で、化粧だけはしっかりしてから出かける。不確定なものばっかりな世界で、お化粧と昨日買ったばっかりのスカートの存在を頼りにしている。人に溢れる街で自分がわからなくなってしまわないよう、今日も口紅はしたたかな赤。
- 著者
- 雁 須磨子
- 出版日
- 2015-02-28
会社の元同僚のふたり、美しい同級生と地味な顔の私、受験生カップル。色々な女の子達の、本当に微妙な心の揺れ動きを丁寧に描いた一冊。
言葉にできないような、説明のできない気持ち達を、決して説明することなく描写しています。セリフよりもキャラクターの表情で気持ちを伝えられる漫画なんてそうそうありません。必読!
- 著者
- 王谷 晶
- 出版日
- 2018-01-26
仲間であったり、恋であったり、友情であったり。さまざまな関係の女同士の物語。うまく名前はつけられないけれど、なんだかとても大切な関係がたくさん出てきます。
女の人生を変えるのは男だなんて、誰が決めたのさ? という帯がぴったりでステキ。いつのまにか引きつけられてしまう砕けた語調が魅力的な一冊です。
チョーヒカル
ボディペイントアーティスト「チョーヒカル」によるコラム。および本の紹介。体や物にリアルなペイントをする作品で注目され、日本国内だけでなく海外でも話題になったチョーヒカルの綴る文章をお楽しみください。