1853年、ペリーが浦賀に来航したことで日本のいわゆる「鎖国」は終わりを告げ、激動の幕末が始まります。この記事ではペリー来航の場所、背景や目的についてわかりやすく解説し、あわせておすすめの関連本を紹介していきます。
1852年、当時のアメリカ大統領フィルモアは日本を開国させるため、東インド艦隊を日本に派遣して将軍に国書を渡すことを決定します。当時その艦隊の司令官を務めていたのが、ペリーでした。
彼は1852年11月にアメリカのノーフォークを出発すると、琉球王国を経て1853年7月に日本に到着、幕府との交渉を開始します。この時ペリーが来航したのは、幕府が貿易や外交をおこなっていた長崎ではなく、三浦半島の浦賀でした。
なぜ、ペリーは長崎ではなく浦賀を訪れたのでしょうか。その理由は2つあったと考えられています。
ひとつは、長崎で交渉をおこなうと、当時幕府と貿易をおこなっていたオランダが交渉を妨害する可能性があったこと。もうひとつは、幕府に開国を強制するための威圧行為をするためです。事実ペリーは交渉中に、もし大統領の国書を受け取らないのであれば、江戸に上陸して直接将軍に面会すると役人を威圧しています。
こうした事情もあり、幕府は彼が持参した大統領の国書を受け取ることになりました。ただ回答のために1年の猶予を求めたため、ペリーは具体的な外交交渉はせずに一旦日本を退去します。そして翌1854年2月、あらためて浦賀に来航したペリーとの間で「日米和親条約」が締結され、日本はアメリカと国交を結ぶこととなりました。
ペリーが訪れる以前、幕府は海外との交流を制限する、いわゆる「鎖国」政策を実施していました。しかし厳密にいうと、完全に禁じられていたわけではありません。幕府は直轄地として長崎を管理し、この地で中国やオランダとは貿易をしていました。そのほか対馬、松前、薩摩を通じて、朝鮮やアイヌ、琉球王国とも交易をおこなっています。
ところが18世紀の後半になると、オランダ以外の欧米各国も、市場拡大のために日本との通商を求めるようになります。このような動きに対して幕府は1825年に「異国船打払令」を発し、外国船を追い払う方針を掲げました。
しかし1842年、同じように欧米との通商に反発していた清が「アヘン戦争」でイギリスに敗れ、開国を余儀なくされます。欧米各国の圧力は強まり続けていました。
このような国際情勢のなかで、アメリカは日本を開国させることを目指し、ペリー来航以前から日本との接触を続けていたのです。実は1846年に東インド艦隊司令官のビッドルが、開国を求めて浦賀に来航しています。ビッドルの交渉は失敗に終わりますが、その反省からペリーは強硬手段を用いることを決定しています。その作戦は功を奏し、日本は開国することとなりました。
ペリーが持参したフィルモア大統領の国書には、次のように記されています。
「吾が人民にして、日本沿岸に於て捕鯨に従事するもの甚だ多し。荒天の際には、吾が船舶中の一艘〔いっそう〕が貴国沿岸に於て難破することも屡々〔しばしば〕なり。かかる場合には悉〔ことごと〕く〔中略〕吾が不幸なる人民を親切に遇し、その財産を保護せられんことを願ひまた期待するものなり」
(『ペルリ提督日本遠征記』より引用)
このように、彼の最大の目的は、日本を開国させて捕鯨船の拠点として活用することでした。
石油の採掘が本格化される19世紀後半まで、鯨から採れる鯨油はもっとも良質な燃料油と考えられていたのです。また鯨油は石鹸の原材料となったほか、鯨の骨も傘の骨組や、当時の流行ファッションであるクリノリンなどさまざまな製品の原料として用いられていました。
日本が開国を求められた当時、太平洋北部は世界でも有名な鯨の漁場として知られていました。そのためこの地域での捕鯨拡大を望むアメリカは、拠点として日本に注目したのです。
またアメリカとしてはもうひとつ、清との貿易拠点として日本を活用する意図もありました。
当時のアメリカでは、1848年からはじまったカルフォルニアの「ゴールドラッシュ」の影響で、太平洋沿岸へ大量の移民が流入。こうして発展した西海岸を拠点に、太平洋航路を開拓して清との貿易に取り組もうとします。
しかしアジアに植民地を持っていなかったアメリカは、清への進出においてイギリス、フランス、オランダなどに遅れをとっていました。この遅れを取り戻そうと、いまだオランダ以外が進出していない日本を目指したのです。
もっとも、アメリカの目的は完全には達成されませんでした。1861年に勃発した「南北戦争」によって余力を失い、日本から一時撤退することになるからです。そんなアメリカに代わって影響力を拡大したイギリスは、薩摩藩、長州藩と結びつき、フランスも幕府を支援することで幕末情勢に関与していくことになります。
ペリー来航後、幕府はアメリカとの間に2つの条約を結んでいます。それが1854年に結ばれた「日米和親条約」と、1858年に結ばれた「日米修好通商条約」です。
それぞれの条約について簡単に紹介すると、まず「日米和親条約」では伊豆半島の下田と、北海道の箱館の開港が決定されています。ただしこの時点では貿易は認められておらず、この2港で食料、石炭などの補給のみおこなうことができました。
しかしアメリカは、日本との通商も要求するようになります。「日米和親条約」の締結後、駐日領事として来日したハリスは強硬に貿易の開始を要求しました。そして新たに「日米修好通商条約」が結ばれることとなるのです。
「日米修好通商条約」を締結した結果、下田を閉じる代わりに新たに神奈川・長崎・新潟・兵庫の開港が決定し、開港地には外国人居留地が設置されることとなりました。またその後オランダ、ロシア、イギリス、フランスとも同様の条約を結び、日本は本格的に海外との交易に従事するようになります。
「日米和親条約」と「日米修好通商条約」の問題点は、この2つの条約が、日本にとって不利な「不平等条約」だったことです。「日米和親条約」には「片務的最恵国待遇の承認」、「日米修好通商条約」には「領事裁判権の承認」と「関税自主権の喪失」という不平等条約が含まれました。その結果開国にともない日本社会は大きく混乱し、「安政の大獄」や「尊王攘夷運動」、そして「明治維新」に至る大きな社会変動のきっかけとなるのです。
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本書は、ペリーたちの航海に関する公的な報告書を邦訳したもので、上下2巻で刊行されています。
報告書と言っても、その内容は無味乾燥なものではありません。ペリーたちはこの報告書を編纂するために、幕府との交渉過程だけでなく日本などの風土、社会、芸術などさまざまな事柄に言及しています。そのため本書は、当時の状況を知ることができる史料としての側面も持っているのです。
- 著者
- M・C・ペリー
- 出版日
- 2014-08-23
当時の日本人にとっては当たり前の光景も、異国人であるペリーたちにとっては非常に珍しいものでした。そのため彼らの報告書は、日本人はあえて記録に残さないような「普通の光景」についても、精密な挿絵とともに紹介しています。
たとえば入浴などの光景は、現代の日本人が見ても驚いてしまうでしょう。
またペリーたちの目を通して描かれる日本人の姿は、現代に通じる点もあれば異なる点も多く、興味深いものばかりです。ペリー来航そのものだけでなく、江戸時代の日本の風俗や日本人論に興味がある方にも一読をおすすめします。
本書はコンパクトな新書ながら、ペリー来航の影響について幕府、琉球王国、民衆などさまざまな観点からわかりやすく説明しています。教科書の内容をより深めたい学生や、あらためて学びたい方の最初の一冊におすすめです。
- 著者
- 西川 武臣
- 出版日
- 2016-06-21
しばしば、幕府はペリー来航に対して成す術がなかったといわれます。しかし本書を読むと、当時の幕府役人たちが与えられた条件のなかで最善を尽くしたことがうかがえるでしょう。
また黒船の来航に対し、為政者だけでなく民衆も強い関心を抱いていました。こうした民衆の国際情勢に対する関心の高さが、「明治維新」など大きな社会変動を後押しするエネルギーにつながったのかもしれません。
ペリー来航時の世界各国の動向は、現代の国際社会を理解するためのヒントに満ちています。鎖国を解いたことをきっかけに日本社会は大きな変容を遂げました。ぜひ関連本も読んでいただき、学びを深めてください。