縄文→弥生→古墳→飛鳥→奈良→平安→鎌倉→室町→安土桃山→江戸……。教科書に載っている日本史の時代名称の多くは、都や幕府があって政治の中心となっていた都市や地域の名前が用いられています。奈良や鎌倉など、ズバッと地名で言い表されているものが多いなか、ちょっとわかりにくいのが「安土桃山時代」。桃山ってどこ?戦国時代とはどう違うのでしょうか? この記事では、安土桃山時代の特長や戦国時代との違いについてわかりやすく解説し、さらにこの時代をより深く知ることができるおすすめめの書籍をご紹介していきます。
安土桃山時代がどんな時代なのかひと言で表すと、「織田信長と豊臣秀吉が中央政権を握った時代」といえます。
具体的には、1573年に織田信長が室町幕府足利将軍家を追い出してから、豊臣秀吉天下統一時代を経て、徳川家康が関ヶ原の戦いで勝利し江戸幕府を開いた1603年までの、およそ30年間を指すのが一般的です。
長い長い日本の歴史上の、たった30年間。とても短い期間ですが、それまでの常識を大きく覆す激動の時代でもありました。
一方で戦国時代とは、室町幕府後半から始まる日本中に小国が乱立し、覇権を巡って争いが絶えなかった時代を指します。さまざまな見解がありますが、一般的には応仁の乱が勃発した1467年から豊臣秀吉が天下統一を成し遂げた1590年まで、または豊臣家が滅んだ1615年までとすることが多いです。
ということは、安土桃山時代と戦国時代はダブってしまっているのでは……?
そうなんです。これも安土桃山時代をわかりにくくしている一因なのかもしれません。
政治の中心がどこにあったかという観点で見ると、室町時代から安土桃山時代、そして江戸時代という流れに。この時代がどのような時代であったかという観点で見ると、室町時代の後半から戦国時代に突入し、徳川家康が天下統一を成し遂げて江戸時代へ、という考え方もできます。
そもそも「○○時代」という呼び方は現代に付けられたもの。何百年も前の人たちが「今は戦国時代だよね」「いや昨年から安土桃山時代でしょ」と認識していたわけではありませんので、さまざまな説があってしかり。
ほぼ同時期の時代を表す呼び方として、政治の中心地を基準とした「安土桃山時代」と、どのような時代だったかを形容する「戦国時代」の2つがある、と考えてください。
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室町幕府の権威が失墜した15世紀末から16世紀にかけて、「力こそが正義」だった動乱の時代が戦国時代です。守護大名だけでなく、素浪人や農民、商人出身でも強ければ戦国武将になれる実力社会でした。裏切りやだまし討ち、暗殺などなんでもあり。とにかく一斉に天下統一を目指しだしたため、わかりにくく複雑な時代でもあります。この記事では戦国時代の流れをわかりやすく説明し、さらに理解を深めるおすすめの関連本をご紹介していきます。
「安土」とは、琵琶湖の東岸にある安土山のこと。1576年、織田信長はこの安土山に壮大なスケールの巨大な「安土城」の築城を開始し、天下統一に向けて大躍進します。
安土山に都や幕府があったわけではありませんが、この時代を象徴する人物のひとり、織田信長の拠点であったため、「安土」という言葉がピックアップされたわけです。
今までにない新しいタイプの巨大城郭を築きあげ、絶対的な存在となった信長でしたが、ご存知のように覇者としては非常に短命。安土城は築城わずか数年で主を失います。瞬く間に政治の中心地ではなくなってしまったのです。
そこで重要になるのが「桃山」という言葉。こちらは、京都市伏見にある桃山丘陵周辺の地名からきています。
伏見といえば、豊臣秀吉が終の棲家として晩年築城した「伏見城」がある場所。伏見城は江戸時代に入って廃城となり、一帯には桃の木がたくさん植えられ桃の名所となったのだそうです。秀吉存命の頃にはまだ「桃山」という地名はありませんでした。桃山丘陵という地名も後の世に付けられたものです。
少々回りくどい感じもしますが、秀吉の居城であった伏見城をイメージさせる言葉として「桃山」が用いられています。この時代のもうひとりの立役者・豊臣秀吉を象徴する言葉なのです。
ならば「安土伏見時代」と呼んだ方がよさそうな気もしますが……しかしそもそもこの時代、信長も秀吉もひとところに長く留まることをせず、状況に合わせて転々と移り住んでいたため、この時代を象徴する地名をひとつに絞り込むこと自体が難しいのです。
最近では地名にこだわらず、信長と秀吉の苗字を一文字ずつ取って「織豊時代(しょくほうじだい)」という呼び方も広まりつつあります。
織田信長、豊臣秀吉の強大な権力のもと、多くの諸大名たちがしのぎを削り、安土桃山時代には豪華絢爛な「桃山文化」が誕生しました。
それ以前は、日本国内であっても、他国との経済や文化の交流はそれほど盛んではありませんでしたが、信長や秀吉によって天下統一の動きが強まると、国どうしの交流も深まり、さまざまな文化芸術が花開いたのです。
さらにこの時代は、ポルトガルやイギリスなどの国々も大航海時代の波に乗って渡来。こうして入ってきたヨーロッパ諸国の文化も、桃山文化には色濃く反映されています。
では「桃山文化」の代表的な分野・作品をいくつかご紹介いたしましょう。
桃山文化を象徴するものといえばまず、城が挙げられます。
それまでの城はあくまでも戦うための砦であり、山城がほとんどでした。しかしこの時代には、織田信長が築いた安土城のように、権力を象徴するかの如くそびえ立つ天守閣を持った巨大な城郭建築が誕生します。
戦う城から、見せる城へ。
桃山期に築かれたもので、建物の全体ないし一部が現存する城郭で代表的なものは以下のとおりです。
茶の湯とは、お客を招いてお茶を立てもてなす集まりのこと。もともとは高貴な身分の人々やお金持ちのものでしたが、安土桃山時代になると庶民にも広まり大流行します。
そんな茶の湯を広めた人物のひとりが、織田信長・豊臣秀吉に仕えた千利休。利休は豪華絢爛な桃山文化のなかで、質素で穏やかな「わび茶」の世界を極め、茶道を確立しました。
茶の湯の広まりとともに、茶室の建築や茶道具、特に陶器の技術が進み、有田焼や萩焼など、各地で個性豊かな陶磁器が作られるようになります。
城や寺院などの建築技術が栄えると、その建物の内外を装飾する「障屏画」と呼ばれる絵画が盛んになります。壁や襖、大きな屏風などに、金や青、緑などの絵の具を駆使して鮮やかな色彩の絵が数多く描かれました。
それまでの絵画や工芸品は、仏教の世界を題材にしたものが大半でしたが、桃山文化が花開いてからは、花鳥風月や庶民の暮らしぶりを描いたものなど多種多様に。絵画から、当時の時代背景を知ることもできるようになりました。
代表作をいくつかご紹介します。
- 著者
- 神田 千里
- 出版日
- 2014-10-06
時代に先駆け、常に革新的な発想を持って天下統一を目指した織田信長。偉業を成し遂げた武将であることには間違いありませんが、長い歳月を経て後世に伝わった逸話のなかには、やや誇張されたものも多く含まれています。
そんな信長のイメージに待ったをかけつつ、「信長は本当に革命児だったのか?」をメインテーマに綴られたのが本書。史料を丁寧に紐解き、信長の真の姿に迫る過程にはぐいぐい引き込まれます。
読後は信長のことを「意外と普通の人」と思う人もいれば、「やっぱり偉大な武将」と感じる人もいるかもしれません。
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織田信長を「城」「合戦」「宣教師」などの視点から探る本
100年以上続いた乱世の世を終結に導いた革命児、織田信長。既成概念を壊していくその独創的な手腕は実にドラマティックです。信長を扱った書籍は数えきれないほどありますが、少し視点を変えて読み取ることで新たな信長像が浮かんできます。
- 著者
- 司馬 遼太郎
- 出版日
- 1973-05-29
豊臣秀吉を題材にした小説は数々ありますが、若いころの彼を茶目っ気たっぷりに描いた一冊といえばこれ。『国盗り物語』『関ヶ原』とともに司馬遼太郎の「戦国三部作」と呼ばれる名作です。
貧しさのなかで喘ぎながらも知恵と勇気と笑いに溢れた若者が、信長の家来となって次々に功績を挙げ、天下人となるまでが爽快に綴られています。
上下巻と結構なボリュームですが、ラストまで一気に読めるはず。秀吉ファンもそれほどでもない人も秀吉のことを好きになる一冊です。
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司馬遼太郎おすすめ作品10選。代表作から隠れた名作まで
司馬遼太郎は多くの歴史小説がドラマ、映画として映像化され私たち日本人の歴史感覚に影響を与えているといわれています。亡くなった後もその人気の衰えないロングセラーを誇る作家です。魅力あふれる数多くの作品の中から10冊を選びました。
- 著者
- 出版日
- 1983-04-27
タイトルの下にある「白雉・朱鳥より安土・桃山にいたる千年の歌から選りすぐった絶唱千首」という小さな文字。
白雉・朱鳥とは、飛鳥時代の年号で、万葉の頃から安土桃山時代に至るまでのおよそ1000年間の間に詠まれた膨大な和歌のなかから塚本邦雄が選び出した1000首が、きら星のごとく各ページを飾ります。
各時代を生きた人々が日々の暮らしのなかで感じたことを記した歌はどれもみずみずしく、時に切なく、温かい。日本語って美しいと感じさせてくれる名書です。
織田信長と豊臣秀吉によって築かれた安土桃山時代。30年という短い期間ですがさまざまな出来事が凝縮された激動の時代でもあり、この時代を舞台にした歴史小説や読み物はどれも面白い!これを機会にぜひ、いろいろ手に取って読んでみてください。