徳川家定はどんな人?功績ゼロの「何もしなかった」将軍、性格や死因を解説

更新:2021.12.8

幕末四賢侯のひとりとして知られる松平春嶽から「凡庸の中でも最も下等」と酷評された徳川家定。将軍に就任してから、一体何をしたのでしょうか。この記事では、家定の生涯、性格、死因などをわかりやすく解説していきます。

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徳川家定は病弱ながらも将軍に。妻はデキる天璋院篤姫

徳川家定の幼少期

1824年、徳川幕府第12代将軍である徳川家慶の4男として、江戸城で生まれた徳川家定。幼名は政之助といいます。母親は、幕臣である跡部正賢の娘のお美津(後の本寿院)で、家慶の8人いた側室のひとりでした。家慶には正室である楽宮喬子女王が生んだ竹千代をはじめ、14人の男子と13人の女子がいましたがいずれも夭折し、成人まで生き残ったのは家定だけです。

1841年、祖父である大御所の徳川家斉が亡くなると、家定は家慶の世嗣となります。しかし当時の家慶は、後に第15代将軍になる一橋家の徳川慶喜を世嗣にしようと考えてたそう。家定が幼少の頃から病弱だったことが理由ですが、老中だった阿部正弘の意見により、結局は家定が世嗣となりました。

1853年7月、ペリー率いる黒船が来航したおよそ20日後に家慶が病死し、家定が第13代将軍に就任します。

徳川家定の将軍継嗣問題

将軍になった徳川家定について、1857年10月に謁見したアメリカ総領事のタウンゼント・ハリスは「言葉を発する前に頭を後方に反らし、足を踏み鳴らすという行動を取った」と日記に記しています。この行動は脳性麻痺の典型的な症状といわれるものです。

また開国起源が記された『安政紀事』には「疾ありて政をきくことあたはず、ただ廷中わずかに儀容を失はざるのみなり」とあり、家定は将軍就任後ほどなくしてほぼ廃人のような容体になっていたと考えられています。そのため幕政は、老中の阿部正弘や堀田正睦が主導していました。

このような状況もあり、家定が将軍に就任して早々に、継嗣問題が発生します。家定は正室に鷹司政煕の娘や一条忠良の娘を相次いで迎えますが、いずれも早世。1856年、薩摩藩島津家の一門である今和泉島津家の娘、一が島津本家である島津斉彬の妖女になり、家定の正室に。一は島津斉彬の養女となった際に名を篤子と改めたことから、篤姫と呼ばれました。しかし篤姫との間にも子は生まれませんでした。

徳川家定の死後と天璋院篤姫

1858年7月、徳川家定は35歳の若さで亡くなります。篤姫との結婚生活はわずか1年9ヶ月ほど。徳川慶福が跡を継ぎ、第14代将軍徳川家茂となると、「公武合体政策」のもと、皇女・和宮が家茂の正室になります。この事態に薩摩藩は、天璋院となっていた篤姫に対し薩摩への帰国を申し出ますが、天璋院はこれを拒み、江戸に残る道を選びました。

武家出身の姑と皇族出身の嫁は、生活習慣や価値観の違いから衝突することもあったものの、「大政奉還」や「戊辰戦争」など幕府存亡の危機においては互いに協力し、徳川家の救済と、最後の将軍となった徳川慶喜の助命嘆願に奔走しました。

天璋院篤姫は、明治維新後も薩摩に帰ることなく、生涯を徳川の人間として過ごします。1883年に47歳で亡くなりました。葬儀の際には沿道に1万人もの人々が集まったそうです。


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徳川家定の性格は?疑い深く、カステラ好き!?

徳川家定の愛称はイモ公方

徳川家定には「イモ公方」という愛称があります。お菓子作りが趣味で、自らまんじゅうや煮豆、ふかし芋を作っては家臣たちに振る舞っていたことから名付けられました。特にお気に入りだったのがカステラだそうで、家定が調理したものを篤姫に御馳走するなど、夫婦仲の良さをうかがわせるエピソードも残っています。

徳川家定の性格は疑い深い?

徳川家定は疑い深い性格をしていたと伝えられています。家定が幼い頃、幕府内では父の家慶と祖父の家斉が対立していて、将軍である家慶が、将軍を退き大御所となった後も権力を手放そうとしない家斉に対し不満を募らせていました。

そんななか、家斉が近臣を使って家定を暗殺しようとしている噂が流れたのです。そのため家定は、江戸城で生活していた家斉のもとを訪れた際も、毒殺されることを警戒して出された食事に箸をつけなかったのだとか。彼がお菓子作りを自らしていたのも、自分で作ったものであれば安心だからだとも考えられています。

徳川家定は人前が苦手

徳川家定は幼少期に痘瘡(ほうそう)を患い、顔に痣が残っていました。自らの風貌に劣等感を抱き、人前に出るのが苦手だったといわれています。心を開いていたのは乳母である歌橋だけだったとか。歌橋は大奥における最高位の女中である「上臈御年寄」とし、時に生母をもしのぐ権勢を誇り、幕政にも大きな影響を与えました。

徳川家定のしたこと。ペリー来航、後継者問題

ペリー来航

徳川家定が将軍になった1853年は、マシュー・ペリー提督率いるアメリカの黒船艦隊が来航した直後。日本に開国を求める大統領の親書を手渡された幕府は、翌年までに対応を決める必要がありました。

当時の老中首座を務めていたのは、阿部正弘です。実はペリーが来航すること自体は、1852年にオランダ商館長から報告されていました。しかし、イギリス艦隊が来航すると伝えられたものの虚報に終わった前例があったため、幕府の対応はわずかに警備を強化する程度だったそうです。

ペリー来航を受け、阿部正弘は諸大名から旗本、庶民にいたるまでさまざまな人に意見を求めます。国内では攘夷論が優勢で、幕府もアメリカから帰国したジョン万次郎からアメリカの情勢を聞き、大船建造の禁を解いて各藩に軍艦の建造を奨励、オランダに軍艦を発注し、江戸湾に11ヶ所の台場を造営するなど、相次いで手を打ちました。

従来、幕府は突然の来航に慌てふためき、成す術もなく開国を迫られたといわれてきましたが、このように近年の研究では幕府が対策を講じていたことがわかっています。もしもペリーが約束どおり1年後に再来日していれば、撃退することも可能だったかもしれません。しかし、ペリーがやって来たのは半年後。この時点で台場は3つしか完成しておらず、交渉のすえ、「日米和親条約」が締結されることになりました。

ちなみにこの時、ペリーはさまざまな贈り物を将軍家に贈ります。そのなかにミシンがあり、家定はこのミシンを篤姫に与え、篤姫はミシンを扱った最初の日本人だといわれているのです。


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後継者問題

徳川家定が将軍になった時期、問題になったのはペリー来航だけではありません。誰を次の将軍にするのかという後継者問題も重要な議題でした。

候補になったのは、御三家のひとつである紀州藩藩主の徳川慶福と、御三卿のひとつである一橋家の当主徳川慶喜の2人です。徳川慶福の父である徳川斉順は、徳川家慶の異母弟で、家定とは従弟の関係。一方の徳川慶喜は御三家のひとつである水戸藩藩主、徳川斉昭の子です。

血筋的には徳川慶福のほうが家定に近く、後継者にふさわしいでしょう。しかし慶福は1858年の時点でまだ12歳、それに対し徳川慶喜は21歳で、一時は家慶が自らの後継者にしようと考えたほどの人物。黒船来航という国難もあり、幕府を率いることができると評価されていました。

大老の井伊直弼など譜代大名は徳川慶福を推し、島津斉彬や徳川斉昭、松平春嶽などの有力大名たちは徳川慶喜を推し、両者はそれぞれ「南紀派」「一橋派」と呼ばれて対立します。この対立は、老中である阿部正弘の改革に対する賛否、開国派と攘夷派の対立、大奥の経費削減をめぐる争いなど、さまざまな要素を含みながら複雑化していきました。

最終的には南紀派が勝利し、1858年、徳川家定は徳川慶福を自らの後継者に指名。複雑化の一途をたどる論争を終結させた決断は「家定が将軍として成し遂げた唯一のこと」だと評価されています。

ただ家定の側小姓だった朝比奈閑水によると、家定が慶喜ではなく慶福を選んだのは「自分より慶喜の方が美形で慶喜が登城すると大奥が騒ぐ」ことに嫉妬していたからだとか。また家定が唯一心を開いていた乳母の歌橋が南紀派だったことも影響していたと考えられています。

徳川家定の死因は?

徳川家定の死因は脚気?

35歳の若さで亡くなった徳川家定の死因は、持病の脚気(かっけ)の悪化だとするのが通説です。脚気は別名を「江戸患い」といい、当時の日本では結核と並ぶ代表的な国民病でした。

一方で家定の死因を、当時流行していたコレラとする説もあります。コレラはたびたび世界規模のパンデミックを引き起こしていた感染症で、1850年代のパンデミックは1858年に長崎を経由して日本にも波及し、全国で数十万人もの犠牲者が出ています。

徳川家定暗殺説

徳川家定が亡くなったのは、大老である井伊直弼が一橋派の弾圧をし、「安政の大獄」をおこなっていた時期。篤姫の養父でもある島津斉彬は一橋派の復権を狙い、5000人の兵をつれて上京する計画を進めていました。家定が慶福を後継者に決めたとはいえ、すでに廃人同然の容体だったことから、一橋派が復権すれば後継者を変更できる可能性があったのです。

そこで、家定を暗殺し、徳川慶福を将軍に就任させてしまおうと目論んだ者がいたのではないかという説が当時からささやかれていました。実行犯として疑惑をかけられたのは、奥医師の岡櫟仙院(れきせんいん)です。彼は代々幕府に仕えてきた名門の出ですが、家定の症状が悪化した責任を問われ、息子の良節とともに奥医師を解任されていました。

かわりに家定の治療を担当したのは、漢方医の青木春岱や遠田澄庵、蘭方医の伊東玄朴や戸塚静海など。蘭方医が将軍の治療にあたった前例はなく、伊藤、戸塚の登用は櫟仙院にとって非常に屈辱的だったと考えられています。

そんな櫟仙院に、奥医師への復帰を条件に井伊直弼らが暗殺を依頼したのではないかといわれているのです。一橋派の中心的人物である島津斉彬が、家定が亡くなった10日後に急死している点もこの陰謀説を補強する要素のひとつになっています。

また実行犯は同じく櫟仙院で、暗殺を依頼したのは家定を南紀派の傀儡とみなした一橋派の人々だったという説もあります。ただいずれも明確な証拠はなく、暗殺された可能性は限りなく低いといえるでしょう。

骨から江戸時代を読み解くおすすめ本

著者
尚, 鈴木
出版日

東京タワーを建設するにあたり、増上寺にある徳川家累代の墓所が移転されることになりました。本書は、その際に歴代将軍や大名家などの貴重な御遺骨を調査した記録をまとめたもの。150を超える写真とともに解説しています。

第2代将軍、徳川秀忠のたくましい骨からは、戦国の世を生き抜いてきた武者の面影を色濃く感じるでしょう。その後代を重ねるごとに細面の公家風な風貌になっていくなど、将軍の生活習慣を垣間見ることもできます。徳川家定の父である家慶などは身長が低くて頭が大きく、しゃくれ顔だったことも明らかになりました。

これらの遺骨は発掘調査後に火葬されたため、今後新たなデータを得ることはできません。まさに唯一無二の貴重な一冊になっています。

徳川家定に嫁いだ篤姫を描いたおすすめ本

著者
宮尾 登美子
出版日
2007-03-15

2008年に放送されたNHK大河ドラマ「篤姫」の原作になった、宮尾登美子の歴史小説です。

薩摩島津家の分家に生まれ、徳川家定の御台所となった篤姫が、皇女・和宮との対立を乗り越えつつ3000人を擁する大奥を束ね、幕末の動乱を生き抜く姿を描いています。

どんな時も芯をぶらさない篤姫の姿はたくましく、読者を魅了します。また文章もわかりやすいため、歴史小説に苦手意識がある人でも読みやすいでしょう。上下巻あわせて800ページ超えの大作ですが、ぜひ手に取ってほしいおすすめの一冊です。

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