堀田正睦はどんな人?佐倉藩主から老中時代の日米修好通商条約交渉まで解説!

更新:2021.12.8

老中首座を務めるほどの政治家ながら、前任の阿部正弘や大老の井伊直弼らの陰に隠れ、地味な印象が強い堀田正睦。一体どのような人物なのでしょうか。この記事では、佐倉藩主時代から、「日米修好通商条約」に関するハリスとの交渉など、堀田正睦の生涯をわかりやすく解説していきます。またおすすめの関連本も紹介するので、最後までご覧ください。

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堀田正睦はどんな人?まずは佐倉藩の藩主に

堀田正睦の幼少期

1810年8月1日、下総国佐倉藩3代藩主である堀田正時の次男として生まれた堀田正睦(ほったまさよし)。後に深く関わることになる阿部正弘よりも9歳、井伊直弼よりも5歳年上です。幼少期の正睦は小鳥が大好きで、近習らと自然のなかで遊ぶことを好む少年だったそうです。母親の芳尾は、正時の2人いる側室のひとりでした。

堀田氏は尾張国愛知郡津島の豪族で、堀田盛重が織田氏や豊臣氏に仕え、堀田正吉が「関ヶ原の戦い」以降に徳川家に仕えたとされています。正吉の子の堀田正盛が第3代将軍の徳川家光に重用され、若年寄や老中を歴任しました。1642年には下総国佐倉藩11万石の大名になりますが、長男である堀田正信の時代に解任されます。

一方で正盛の三男である堀田正俊は、春日局の養子となり、第5代将軍の徳川綱吉の時代には大老に。正俊の孫で、正睦の祖父にあたる堀田正亮も老中首座を務め、1746年に佐倉藩主になりました。この正俊系堀田氏が、幕末まで佐倉藩を治め続けます。

佐倉藩主へ

堀田正睦の父である堀田正時は、1805年に兄である佐倉藩2代藩主の堀田正順が亡くなると、嫡流だった孫の堀田正愛がまだ幼かったことから中継ぎとして3代藩主に就任しました。そのため、1811年に正時が亡くなると、家督は正愛が継承します。この時に正睦は正愛の世子になりました。

正愛はもともと病弱で、1822年には肝臓を患い、1824年には危険な状態に。子も生まれたものの早世していて、順当にいけば、次は世子である正睦が家督を継承することになります。

これに異を唱えたのが、重臣の金井右膳です。金井は仙台藩8代藩主である伊達宗村の血を引き、正愛の後見人でもあった下野佐野藩主である堀田正敦の子を正愛の養子に迎え、家督を継承させようとするのです。

しかし血統から見ても正睦のほうが当主に相応しいことから、渡辺弥一兵衛などの下級武士を中心に大きな反発が起こり、最終的に正睦が藩主になりました。正睦は幕府からの信任もある金井を引き続き重用しつつも、自らを支えた渡辺を側用人に登用したそうです。

蘭癖大名と呼ばれた堀田正睦

堀田正睦が藩主として自立するのは、1833年に金井右膳が亡くなってからのこと。蘭学者の高野長英らに師事し、江戸で和田塾を開いていた蘭方医の佐藤泰然を佐倉に招いて「佐倉順天堂」を解説するなど蘭学の普及に力を入れ、「蘭癖大名」と呼ばれました。佐倉順天堂は、乳癌手術や種痘を手掛けるなど、当時最高水準の医療を施し、現在の順天堂大学の礎となっています。

老中・堀田正睦のハリスとの「日米修好通商条約」交渉と孝明天皇の勅許問題

阿部正弘に代わって、老中首座へ

堀田正睦が幕政に参与するようになったのは、1829年に奏者番に任命されてからのこと。1834年8月には寺社奉行を兼任し、1837年には大阪城代、西の丸老中を歴任。1841年には本丸老中となりました。時の老中首座は水野忠邦で、正睦も彼が遂行する「天保の改革」に参画することになります。

しかし「天保の改革」はその急進さと圧迫によって民衆の反発を招き、1843年に忠邦が失脚、改革は頓挫しました。正睦自身は実は改革に批判的で、忠邦と一定の距離を保っていたこと、さらに忠邦が失脚する直前に自ら辞表を出していたこともあり、失脚を免れます。

正睦が老中に返り咲いたのは、12年後の1855年のこと。当時老中首座だった阿部正弘に推挙され、老中首座の地位も譲られます。この時期の日本は、ペリー来航と開国の要求によって攘夷論が噴出するなど多難なとき。また老中首座を譲られたとはいえ、実権は正弘が掌握していて、正睦は「看板」「操り人形」とみなされていました。

ハリスとの「日米修好通商条約」交渉

1857年に阿部正弘が亡くなると、堀田正睦は老中首座として名実ともに幕政を主導することになります。しかしこの頃には幕府だけで外交問題を含む国難に対処するのが難しい事態になっていました。1854年に締結された「日米和親条約」にもとづきアメリカ総領事に着任したタウンゼント・ハリスが、1857年10月に第13代将軍の徳川家定に謁見し、通商開始を求める国書を提出します。

正睦は下田奉行の井上清直と、目付の岩瀬忠震を全権に条約交渉を開始。15回におよぶ交渉のすえ、「日米修好通商条約案」をまとめます。この条約案はアメリカ側に領事裁判権を認め、日本側の関税自主権を認めないなど不平等なもので、攘夷派を中心に反対の声が噴出しました。


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孝明天皇の勅許問題

1858年3月、堀田正睦は孝明天皇の勅許を得るべく、岩瀬忠震とともに条約案を携えて上京します。本来であれば、外交は幕府が管掌していたため勅許を得る必要はありませんでしたが、正睦としては朝廷のお墨付きを得ることで攘夷派など条約に反対する者たちを抑えようとしていました。

しかし、中山忠能や岩倉具視ら攘夷派の公家たち88人が抗議のために座り込みをする「廷臣八十八卿列参事件」が起こるなど、朝廷は条約に反対する声が優勢な状況です。孝明天皇は条約締結への勅許を拒否し、正睦は成果を得られないまま江戸に戻ることになりました。

事態を打開するために、将軍である徳川家定に対して、越前藩主の松平慶永を大老に就任させるよう提言しますが、家定自身が井伊直弼を推挙し、大老には井伊直弼が就任することになりました。

井伊直弼自身も、「日米修好通商条約」を締結する前に天皇の勅許を得たいと考えていましたが、ハリスから「アメリカとすぐに条約を締結しなければ、イギリス・フランスが日本を占領するだろう」と脅迫されたこともあり、開国派の老中である松平忠固を中心に幕府内は即時調印すべしという意見に傾いていくのです。

その結果、1858年7月29日、勅許を得られないまま「日米修好通商条約」に調印。勅許を得ないまま不平等な条約に調印したために攘夷派を中心に大きな反発を招き、正睦は忠固とともに老中を罷免されました。

堀田正睦と井伊直弼の関係は?

将軍継嗣問題

堀田正睦が孝明天皇の勅許を得られなかった1858年は、第13代将軍の徳川家定の跡継ぎをめぐり、徳川慶喜を推薦する徳川斉昭、島津斉彬、松平慶永などの「一橋派」と、徳川慶福を推薦する井伊直弼などの「南紀派」が対立する問題が起きていました。開国派だった堀田正睦は、強硬な攘夷論を唱える徳川斉昭との政治的対立を背景に「南紀派」に属します。

しかし、孝明天皇の勅許を得ることに失敗すると、朝廷の心証を和らげるため「一橋派」に転向。慶喜を将軍に、松平慶永を大老に据えようと動くのです。

ただ、徳川家定の指名で大老に就任したのは井伊直弼。そして直弼は、「日米修好通商条約」に調印すると、正睦をはじめとする「一橋派」の排斥に乗り出しました。

正睦は登城停止処分を受けた後に老中を罷免され、1859年には直弼の命で家督を四男の堀田正倫に譲ることになり、隠居を余儀なくされてしまうのです。

堀田正睦と井伊直弼との関係

このような状況から、堀田正睦と井伊直弼は一般的には対立関係にあったと考えられています。実際に正睦が「南紀派」から「一橋派」に転向した後は両者の溝が深まり、正睦の政治生命は絶たれました。

ただ2人はもともと親友といっていいほど親密な関係だったそう。直弼がまだ世子だった1847年頃、兄の井伊直亮の代理として江戸城に登城して勤めるようになった時、新米だった直弼を気にかけ、何かと世話を焼いたのが正睦でした。直弼にとって5歳年上の正睦は、いざという時に頼れる兄貴分のような存在だったのです。

後に直弼が正睦に厳しい処分をしたことも、「一橋派」を厳しく処分することを天下に示すためであり、いずれ時期を見て処分を解き、再び幕閣に登用するつもりだったのではないかといわれています。

安政の大獄と桜田門外の変とは

安政の大獄

1858年から1859年にかけて、大老の井伊直弼は「日米修好通商条約」の調印や、徳川慶福の将軍就任に反対した「一橋派」、尊王攘夷派を厳しく弾圧しました。この弾圧を「安政の大獄」、または「戊午の大獄(つちのえうまのたいごく)」といいます。

徳川慶喜、越前藩主の松平慶永、水戸藩主の徳川慶篤、尾張藩主の徳川慶勝、宇和島藩主の伊達宗城、土佐藩主の山内容堂など有力大名が隠居や謹慎を命じられ、梅田雲浜、頼三樹三郎、橋本左内、吉田松陰などが死刑または獄死しています。

処罰された人数は、なんと100人以上。しかし正睦に関しては厳しい処分は下されず、不問とされました。このことからも、井伊直弼がいずれは正睦を再登用しようと考えていたのではないかといわれています。


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桜田門外の変

1860年3月24日、井伊直弼は江戸城に登城する道中の桜田門外で、水戸藩からの脱藩者と薩摩藩士から襲撃され、亡くなりました。この暗殺事件は「桜田門外の変」「桜田事変」「桜田義挙」などと呼ばれ、襲撃した18人は「桜田十八烈士」と呼ばれています。

阿部正弘や堀田正睦が推進していた雄藩や朝廷との協調路線を廃し、従来の幕府中心の体制を構築しようとしていた井伊直弼が倒れたことで、本来は幕府を支えるべき譜代筆頭の彦根藩と、徳川御三家である水戸藩との関係が悪化。多くの研究者が幕府崩壊の直接的な原因として「桜田門外の変」をあげる理由になっています。

「桜田門外の変」が起こった後、幕府の中枢を担ったのは、久世広周と安藤信正です。両者は「安政の大獄」など井伊直弼の進めた強硬路線をあらため、朝廷との関係を深める「公武合体政策」を進めていきます。

1862年3月、正睦は朝廷と幕府双方からの命令という形で、蟄居処分を受けました。『評伝 堀田正睦』によるとこの処分は「安政の大獄」による報復人事だったとされ、井伊直弼と堀田正睦が表面的には対立しつつも、深い部分では親密な関係を維持していたと当時の人々の間でも考えられていたことがわかります。

結局、正睦は再度世に出ることなく、1864年3月に佐倉城にて死去しました。蟄居処分は没後に解かれ、明治維新後、堀田家は伯爵位を授けられます。ちなみに子孫である堀田正久は、1959年から1975年まで佐倉市長を務め、市民からは「殿様市長」と呼ばれ親しまれました。


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堀田正睦を主人公にしたおすすめ小説

著者
佐藤 雅美
出版日

堀田正睦を主人公にした歴史小説。作者は『恵比寿屋喜兵衛手控え』で直木賞を受賞した佐藤雅美です。幕末を舞台とした小説に定評があり、本書でも登場人物たちの魅力が活き活きと描かれています。

堀田正睦は、阿部正弘や井伊直弼に比べると地味で、日本史上においてもマイナーな扱いを受けることが多いですが、本書を読むと、「蘭癖大名」と呼ばれるだけあり海外の事情に明るく、先見の明のある人物だとわかるでしょう。

読み進めるにつれて、井伊直弼や徳川斉昭など錚々たる人物と渡り合った彼の印象が大きく変わるはず。歴史のなかに埋もれさせておくにはもったいない、と思わせてくれるおすすめの一冊です。

堀田正睦、阿部正弘、井伊直弼の活躍を解説したおすすめ本

著者
脇坂 昌宏
出版日

水野忠邦政権の末期から「桜田門外の変」が起こるまでの約20年間幕政を主導した、堀田正睦、阿部正弘、井伊直弼の3人を描いた作品です。

彼らの共通の課題だったのが、開国問題・幕政改革・将軍継嗣問題の3つ。どれも国の根幹を揺るがしかねない大問題です。3人がこれらにどのようなアプローチで臨んだのかを主要なテーマにしつつ、彼らの人柄も丁寧に解説されているのが魅力でしょう。

国是であった鎖国を解き、開国を成し遂げた3人がいなければ、日本はまったく異なる歴史を歩んでいた可能性があります。いわば宰相として国難に立ち向かった、堀田正睦らの活躍をぜひ読んでみてください。

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