『蛇にピアス』ですばる文学賞受賞後、精力的に活動を続ける女流作家・金原ひとみ。 2021年に出版された短編集『アンソーシャルディスタンス』は、コロナにより激変する世相を風刺した作品で、彼女の新しい代表作となりました。 アルコール依存、プチ整形、不倫セックス、ハメ撮り、心中旅行……。 破滅に向かって突き進む人々の心の深層には、どんな歪みが潜んでいるのでしょうか? 今回は『アンソーシャルディスタンス』をご紹介します。
『アンソーシャルディスタンス』は全五編の短編が収録されています。登場人物は20代前半~30代後半の若い男女で、ほぼ全員が心身の健康を損なっています。
以下、簡単なあらすじです。
『ストロングゼロ』
出版社で働くミナは、鬱病を患った恋人・行成と同棲中。無気力な行成の世話と仕事を両立するストレスを酒でごまかす日々を送るうちに、やがて職場でもストロング缶を手放せなくなり……。
『デバッガー』
30代後半の森山は年下の後輩・大山に告白され付き合うことに。加齢による容姿の衰えにコンプレックスを持った彼女は、周囲に黙ってプチ整形を受けるものの、事態は予想外の方向に転がり出し……。
『コンスキエンティア』
コスメ開発担当の茜音は夫とセックスレスで不倫中。いずれは正式に離婚し奏と一緒になることを夢見ていたが、彼は次第に心を病んでいき、ある時突然姿を消す。
『アンソーシャルディスタンス』
大学生カップルの幸希と沙南。コロナ禍の中どうにか就職を決めた幸希と対照的に、彼の子を妊娠・堕胎した沙南の精神状態は悪化の一途を辿っていた。そんな矢先に生きる希望だったバンドのライブ中止が発表され、二人は心中旅行に出発する……。
『テクノブレイク』
彼氏の遼に誘われ相手がどこに何時間滞在しているかわかるアプリ、「ゼンリー」をインストールした芽衣。遼と別れた後、好みや性格が自分により近い蓮二とセックス三昧の蜜月を送るのだが、そこにコロナが直撃して……。
『アンソーシャルディスタンス』の収録作は全部カタカナ、横文字縛りです。本来の意味とは違った使われ方をしている言葉もあるので、困惑する読者も多そうですね。
ここでは『コンスキエンティア』、ならびに『アンソーシャルディスタンス』を例にとり、両タイトルにこめられた金原ひとみの意図を読み解いていきます。
『コンスキエンティア』の元の意味は「良心」、あるいは「道徳意識」。ルネサンス期に成立した近代哲学用語「意識」(コンスキエンティアconscientia)にも通じ、「共に知ること」をさします。
本作の主人公はコスメ開発担当の茜音。
茜音はメイクに途方もない情熱と労力を費やし、最新流行のコスメグッズを買い揃え、自分の顔を相手の好みに合わせていじり続けていました。
茜音は基本的に主体性がない人間であり、能動的に他者と関わるより受動的に受け入れるタイプです。
相手の求めに応じて顔を作り替えるのが良い例で、人妻の身でありながら不倫に一切罪悪感を持たず、奏と別れた後は親友の弟と関係を結び、取引先の人間とも深い仲になる未来が仄めかされました。
ですが物語の進行に伴い、茜音が二股三股をかけまくるのは彼女の主体性のなさや自己肯定感の低さを埋め合わせる為だと判明し、男たちに同情したくなります。
茜音の行動は常識がない、道徳から外れてると世間に非難されても仕方ないものです。
誰に抱かれても満たされず男を乗り換え続ける茜音。
茜音の自意識は男に求められる瞬間にしか発生しません。
男たちがどんなに茜音を欲しがったところで、最初から「無い」ものを手に入れるのは不可能。もし彼等が関係性発展の為「共に知ること」を望んでも、茜音には体以外に差し出せる自己がないのです。
茜音が鏡と向き合いメイクする時しか自分を認識できないように、彼女に恋した男たちもまた、上滑りする鏡像に欺かれ本質を掴めないもどかしさに苦しんでいたのかもしれません。
『アンソーシャルディスタンス』はもっとわかりやすいです。
『ソーシャルディスタンス』を直訳すると社会的な距離となり、コロナ禍の現在は「感染予防の為に適切な距離をとること」を意味します。
翻り本作の主人公カップル、幸希と沙南はどうでしょうか。二人の距離感はとても適切なものとはいえず、共依存に陥っています。
作中で語られるのは男と女の個人的な距離感であり、そこに社会性は内在しません。
バンドのライブ中止をきっかけにした心中旅行はともすれば計画性のない現実逃避にすぎず、彼等が行く先々で耽る奔放なセックスや、快楽の結果としての妊娠・中絶も、アンソーシャルな距離感を物語っていました。
「堕胎したことで死にたくなったのに、妊娠したことで生きたくなった」と告白する沙南。
命とは男と女がアンソーシャルディスタンスに陥った結果……セックスを経て感染する、病気の一種とも広義では解釈できます。
不適切な距離感でしか他者と交われず、満たされない人々もこの世には存在する。
コロナのように無敵な存在に憧れながらも、そうなれない二人が日常に帰っていくことが示唆されるラストは、諦めにも似たかすかな希望が漂っていました。
他の短編にもどうしようもなく度し難い人々が登場します。
ある者は欲求不満から、ある者は現実逃避から、ある者は年下の恋人への劣等感から。ハメ撮りやアルコールやプチ整形に依存し、やがて破綻をきたす彼女たちの生き様は、即物的な消費行動でしか承認欲を満たせなくなった現代社会の病理を切り取っていました。
- 著者
- 金原 ひとみ
- 出版日
『アンソーシャルディスタンス』を読んだ方には同じ金原ひとみの『ミーツ・ザ・ワールド』をおすすめします。
こちらは金原ひとみの最新作にあたり、焼肉擬人化漫画に萌える腐女子と希死念慮持ちの美人キャバ嬢の出会いから始まる、新感覚の恋愛小説です。
『アンソーシャルディスタンス』で取り上げられた個人の生き辛さに共感できたなら、きっとハマれると思います。
- 著者
- 金原 ひとみ
- 出版日