嵯峨景子の今月の一冊|第六回は『掌に眠る舞台』|演じること、観ること、観られることで生まれる関係を描く短編集

更新:2022.10.27

嵯峨景子先生に、その月気になった本を紹介していただく『今月の一冊』。10月号は集英社から2022年9月5日に刊行された『掌に眠る舞台』です。嵯峨先生が20年来愛読している『小川洋子』ワールドを解説してもらいつつ、『掌に眠る舞台』で描かれる世界の魅力を語ってもらいました。

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 「嵯峨景子の今月の一冊」も第6回目になりました。今月は2022年9月に刊行された小川洋子の短編集『掌に眠る舞台』(集英社)を取り上げます。

著者
小川 洋子
出版日

 小川洋子は、私が10代の頃から追いかけ続けている作家のひとりです。思春期の頃に出会い、その美しくも歪な作品世界に魅了されて以来、本棚の一角を占める小川洋子コーナーは増殖を続けています。一番好きな作品は、標本室に勤めるわたしと、標本技師・弟子丸氏の風変わりな愛を描いた『薬指の標本』。人々の思い出の品を封じ込めた標本や、試験管がずらりと並ぶ私設博物館を思わせる静謐(せいひつ)な保管庫など、私の好きな世界が詰まった魅惑的な物語です。

著者
小川 洋子
出版日
1997-12-24

 『アンネの日記』やナチス・ドイツを想起させるモチーフを、小川洋子らしい記憶と喪失の物語に仕上げた『密やかな結晶』にも思い入れがあります。物語の舞台は、大切なものの記憶がある日突然消えてしまう世界。香水やエメラルド、フェリーに鳥、切手に薔薇の花……。身の回りのものがどんどんと消失し、人々は何をなくしたのかも思い出せない状況の中で、記憶を失わない特殊な人たちは記憶狩りや秘密警察に連行されていく――。淡々とした筆致で綴られる日常に漂う寂寥感や閉塞感がなんとも印象的で、読み進めるうちに静かな悲しみが押し寄せてきます。作品に通底する空虚さや喪失感が忘れがたい余韻を残す、傑作長編小説です。

小川洋子の経歴について

 ここで簡単に、小川洋子の経歴に触れておきましょう。小川洋子は1988年、『揚羽蝶が壊れる時』で海燕新人文学賞を受賞して作家デビューをします。1991年には『妊娠カレンダー』で芥川賞を受賞。2004年刊行の『博士の愛した数式』が本屋大賞を受賞してベストセラーとなり、一躍知名度が高まりました。以後も『ブラフマンの埋葬』で泉鏡花文学賞、『ミーナの行進』で谷崎潤一郎賞、『ことり』で芸術選奨文部科学大臣賞、『小箱』で野間文芸賞など、数々の文学賞を受賞しています。小川作品は海外でも人気が高く、『薬指の標本』は2006年にフランスで映画化されました。近年は海外の文学賞にノミネートされることも多く、『密やかな結晶』は2019年度全米図書賞翻訳部門、2020年度ブッカー国際賞の最終候補作に選ばれるなど、高い評価を受けました。

『掌に眠る舞台』で描かれる世界

 今回のコラムで取り上げる『掌に眠る舞台』はタイトルの通り、舞台をモチーフにした8編の物語を収録した作品集です。私は元々演劇が好きで、一時期は熱心に劇場に通い、宝塚の公演評も書いていました。今はかつてのように頻繁には劇場に行けないものの、演劇に対する興味は変わらず、舞台をモチーフにした小説とあれば飛びついてしまいます。『掌に眠る舞台』も大好きな小川洋子による舞台ものと知り、発売を楽しみにしていた一冊です。ページをめくるとそこには期待に違わない、極上の小川洋子ワールドが繰り広げられているのでした。

舞台という題材に様々な角度から光を当てる作品集の中でも、とりわけ強い印象を残したのが、演劇ファンにはおなじみの演目をモチーフにした短編です。たとえば、ロマンチックバレエの代表作である『ラ・シルフィード』を下敷きに、縫製工場で働く縫い子とバレエに魅せられた少女の交流を描く「指紋のついた羽」。金属加工工場で働く父を持つ少女は、工場の片隅で工具を使って『ラ・シルフィード』を上演し、作品に登場する妖精宛に手紙を書き続けます。無機物が生み出す幻想的な情景や、少女と縫い子のひそやかな交流が美しくもあたたかい作品です。

 続く「ユニコーンを握らせる」は、テネシー・ウィリアムズによる戯曲『ガラスの動物園』を印象的に使った物語。“昔、女優だった人”と呼ばれている伯母の家に滞在する少女の姿を通じて、『ガラスの動物園』に登場するローラと伯母の姿が重ね合わせられていきます。極度に内向的で自分だけの世界に閉じこもり、脆くて壊れやすいガラス細工の動物を集めては心の拠り所にしているローラ。伯母の家の食器の底にはすべて、『ガラスの動物園』のローラの台詞がランダムに書かれていて、文字が現れると彼女は女優に戻って読み上げていくのです。なんとも孤独で物悲しく、それでいて痛切に胸に迫ってくるお気に入りの一編です。

 「鍾乳洞の恋」は人気ミュージカル『オペラ座の怪人』をモチーフに、歯のブリッジの中から白い虫のような生き物が生まれてしまう室長を主人公にした作品。口の中から白い生き物が生まれるというグロテスクな設定を、硬質な幻想に結晶化する小川洋子の筆致にはぞくぞくとさせられます。なんとも奇妙で、それでいて愛おしくなるラブストーリーに仕上がっています。

 「ダブルフォルトの予言」は、交通事故の保険金を使って帝国劇場で上演される『レ・ミゼラブル』の全公演のチケットを買った女性の物語。毎日のように劇場に通ううちに、彼女は劇場に住んでいるという、役者の失敗を身代わりする不思議な女と知り合います。物語の舞台は、私も足を踏み入れたことがある帝国劇場。自分が見知っている場所であるからこそ、そこで紡がれる物語に深く酔いしれました。それにしてもレミゼの全公演制覇というのは、ミュージカルオタクの夢ですよね。

 他には、舞台鑑賞には欠かせない公演パンフレットに光を当てた「花柄さん」も忘れがたい作品でした。いつも花柄のスカートを履いている花柄さんは、様々な劇場の楽屋口に現れてはパンフレットを差し出し、出演者のサインを集めている。収集した膨大なパンフレットが織りなす、ベッドの下の地層。自分が観もしない演目のパンフレットにサインをもらうことは、私にとっては理解しがたい行為です。それでもプログラムに刻まれた印が、「舞台の世界と自分のいる場所をつなぐための、流れ星になる」という説明には、不思議と納得させられてしまいました。

 小川洋子の舞台愛と、その文学世界が見事に融合した『掌に眠る劇場』。日常と非日常が交差する劇場へ心を誘う、美しくも恐ろしい短編集でした。

著者
小川 洋子
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