本好き芸人でnote芸人でもある、レッドブルつばささんによるブックセレクトコラム「今月の偏愛本 A面/B面」がスタート!B面では、新旧・ジャンル・話題性に囚われずレッドブルつばささんが「今読んでほしい!」と思う本を自由におすすめしていただきます。 第1回はレッドブルつばささんが「作品を順番に全部読んでいった」という作家・中村文則さんを初めて読む方におすすめしたい1冊、『掏摸(すり)』です。(編)
純文学なのにストーリーに夢中になる作品
中村文則さんの小説を読むと「この人は自分に寄り添ってくれている」と思うことが多い。
決して明るいとは言えない作風で万人に受け入れられるタイプではないと思うが、それでも中村さんの小説に救われる人は多いはずだ。そして、私もそのうちの一人である。
『掏摸』は第4回大江健三郎賞を受賞するなど、中村さんの代表作に挙げられることが多い。
ネームバリューも含めてこの連載の初回の題材にぴったりだと考えられる。
だが、この作品を選んだのはそれが理由だけではない。
個人的な意見だが、まだ彼の作品に触れたことがない、何から読めばいいか分からないと考えている方にぜひ『掏摸』から読んでほしいと考えているからである。
かく言う私も、「何から読めばいいのだろう」と考え、書店の「中村文則特集」として展開されているコーナーの前に立ち、あれこれ考えてふと手に取ったのがこの『掏摸』だったのである。そして、あっという間に熱中しそこからは一気に全作品を購入し夢中になって読み進めた。自分の読書体験の中でも「中村文則作品を順番に全部読んでいった」という体験は一生忘れることはないと思う(ちなみに、中村さん自身も大学生の時にドストエフスキーの『地下室の手記』を読んで衝撃を受けてそこから読み漁った、というエピソードがある。勝手にその姿を自分にダブらせてニヤニヤしている。そして、私も中村さんの影響でドストエフスキーもいくつか読んだのだった)。
『掏摸』を初めて読んだ時の衝撃は忘れられない。
読み始める前は純文学作品にほぼ触れたことがないので、「難解で何も理解できなかったらどうしよう」と思っていたのだが、そんな心配はすぐに杞憂に終わった。
とにかくストーリーが面白かったのだ。これには本当に驚いた。
確かに登場人物の内面が多く描かれている描写は多いが、それ以上に主人公が巻き込まれていく状況や魅力的な悪役などに夢中になっているうちにあっという間に読み終えてしまった。
中村さんがたびたび「純文学作品にもストーリーはあってもいい」という旨の発言をしていることを知り腑に落ちたのだが、それにしても(その差を分けるものが何か明確には分からないが)エンタメ小説と何も変わらないほど、ストーリーが面白かったのが意外だった。
その後、第一作の『銃』から順番に読み始めたのだが、『掏摸』に至るまでに色々な時期を経てここに辿り着いたのだなと実感することができた。そして『掏摸』以降も作品の描き方はどんどん広がりを見せている。
その第一歩としてぜひ『掏摸』を手に取って頂ければ、私としてもとても嬉しく思う。
東京を拠点にスリ師として活動している主人公。
ある日偶然出会った母子とスリを通し交流を深める中、主人公は「最悪」の男・木崎と再会する。木崎は言う、「これから三つの仕事をこなせ。失敗すれば、お前を殺す。逃げれば、あの女と子供を殺す」と。
- 著者
- 中村 文則
- 出版日
本作の魅力は大きく3つに分けられる。
本作の主人公はスリを生業にしている男である。当然スリは犯罪行為であり、その他の登場人物も裏社会に生きる人ばかりで、一般的な社会に生きているとは言い難い。
しかし、私の印象では登場人物に対して嫌悪感を抱くことはあまりない。
彼らは彼らの世界の中でただ必死に生きているだけなのだ。生きる手段が違うだけで、根本は私たちと何も変わらない。その行動に共感はできないかも知れないが、生き方には共感する部分が多くあると思う。
そして、主人公は金持ちだけを狙ってスリをしているが、特に金に執着しているわけではない。
息をゆっくり吸い、そのまま呼吸を止めた。財布の端を挟み、抜き取る。指先から肩へ震えが伝い、暖かな温度が、少しずつ身体に広がるのを感じる。(中略)息を少しずつ吐き、体温がさらに上がるのを意識しながら、目で周囲を確認した。指には、まだ異物にふれた緊張が、他人の領域に入り込んだ痺れの跡が残っている。首筋に、微かに汗が滲んだ。
物語の冒頭、主人公がスリを行なった直後の描写であるが、スリが成功して財布を手に入れた喜びというよりは、スリという行為そのものに着目をしているように感じる。
社会から疎外されている主人公が唯一、他人と関わることができるのがスリをしている瞬間だけとも取れる。
また、物語の中盤以降、母親から万引きをさせられている子供と関りを持つことになるのだが、そこでも子供にスリのやり方を教える、という点で関わっていくことになる。
“普通”の生活を送ることができない主人公に、裏社会で関わりのある立花という男は告げるのだった。
俺達みたいな人間は、またどっかで必ず会うことになる。
裏の社会に足を踏み入れた結果、彼らは圧倒的な悪に出会い、否応なしに巻き込まれていく。
かつて仕事をともにし、再び主人公のもとに現れ仕事を依頼する木崎という男は『掏摸』のなかで圧倒的な存在感を放つ。
私が『掏摸』が「純文学なのにストーリーが面白い」と思った理由の大部分をこの男が担っている。
事務所のドアが不意に開き、驚いて振り返った僕の前に、その男がいた。(中略)見た瞬間、なぜだかわからないが、自分はここに来なければよかったのだと思った。
主人公と木崎が初めて出会うシーンだが、この描写だけで圧倒的な悪の存在を感じ取ることができる。木崎自身は主人公に対して何もしていないし、このシーンではただ部屋の金庫から金を取り出し、すぐに去っていくだけなのだが主人公にも読者にも只者ではないと感じさせる何かがある。
身体的な特徴を事細かに述べているわけではないので、読者はぼんやりとしかその姿を想像するしかないのだが、その不透明さも不気味さを加速させていく要素の一つになっている。この部分に関しては漫画や映画など、ビジュアルが決定してしまう作品ではなく小説ならではの描写の妙であると言える。
木崎のような悪役はそれまで私が触れてきた創作の中でもあまり見たことがなかった。
暴力的であったり独裁的であったりする悪役でも、どこか人間的な魅力があるからこそ“悪役”として好意を寄せることもあるのだが、木崎に関してはそういった気持ちにならなかった。
とにかく圧倒的に理不尽な存在。いつ自分が理由もなく危害を加えられるかわからない、フラフラとした危うさを感じる。
『掏摸』は主人公の一人称で進んでいくため自然と主人公に共感しやすくなっていくのだが、共感すればするほど主人公が木崎に対して恐怖を感じる様子を追体験することになる。
木崎に相対した時に、どうすれば危機を脱することができるのか。
一般的なエンタメ作品ではわずかなスキを突いて、主人公が逆転するのだろうが、木崎に対してはそのスキすら全く見当たらない。どうしても絶対的な悪に支配されたまま生きざるを得ない、という絶望感とともに進んでいき、それは最後まで崩れることがない。
小説の登場人物にここまで絶望されたのは初めてだった。
そんな存在に巻き込まれた主人公がどうなってしまうのか?という部分が『掏摸』のストーリーの面白さの根幹を担っている。
冒頭から繰り返し描かれる“塔”の存在。
主人公が幼いころから見ていた幻覚のようなものだが、やがて見えなくなってしまう。
だが物語の中で度々目にすることになる。
文庫版の解説に<木崎―主人公―子供、という構図のさらに向こうに「塔」がある>と書いてある通り、圧倒的な存在として主人公の上に立つ木崎を更に超越した存在として塔は描かれている。
しかし、塔は主人公に対して特に何かをしてくれるわけではない。ただそこに在り続けるだけである。
作者の中村文則さんは小さい頃、同じように塔のようなものが見えていたらしい。
<あらゆるものに背を向けようとする僕を、肯定も否定もすることなく、その塔はただ立っていた>とその存在を述べるが、『掏摸』の作中でも同じようにただ立ち続ける。
木崎から理不尽に追い詰められている時も、何も手助けもせずに存在する塔は全てを超越した神のようなものかも知れない。
木崎は人間の運命を気まぐれに操るような神に近い行動を主人公に対して行うが、本物の神ではない。しかし、主人公にとってはその存在感は限りなく神に近いものだともいえる。
ラストシーン、主人公のとある行動の先に塔が現れる。
神に近い存在に運命を握られた主人公の最後の抵抗が、本物の神に届き得たシーンである。と私は読めたのだけど、解釈は人それぞれだと思う。
個人的には、人間は理不尽に襲われる存在ではあるけれど、その理不尽に抵抗することができるのもまた人間であると思っているので、最後に主人公には救われてほしいと思っている。
中村文則さんの小説は文体のリズムが心地良い。
物語の重さと相反するようにスラスラと読むことができる。
特に『掏摸』は中村さん自身がスリの練習を友人相手に繰り返したとあって、リアリティある描写で行為の様子をありありと想像することができる。
ストーリーの面白さに加え、こういう部分も「純文学は読みにくい」と思っていた自分の考えを裏切ってくれた要因だと思う。
色々な角度から私に「小説を読む楽しさ」を教えてくれた作品です。
『掏摸』の兄妹編であり、木崎や『掏摸』の主人公も登場する。
- 著者
- 中村 文則
- 出版日
木崎が登場して以降、いくつか描かれている“悪”の系譜の中でも特に存在感を放つ人物が登場する。
- 著者
- 中村 文則
- 出版日
- 2017-06-22
悪と対峙する主人公、しかも職業が違法カジノのディーラーということもあり、『掏摸』に近いものを感じた。カードを扱う細かい描写もリアリティがある。
- 著者
- 中村文則
- 出版日
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