ドラマや映画などの制作に長年携わってきた読書家プロデューサー・藤原 努による、本を主軸としたカルチャーコラム。幅広い読書遍歴を樹形図のように辿って本を紹介しながら、自身の思うところを綴ります。 今回は、6年ぶりに長編の新刊小説を発表した村上春樹への偏愛っぷりにお付き合いください!
もうこの原稿が出る頃にはそれについてさまざまな識者や作家などがいろいろ書いているであろうことは予想しつつ、それでもやっぱり村上春樹の新作『街とその不確かな壁』を読了し、せっかくこのような場をいただいていることでもあるので、これについて何も語らないではいられない気持ちです。この人の作品は一体どうしてこんなにもその内容について語りたくなる気分を刺激するのでしょう。そういう麻薬か阿片のようなものが確実にありますねほんとうに。
以前にもこの欄で書いたことがあるのですが、まず僕はハルキストではありません。その表現にたとえば他人のことを「あの人意識高いねー」と言う時のような、揶揄の目線を感じるのもありますが、生活にまで村上春樹の影響を受けているとかもないですし、村上春樹にノーベル文学賞を受賞してほしいとも全く思いません。この作家自身が「ハルキスト」と称される人たちについてたぶん何も語っていないと思うし。昔の歌手が自分のファンのことをワンフーと業界用語で呼んでいたぐらいの揶揄度合ではないかと勝手に思っています。
いきなり話がそれてしまいました。すみません。
さっき読み終わったばかりなのでその興奮を抑えるためにこんな話をしているのだと捉えてください。
- 著者
- 村上 春樹
- 出版日
でもまず僕自身の村上春樹読書史から始めます。
* * *
最初に触れたのは、名古屋大学一年生だった1983年夏のことでございました。当時、村上春樹の処女作『風の歌を聴け』と第二作『1973年のピンボール』はすでに講談社文庫に入っており、何となくカッコよさそうだなあと思ってこの2作を大学の生協で購入したのが最初でした。当時は、ポストモダンという流行語が出てきた頃で、浅田彰や中沢新一を読むことが知的ファッションになりつつあり、それまで難しいことなんかなんにも考えたことないのに、下宿に同級生と集まってREDとかNEWSとか安いウイスキーの水割りを飲みながら哲学論議を夜中までしていた頃の話です。
- 著者
- 村上 春樹
- 出版日
- 2004-09-15
- 著者
- 村上 春樹
- 出版日
- 2004-11-16
確かどちらも「僕」と年長の「鼠」という二人を核にした物語だったと思いますが、正直こういう小説を読んでいる自分というものに酔っているだけで今ひとつ何がいいのかわかっていませんでした。それでも当時の僕は軽過ぎる片岡義男とかは絶対読まないんだとなぜか決めていました。今では片岡さんもある意味我が道を行く渋い作家だと思っていますが。
しかし大学2年の時、第3作『羊をめぐる冒険』を読んで、僕はやられてしまったのです。前2作と同様「僕」が主人公ではあるのですが、それまでずっとストイックであったはずの「僕」が、北海道と言う明確な舞台で怒りを発散する場面があり、そのせいで、はあああっ!と突然鳥肌が立ってしまったのです。結果それまで僕が読んだ作品の中で『羊〜』が漱石の『こころ』を抜いて一位に躍り出たのでありました。僕と同様、この時村上春樹にはまった同級生の友人が、いきなり北海道に行ってしまってそのまま移住し大学を辞めてしまったなんてこともありました。
- 著者
- 村上 春樹
- 出版日
- 1982-10-13
しかしこの頃は当然まだハルキストなどと言うものは存在せず、この作家がカリスマ的になるのは1987年秋の『ノルウェイの森』まで待たねばなりません。
話を急いでしまいました。『羊〜』の次に出た4作目の長編が『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』でした。
まだ文学ジャンルというものがよく分かっていなかった僕は、あの繊細な村上春樹が作品のタイトルになぜ、ハードボイルド、などという言葉を使うのだろうと思い、何だか急に嫌になってしまいました。その頃の僕にとっての、ハードボイルドと言えば、北方謙三とか大藪春彦のような、男くさいちょっと体育会系みたいな印象があり、文弱意識の強い僕にとっては無理筋のタイトルだったのです。おまけにこの本はハードカバーが頑丈なピンクのブックケースに入っており、ああ、春樹が遠くへ行ってしまった、と思ったのです。
ちなみにこの、ああ、は今回の『街とその不確かな壁』の子易さんの口癖ではありませんよ。
それはそれとして、その後も大学生協の書店へ行くたびに、このピンクのブックケースがいつも目に入り、その度に「何だよハードボイルドって!」と思っていたのですが、ある時まるで何かの啓示でも受けたみたいに書店でピンクケースから抜いてその本の立ち読みを始め、ハードボイルドワンダーランド第一章の主人公の一人称が初めての「私」であることを知って、また、はあああっ!となり、すぐに買って600ページ以上の長編を一気読みすることになったのです。
- 著者
- 村上 春樹
- 出版日
- 2010-04-08
- 著者
- 村上 春樹
- 出版日
- 2010-04-08
物凄い小説でした。
これは『羊〜』を抜いて僕の人生No.1の小説になりました。そこからはずっと村上春樹新作が出る度、すぐ読むを繰り返して今に至るまで全部読んでいますが、『世界の終り〜』を凌駕することはなく、勝手に次点として『ねじまき鳥クロニクル』と『1Q84』がある、と言う感じです。
『世界の終り~』にあまりにもやられてしまった僕は、あの長編を結局3度読み返すこととなり、大学の教育心理のゼミで箱庭を作ることになった時も『世界の終り~』のあの壁のある街をイメージして作りました。このあたり今作のイエローサブマリン少年の地図作りと似ていなくもないなと思い、またちょっとはあああっ!となりました。
でもその後村上春樹が訳した海外文学なども読むになるようにつれて、そもそもこの人が好きなレイモンド・チャンドラーなどはハードボイルドそのものじゃないかと気づくようになり、だとすればもしかすると村上春樹はそもそも第1作めからハードボイルドだったんじゃないかと思うようになったのです。いや何とも格好の悪い話です。僕の読書人生は、こんな風に馬鹿が少しずつ牛歩で気づきを得ていくプロセスなのです。
* * *
ところで今回の新作のタイトルが『街とその不確かな壁』だと発表された時、春樹ファンたちは『街と、その不確かな壁』と言う中篇がかつて雑誌「文學界」に掲載されたもののこれだけが単行本化されていないと騒ぎ始めました。
ハルキストじゃない僕からしたらそんなもん知るか!でしたが、この前4月18日付の朝日新聞「天声人語」を読んでいたら、その著者は、1980年代前半にこの中篇『街と、その不確かな壁』が文芸誌に掲載されていて当時それを読んでおり、その後単行本にならないな、と思っていたと書いていました。一読、申し訳ないのですが、この人はきっと嘘をついていると思いました。そうでなければ記憶を改変しているのではないかと。そもそも文芸誌を読む、と言う行為が昔から関係者と書いている作家の知り合いや親戚以外ほとんどいないのではないかと言われていて、それでも作家とつき合うあるいは育てるために、出版社にとってはたとえ赤字でもやり続けていく意味があるものだと聞いたことがあるのですが、それは「文學界」も「すばる」も「群像」も「新潮」も同じじゃないかという気がしていて、当時村上春樹のよほどのファンでもなければ、この中篇を文芸誌を買って読み、増してそれが単行本化されていないと知っていることなどはまずあり得ないのではないかと思ったからです。今回のこのタイトルのちょっとした騒ぎについては、いわゆるハルキストたちが、後付けでデータをひっくり返して突き止めたことではないのか、との思いがあり、天声人語氏のようなふつうの読者がずっと気づいていた、と言うのはちょっと無理があるなと。ではなぜ人語氏がこんなことを書いたかと言うと、これは春樹ファンへのささやかなマウント取りだったのではないかと思うからです。
すみません。僕はとりわけマウント行為に敏感な人間でそういうことだけ気づいてしまうのです。天声人語氏は思うに僕と同程度の春樹読者であり、そこそこ読んだ記憶があるからそれも読んだはずだと考え、あの記述になったのではないかと想像しました。
文學界 昭和55年 9月号 村上春樹 『街と、その不確かな壁』 収録
また少し興奮してしまいました。でやっと今回の『街とその不確かな壁』について、村上春樹のそこそこ積極的な読者である僕の感想です。読んでいる最中からこれは大人にとっての一つの童話ではないかと僕は思いました。この作品の中で、ガルシア・マルケスの作品の一節が引かれ、それをマジックリアリズム(※文学や美術で、神話や幻想などの非現実的なできごとを緻密なリアリズムで表現する技法)だと表記するところがありますが、その言葉を借りれば、今回のこの小説こそマジックリアリズムなのではないかと思いました。この言葉を僕は使ったことがなかったのですが、確かにサイエンスフィクション(SF)とは似て非なる響きがあります。
何と言うのか、物凄く非科学的なことが起きているのに、それがだんだん読者にとってもしごく自明のことであり、何だかふつうにその世界観を共有してしまってその筋の運びが一体どんなことになってしまうのだろうとまるで自分事のように興奮しながら読み進んでしまう、と言うようなことでしょうか。
これは『世界の終りとハードボイルドワンダーランド』の時にも強く感じたことですが、「僕」や「私」の一人称文体がマジックリアリズムになることによって読んでいる自分自身が主人公と同化して、その童話の中を生きている錯覚を起こすとでも言うのでしょうか。童話と書いてもう10年以上前に読んだいしいしんじの『麦ふみクーツェ』と言う作品を急に思い出しました。内容はほとんど覚えていないのにえらい面白かった記憶だけが蘇ってきました。あれはほんと面白かった。
でも今回の『街とその不確かな壁』を単純に面白かった、などとは言いません。名うての書評家などなら、さすがに村上春樹もこの年齢になったから熟練の技術を持ってより充実した作品になっている、とでも言うのかもしれません。登場人物はいつもの村上作品と同様みなそれなりに達観している中で、それでもいかんともし難い言葉のやり取りの連続があることが、読む人を掻き立てていく作品とでも言いましょうか。
でもこれから読む人のためにこれぐらいにしておきます。
- 著者
- いしい しんじ
- 出版日
- 2005-07-28
* * *
ところで村上春樹についてジャーナルなことで僕が気になっていることを2つ。
一つは先ほどの単行本未収録の件と関連して、かつて朝日ジャーナルという雑誌の編集長が筑紫哲也だった頃、『若者たちの神々』という伝説的な筑紫との対談連載企画があり、これは単行本(ムック)の形で4巻になって出ているのですが、僕の記憶では村上春樹との対談回だけが未収録になっていたように思い、誰か事情をご存知の人がいたら教えて欲しいです。
それともう一つは、数年前、神保町の古本屋に村上春樹の直筆原稿が約100万円の値がついて出たことがありましたが、これについて確か月刊「文藝春秋」誌上で村上春樹自身が、これをマーケットに流したのは当時すでに故人となっていた“伝説の編集者”安原顯で、彼にはデビューの頃大変お世話になった人だしもう亡くなっている人なので言いたくはないけどやはり許すことはできない、と静かな怒りの文章を綴っていたと思うのですが、その後あの件はうやむやになってしまったのでしょうか。これも知っている人がいたら教えて欲しい。
でもそんな風に、適度な事件性みたいなものも持っていることが、村上春樹が伝説化されていく由縁なのかもしれません。きっと限定300部、100000円で売り出される予定の本人直筆サイン入り豪華本もすぐに売り切れて転売の対象とかになってしまいそうですね。実は僕も欲しいのですが。
info:ホンシェルジュTwitter
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