ドラマや映画などの制作に長年携わってきた読書家プロデューサー・藤原 努による、本を主軸としたカルチャーコラム。幅広い読書遍歴を樹形図のように辿って本を紹介しながら、自身の思うところを綴ります。 今回は小説家・平野啓一郎が著した『三島由紀夫論』をきっかけとして、三島由紀夫と太宰治の生き方について、そして社会的な性について思考を繰り広げます。
「太宰の持っていた性格的欠陥は、少なくともその半分が、冷水摩擦や器械体操や規則的な生活で治される筈だった」
これは三島由紀夫の『小説家の休暇』と言うエッセイ集の中に出てくる一文なのですが、いやなんか凄いですね。太宰治は三島由紀夫より16歳年上なのですが、太宰の死後にこれを書いていて、好き嫌いは別としてこの言い分についてはいろいろ考えさせられます。
- 著者
- 由紀夫, 三島
- 出版日
もし今三島が生きていて、太宰のことが嫌いでも、さすがにこう言う書き方はしないでしょうが、ほんの大枠として三島の一種のマッチョイズムみたいなものに触れたことがある人なら半ば苦笑を禁じ得ない表現なんじゃないかと思います。
冒頭の一文を知ったのは、千葉一幹と言う人の『失格でもいいじゃないの 太宰治の罪と愛』と言う本を読んだからで、この本自体面白かったのですが、それよりも何度も何度もこの一節が繰り返し引用されていて、この著者自身、よほど面白がっているんだな、と言うことが伝わってきました。
- 著者
- 千葉 一幹
- 出版日
ちなみに僕自身は、太宰も三島も読書家の平均レベルぐらいで読んではきていて、どちらのほうが好き、とかは特にありません。
でも三島が太宰についてこう言う表現をしたことについて、僕のすこぶる貧困な語彙であえて言うなら、ジェラシー&アンビバレンスがあった、と言うことだったのではないかと思います。
三島は、どう転んでも、太宰のような文章は書けないし、はっきり言って書きたくもないと思っていた。ほんと嫌い。なのにでもなぜか読んでしまう。実に腹立たしい。なんなんだあいつの文章。ものすごくざっくりしていて、評論家の人とかだったらそれこそ苦笑されそうですが、でもそういうところが三島の太宰観だったのではないか。
三島も死んで半世紀以上が経ちましたが、太宰も三島もいまだに多くの読者を持つ作家であり続けています。しかし僕のちょっとした偏見から言うと、太宰の読者の中にはある意味熱烈な、それこそ、萌え系の人たちが存在する(桜桃忌に三鷹までお参りに行く人がかなりいると言うような)一方、三島の読者は、純文学を愛し、美しい文体にある意味知的に酔う、誤解を恐れずに言えばインテリ的な人が多い気がするのです。
唐突ですが、僕はほぼ完全なヘテロセクシャル=異性愛者です。太宰もたぶん間違いなく異性愛者だし、三島が同性愛者であったこともかなり知られていることだと思います。
異性愛者である男性にとって、恋愛と性の対象は基本、女性と言うことになるわけですが、一般的に言えば私生活で女性にだらしなく、それが作品にも色濃く出ている太宰の場合、そこまでではないにせよいわゆるダメ男である僕などは、そもそも本能に近い部分で共感性があるところが多々あります。
しかし三島の作品は、そう言うわけにはいきません。たとえばなぜこのような小説を書いてしまうのか?と言うところで立ち止まってしまい、なかなか読み進めない、と言うようなことが起きる。僕は大学に入って受験勉強から開放された時、最初に手にしたのが三島の『仮面の告白』でした。自分なりに捻れた青春を送ってきたつもりの僕は、タイトルのカッコよさに惹かれて読み始めたのでしたが、この作品はそう易々と僕を受け入れてはくれませんでした。それでも『潮騒』や『午後の曳航』『美徳のよろめき』などを読む中で徐々に、あー三島由紀夫という人はこういう風にいろんな題材を書いて行く人なんだな、と当たり前のような感想を抱くようになったのですが、それでも代表作と言われる『金閣寺』にだけはなぜかどうしても手をつけることができませんでした。読書好きとして恥を忍んで言うと、実は去年59歳にして初めてこの本を読みました。この年にして初読だと割に抵抗なくスラスラと読めたのですが、太宰の作品を読んでいるとよく起きる感傷のようなものが、この読書では起きませんでした。
- 著者
- 三島 由紀夫
- 出版日
- 著者
- 三島 由紀夫
- 出版日
- 著者
- 三島 由紀夫
- 出版日
- 著者
- 三島 由紀夫
- 出版日
- 著者
- 三島 由紀夫
- 出版日
今さらですが、太宰派と三島派にあえて区別するなら、僕は前者なのかもしれません。
ここからは想像ですが、三島の小説は読者に深読みを要求している気がするのです。つまり読書を楽しみたい、と単純に考えている人には向かないのではないか。三島の45年の激烈な人生も考えるとそんな簡単に読み飛ばすこと自体が失礼になりそうとさえ思ってしまいます。そんなことを考えていたら、今や人気作家である平野啓一郎が『三島由紀夫論』なる大冊を上梓したことを知りました。
少し脱線しますが芥川賞を受賞した頃の平野氏の小説は、それこそ三島にでも影響を受けていたのか、その美文ぶりが鼻について読めなかったのですが、『マチネの終わりに』ぐらいから急激にポップな方に旋回し始めて、『「カッコいい」とは何か』『私とは何か「個人」から「分人」へ』など読み易くしかも売れそうな新書まで書き始めたので、今回の大冊も一気に面白く読み切れるかも、と思って購入したのですがーーー甘かったです。
- 著者
- 平野 啓一郎
- 出版日
- 著者
- 平野 啓一郎
- 出版日
- 2016-04-09
- 著者
- 平野 啓一郎
- 出版日
- 著者
- 平野 啓一郎
- 出版日
- 2012-09-14
氏にとって、三島由紀夫は腰を据えて論じなくてはならないライフワークのようなものだったのですね。第一章『「仮面の告白」論』、第二章『「金閣寺」論』まで読み進んで、平野氏の洞察がどんどん深みへと進んでいくのでとてもじゃないですがリーダブルではありませんでした。しかし、『「仮面の告白」論』の中で、氏は、三島のことを性の対象は同性であっても、恋愛の対象は女性である、というのを実践しようとしていたのではないかと論じていて、ここに僕は引っかかってしまいました。
経験則ではなくほとんど本能的な感覚でしかないのですが、恋愛感情と言うのは、性の志向性と分かち難く結びついているんじゃないか、と言うのが僕の考えでして、たとえば同性愛者の人が無理に異性愛を選んだとしても最終的には本能に基づいて同性愛に戻らないときつくてしょうがないんじゃないか。三島は結婚もしたし子どももいるわけですが、結局そのままではもう無理ってなったんじゃないかという感じがしていて、本人の中で恋愛と性が分離していた、などと言うような文学的な話ではないのではないか、と思ってしまうのです。
三島の太宰についての思いで言うと、異性愛を奔放に生きたとも言えるその姿勢に、自分では決してかなわぬ憧れのようなものさえ覚えたのではないか。しかし性欲の強さだけで言えばほんとうは自分のほうが強いだろうことに気づいていた三島は、冒頭のような言葉で自らに言い聞かせるように太宰を非難したんじゃないかと言う気がするのです。
身体的に不合格で戦争に行くことができなかった三島は、戦死した同世代男性にも嫉妬しコンプレックスを抱きました。そのようないくつものコンプレックスを突き詰め、自らの肉体を鍛える一方、天才的な美文で『豊饒の海』のような大作を書き、そのまま割腹自決にいたるのは、何だか一直線であるように僕には見えます。作家としての三島と政治的な志向の三島は分けて考えるべきだと言う見方があることは承知していますが、根源的にどうにもならない性の志向性を核としたコンプレックスの中でもがき苦しみながらの45年の人生をこの天才は生き切ったんじゃないかと思います。
そこから見ると愛人との心中を繰り返して最終的に玉川上水で死ぬ太宰などは、実にのどかでもあり、そこから狭い半径の中でああでもないこうでもないという情緒の中だけで生きたようにも見え、それがとても人間的でもあり、そちらの方に一般的人気の軍配は上がると言うことなのかもしれません。
今回はいつになく性のことについて自分なりに真剣に考えてしまいました。LGBTQについての議論が絶えない昨今ではありますが、このテーマがみんなが納得いくような形である意味解決する時は来ないんじゃないかと言う気が個人的にしています。悲観的と言うのではなく、議論があり続けることのほうが大事なんじゃないかという思いがありまして。
- 著者
- 朝井 リョウ
- 出版日
2年前、朝井リョウが『正欲』と言う小説を書いて今度映画化もされるようですが、この本を読んだ時、ああこの作家はよくやってくれたな、と思いました。多様な性に対する差別を失くそう、と言うのがLGBTQの基本思想だと思いますが、性の対象がそもそも人ではない、と言う人ももちろんいて、そのような修正のきかない性癖を持った人は、その視野からこぼれ落ちているのだと言うことをこの小説は示唆していました。この作品の中で、小さな子どもたちが水遊びをしている場面を撮影している人間が、流れる水に対して性的興奮を得る性癖なのに、児童性愛者じゃないのかと疑われる場面があります。しかしここで大事だなと思ったのは、この場面を見た人に勘違いされたことではなく、児童性愛者はその性癖だけですでに人間として許されないとふつうの人はやっぱり考えているんだなと言うことでした。性的多様性で差別しない、と言うことであれば、児童性愛の人もほんとうは差別してはならないわけで、その差別は犯罪抑止の観点から致し方ないとなれば、それはまた別の議論をしなくてはならないことなのだと思います。
そんなこと言ったって児童性愛は気持ち悪いし、とかなりそうですが、今だって同性愛をそもそも気持ち悪いと思っている人はたくさんいて、それはほんとうは同じ地平の話なんだと思います。
そう言う僕は、ほぼ完全に異性愛者と書きましたが、30年近く前、仕事で連れて行ってもらったお店で、ホステス的な男性のことを一瞬好きになってしまいそうになったことがあります。まだタレントデビューする前のはるな愛さんでした。あの時の彼女(彼)は、それこそ女性以上に女性的な感じがして、僕の中の性が混乱しそうになった覚えがあります。まあ2、3日ですぐに目が覚めて異性愛者に戻りましたけれども。
info:ホンシェルジュTwitter
comment:#ダメ業界人の戯れ言
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