ドイツのユダヤ人家庭に生まれたマルクーゼは、第一次世界大戦を経験したあと、マルクス主義に傾倒していきます。 ナチス政権からアメリカに亡命し、代表作を執筆する一方で学生運動の精神的指導者となりました。 旧左翼とは異なる新左翼の理論的指導者として影響力を発揮したマルクーゼの思想は、1960年代の学生運動に大きなインパクトを与えました。 今回の記事では、マルクーゼが展開した哲学を具体的に見ていこうと思います。

フロイトの精神分析学を取り入れたマルクーゼは、文明とは人間の欲望を抑圧する装置であると考えました。
フロイトによれば、人間には無意識の欲望が存在するものの、文明社会を維持するためにはこれを抑制する必要があるとしています。文化や文明は人間の欲望を抑えることで発展してきたため、文明社会では本来の欲望は実現されず、人間は幸福になれないというのです。
このフロイトの文明観をマルクーゼはほぼ全面的に取り入れました。
「文明と欲望の抑圧は表裏一体の関係にある」という考え方は、マルクーゼの理論の根幹を成すものとなったのです。
マルクーゼは「労働は人間の性的欲求を抑制するための手段」と考えました。
本来の人間は労働を避けて快楽を追求する傾向がありますが、文明社会を維持していくために欲求を制御する必要があります。そこで文明は性的欲求を労働へと向かわせることで欲求を抑制し、人々を勤労へと駆り立ててきました。
労働に励むことで人は欲求をコントロールでき、文明社会の秩序が保たれてきたのです。
このようにマルクーゼは、労働が文明にとって重要な意味を持つ欲求抑制の手段であることを指摘しました。
「過去の貧しい社会では、ある程度の欲望抑制が必要で労働意欲の向上につながっていた」と、マルクーゼは主張します。
しかし今日の先進国では生産力が飛躍的に向上し、長時間労働を強いる必要はありません。科学技術によって生産性が高まった現在、過去のような厳しい欲望抑制は「過剰抑圧」となっています。生産力の発達した社会であれば、もはやこれほどの抑圧は不要なのです。
マルクーゼは現代社会における「過剰抑圧」を批判し、現代社会においてはもはや不要であるとしました。「過剰抑圧」を取り除けば、人間の本来の欲望が解放されると述べたのです。
そして1960年代の「対抗文化運動」こそが、この「過剰抑圧」に抵抗する人間の欲望解放を目指す運動であると位置づけました。
マルクーゼは資本主義が不要な抑圧を廃止せず、欲望を束縛し続けていることを批判します。「過剰抑圧」の撤廃と人間の欲望の解放を訴え続けたのです。
欲望解放への志向性が、マルクーゼによる資本主義批判の中心を形成していたと言えるでしょう。
マルクーゼ同様、フロイトも性行為の性器中心主義を問題視していました。フロイトの精神分析理論では、人間の性的衝動は性器の機能にだけ限定されるものではないとされます。
性的快感は性器の刺激に依存しているわけではなく、むしろ心理的な要因が大きな役割を果たしているのです。したがって、性行為を単に生殖の手段とみなし、性器の機能に還元してしまう性器中心主義は、人間の性の本質を見誤っているとフロイトは批判しました。
このフロイトの批判を継承する形で、マルクーゼも性器中心主義への批判的視点を展開しています。
マルクーゼは「宗教と社会による性への抑圧」について批判を展開しています。
まず宗教の側面を見ていきましょう。キリスト教を始めとする多くの宗教が、性行為を動物的な衝動と見なし、罪深いものだと考えてきました。
宗教は人間を精神的な存在へと昇華させることを目指しているため、この動物的な性への欲求は抑制すべき対象となりました。禁欲が美徳とされ、性行為は汚らわしいとされて抑圧されてきたのです。
次に社会の側面です。性行為を結婚制度の中に限定することで社会秩序が保たれてきました。婚外の性行為とりわけ同性愛はタブーとされ、快楽目的の性行為も好ましくないとされてきました。こうした性への社会的制限が、父権的秩序(男性中心の社会秩序)を維持するのに都合が良かった、とマルクーゼは指摘しているのです。
このようにマルクーゼは、宗教と社会の共謀的な性への抑圧的メカニズムを批判的に分析しています。
そして「性からの解放」と「権力からの解放」を結び付ける理論を展開していきます。
「社会が性的欲求を規制することで個人は内面の自由を奪われ、権力への服従を強いられる」とマルクーゼは考えました。社会が共有する性に対する規範やタブーは、家父長制を基盤とした性秩序と深く関係しています。
父親(男性)が家庭内における性を支配することが許されてきたため、社会の性規範は男性中心の価値観と一致していました。
この父権的な権力による家庭内での性コントロールが、個人の性的自由を奪い、権力への従属を生む結果となったのです。個人による性的選択の自由が制限されることで、個人は権力に服従せざるを得なくなり自由が失われていった、とマルクーゼは考えました。
そこでマルクーゼは、性的解放こそが権力の打破につながると訴えたのです。
性的タブーからの解放は個人の内面の自由を取り戻すだけでなく、また同時に個人の尊厳を取り戻し、権力への服従からの解放をもたらすはずである。
このようにマルクーゼは、性の解放が個人だけでなく、権力からの解放につながる可能性を提唱します。
「性と政治の解放は表裏一体である」という部分がマルクーゼの斬新な着眼点でした。
上記のようにマルクーゼは、性を生殖の目的から解放すべきだと唱えました。しかし「解放された性が具体的にどのような姿になるのか」については不明確なままでした。性行為を性器中心に限定することへの批判はしているものの、解放された性生活がいかなるものになるのかについては明言を避けています。
生殖以外の目的での性行為が中心になると想定されますが、同性愛などへの具体的な言及もないなど、あいまいな印象が強く残ったのです。
「性の解放が権力からの自由にもつながる」という方向性に関しては大きな意義がありましたが、マルクーゼの性解放論には具体性がないという点で限界がありました。
1960年代あたりからマルクーゼが唱えた「性の解放と権力の解放」の理論は、当時としては斬新で革新的な主張でした。しかし時代の進展とともに性的なタブーや道徳観も大きく変わり、マルクーゼの理論は少しずつ時代遅れの感が拭えなくなってきました。
たとえば同性愛に関して、マルクーゼの時代には強固なタブーとされていましたが、今日ではLGBTなど性的マイノリティも社会的に広く認知されるようになりました。
その一方「性的自認をどこまで社会的に認めるべきか」など、困難な性問題に現代社会は直面しており、完全な性の解放を目指すこと自体が現実的ではありません。
さらに性的解放と政治的解放が革命運動として連動するとの着眼点も、もはや現代社会の実情にそぐわないなっています。
マルクーゼの性解放論は形を変えながら、部分的に受け継がれている面もありますが、理論の核心部分が現代社会の文脈から大きく乖離してしまった結果、有効性を失っている面があります。
性と政治の新たな関係を模索することが、これからの課題なのかもしれません。
先進資本主義国では、高度経済成長によって大衆消費社会に発展。テレビや自動車などの耐久消費財が普及した結果、一般大衆の生活水準は向上していきました。
物質的な豊かさを享受できるようになった大衆は、既存の資本主義体制に同化・統合されていき、体制への反発や不満は失われていきました。かつて革命の担い手と目されていた工場労働者も生活水準の向上に伴い、革命への意欲を失っていったのです。
マルクーゼが批判的に捉えた性的規範や家父長制的な性秩序は、1960年代以降のフェミニズムや性的解放の流れの中で大きく緩和されていきました。
同性愛者に対する社会の寛容さは著しく向上し、LGBT当事者への社会的支援も整いつつあります。また避妊薬の発明や人工授精技術の発達により、性行為と生殖の関係が切り離され、個人による性的自由がかつてないほどに広がりを見せています。
このような変化は、マルクーゼが1960年代に想定していた以上のものでした。
マルクーゼの描いた「性の完全解放」への理想は、自由と多様性を認める現代社会の発展に取り残される形となり、彼が前提とする理論そのものが揺らぎ始めたのです。
大衆が体制に取り込まれる中で、マルクーゼは社会のアウトサイダー、すなわちホームレスやヒッピー、移民など、社会の周辺に追いやられた人々に期待を寄せます。さらに第三世界の農民に対して新たな革命の担い手として期待をかけました。
しかし、アウトサイダーに対する過剰な期待は非現実的なものでした。第三世界の農民も資本主義的発展を遂げ、革命の担い手とはなり得なかったのです。社会の周辺に追いやられた人々が体制変革の原動力となる可能性は極めて乏しく、マルクーゼの期待は的外れに終わります。
大衆が体制(権力)に取り込まれ、労働者が急進性を失う中で、新左翼の理論的命脈は次第に絶たれていったと言えるでしょう。
マルクーゼ『初期マルクス研究 『経済学=哲学手稿』における疎外論』(良知力、池田優三訳)未来社
- 著者
- ["ヘルバート マルクーゼ", "力, 良知", "優三, 池田"]
- 出版日
本書は1932年に発表されたマルクーゼの代表作で、マルクスの初期の著作『経済学・哲学手稿』(1844年)を詳細に分析し、マルクスの「疎外」概念を世に知らしめた極めて重要な研究書です。マルクーゼは、マルクスの疎外論を人間的存在の本質的な側面として位置づけ、資本主義社会における人間の自由と幸福の実現を目指したマルクスの人間観を浮き彫りにしました。本書はマルクス再評価に大きな影響を与え、マルクーゼ自身の「脱疎外」の思想の基盤ともなった記念碑的研究です。疎外論とマルクス理解の古典と言えるでしょう。
ナンシー・フレイザー(2023)『資本主義は私たちをなぜ幸せにしないのか』(江口泰子訳)筑摩書房
- 著者
- ["ナンシー・フレイザー", "江口 泰子"]
- 出版日
著者であるナンシー・フレイザーはアメリカの代表的な政治哲学者です。彼女はフランクフルト学派の理論を現代の視点から批判的に発展・継承することで知られています。なぜ経済成長が私たちの幸福につながらないのか。フレイザー教授は資本主義の構造そのものに求めます。資本主義は成長のために私たちの生活基盤さえ食い尽くす「共喰い資本主義」なのです。格差の拡大や自然破壊の問題も、資本主義の論理が引き起こす必然的な結果であり「グリーン資本主義」や表面的な改革では限界があると断じます。資本主義の持続可能性自体が揺らいでいる今、フレイザー教授が提起するのは資本主義そのものの根底からの拒絶です。破局への道を辿る現代社会の切迫した問題を看過することなく描写し、資本主義の弊害を糾弾するとともに、新しい社会を想起させる思想的ヒントが詰まった1冊です。
井関正久(2016)『戦後ドイツの抗議運動「成熟した市民社会」への模索』岩波書店
- 著者
- 井関 正久
- 出版日
1960〜70年代、マルクーゼの思想の影響を強く受けた学生運動が世界的に高揚します。ドイツの新左翼もその一つで、既成社会への批判と抗議の運動を繰り広げます。再軍備反対から学生運動、そして環境運動へとつながるドイツ新左翼の足跡を、本書は丹念にたどっています。マルクーゼの提唱した「脱政治化」への批判から始まり、対話と政策化への転換まで、新左翼の変遷が描かれます。アドルノやハーバーマスなど、フランクフルト学派内の思想的対立が運動にも反映されたこと、新左翼が直面した限界と可能性。日本の新左翼運動との比較もあり、興味深い内容になっています。