辻仁成を知っていますか?バンドマンとして彼を知っている人もいるかもしれませんが、彼の小説を読んでみてください。そこには、甘ったるい嘘と、繊細な言葉と、苛烈な性意識が広がっています。純文学的作品から大衆文学的作品まで、幅広くご紹介。
1959年生まれの辻仁成をドラマ『愛をください』で知った人は多いのではないでしょうか。感傷的で、抒情的で、詩的な作品ばかりなのでは? とお思いになる方もいるかもしれませんが、彼はきわめて言葉に意識的であり、「言葉のウソ」という側面に敏感です。
言葉の特性は、「ないものをある」ようにすることだと言ってしまってもよいとするなら、辻仁成は、その魅惑的な言葉の魅力を極限まで導き出す作家だといえます。物語はいつも嘘くさく、そんな話あるはずがないよ、と読者に思わせつつ、でもそのぎりぎりのところで、センチメンタルな空想が裏切られる感覚。辻仁成には、突き抜けたウソの賛美と、あきらめに似た哀愁があります。
ウェルメイドな作品群もその少し先には、言葉の嘘、甘ったるいうさんくささ、妄想の果てにある言葉と物語の共犯関係が透けて見えています。ちょっぴりくさい、詐欺師的な彼の言葉をみなさんも堪能してみませんか?
手紙は、だれが書いたか、実は特定できません。高度情報社会の現代で、踊る文字は匿名性を帯びていますが、手紙だって、実際にその文字を書いた瞬間を見ていることなど不可能なのだから、誰が書いたのかわからないのではないでしょうか。
では、逆に誰が書いたかわからない文字というものを、最善の方法で他者に伝えた場合、何が起こるでしょうか。そこには、うさんくささを残しながら、甘ったるい善がめまぐるしく羅列された、幸せな文字がならぶはず。手紙のぬくもりと、言葉の嘘を同時に混ぜ合わせた辻仁成は、やはり天才です。
- 著者
- 辻 仁成
- 出版日
「それにしても私のところにやって来る人たちはみんな疲れきっていたし、悩んでいたし、今にも死にそうな顔をしている人がほとんどであった。まるで人生相談員のよう。」
(『代筆屋』より引用)
主人公は、いつも喫茶店「レオナルド」にいます。「先生」と呼ばれる彼は、小説家なのですが、生計を稼ぐ手段は小説ではありません。彼は、依頼人の要望に応じた手紙を書く、代筆屋です。代筆を依頼する人は様々です。好きな人にラブレターを書いてほしい、元彼が忘れられないのでよりをもどす手紙を書いてほしい、遺書を書いてほしい……。しかし彼が行うのは、手紙を書くだけではありません。
エピソードを一つ。ある日、米寿を迎えた老婆がやってきて、別れのための手紙を書いてほしいと依頼してきます。先生は話を聞きますが、なぜこの年で離婚しなければならないのか、一向にわかりません。どうやら老婆にはつもりにつもった不満があるようです。しかし、いくら老婆の話を聞けども、離婚にいたるほどの原因が先生にはわからないのです。そこで先生は提案します。私が代筆を引き受けるためには、あなたが今まで受けてきた仕打ちをすべて聞く必要があります。なぜなら、あなたの気持ちをしっかりわからないまま離婚の手紙などかけないからです。毎日ここにきて、私に今までの六十五年間の結婚生活をすべてお話しください――。
そして、積年の思い出を話し終えた老婆は、おもむろに離婚の話を取りやめてもいいのではないかと考え始め、依頼を取り消します。そこで先生は、実はこんな手紙を書きましたと老婆に手渡す手紙を用意していました。
おっと、ここまで。
前略
ここで、唐突にあらすじの説明を終えることをご了承ください。先生の手紙の内容を、ぜひ本書を手に取って読んでみてください。最高ですから。
草々
函館は、不思議な街です。まるで宇宙人がそこに円盤を埋めたのではないかと思われるような函館山がそびえたち、函館山を海沿いに少し進めば函館造船所があり、そこで男たちが日夜巨大建造物の建築にいそしんでいます。反対側にぐるっと回ると、そこは函館刑務所です。確か娑婆にはすぐ、競馬場・競輪場があります。海は時化れば荒れ、天気が良ければすっきりと向こう岸に津軽半島が見えて――。
函館は北海道の端。異国情緒あふれるその町は、どこにでもいけそうで、どこにもいけない。辻仁成の芥川賞受賞作『海峡の光』は、何にでもなれそうで、何もできない主人公斉藤の話です。
- 著者
- 辻 仁成
- 出版日
- 2000-02-29
主人公斉藤は、函館の旅客船で働いていましたが、押し迫る不況の中、安定をとって刑務官の道を選びます。彼は、屈強な男で、ラグビーで体を鍛えたラガーマンです。人一倍男らしさを追求した男は、自分の刑務官の仕事を誇りに思い、精神よりも肉体をたくましくした自分を認めていますがいじめられていた過去があります。
花井という人物は青春時代に斉藤をいじめていた人物です。花井は優等生で、いつもクラスのリーダー格。彼の発言は、場を支配し、自ら手を下すことなく、民衆を煽動します。
「多数決だから仕方ないな。全員が君を有罪だといってるんだから弁護のしようもない、僕は君が罪人となった今も、君の中で頑張ろうとする心が目覚めることを期待するよ。」
(『海峡の光』より引用)
クラス内での彼の政治に酔いしれる民衆は、斉藤をいじめることでより結束力を強めていきます。花井にいじめれて、強くなろうと刑務官になった今、犯罪者としてある人物が送還されます。そう、花井がやってくるのです。
今は俺のほうが立場は上だ。何もおそれることはない。そう思う斉藤は、抑圧したものの回帰とどう向き合うのか。ホモソーシャルな欲望渦巻く、マッチョな男たちの蜜月を描いた『海峡の光』は芥川賞受賞にふさわしい、純文学作品です。
辻仁成の描く「白仏」とは、一種のイメージといってもいいかもしれません。それはマンダラ(密教の世界を説明するイメージ)でもよいし、グレートマザー(心理学者ユングが人間の無意識に潜むイメージを説明したもの)でもよいでしょう。辻仁成は、人間がとらわれる大きな元型(プロトタイプ)として、主人公の脳裏にいつも現れるイメージを「白仏」と称しました。ユングが元型論を述べた後、フロイトは俗流精神分析から決別した科学的な心の学問を樹立すべく、夢解釈、無意識論を発表しますが、人間が通過儀礼を経て、成長する過程を彼はエディプス・コンプレックスと呼んでいます。
子どもは、はじめ、母と一体化しています。そこでは子どもは万能です。しかし、母を奪う人間がいます。それは「父の名」を持ち、大きな男根を持っている。その存在を子供は畏怖し、一度想像的に去勢される。その去勢の傷が、母親から子供を引き離し、自律した人間を創造します。では、去勢に失敗した人間はどうなるでしょうか?
- 著者
- 辻 仁成
- 出版日
- 2015-08-20
主人公の稔は、いつまでも忘れられない人がいます。その人は、かつてこのようなことを言いました。
「うちが結婚ばしても、ずっとうちのこつば思っとって。何が起こっても、ずっとずっと、一生うちんこつば好いとってね。」
(『白仏』より引用)
少年稔の童貞をうばった、おとわは上記の言葉を述べ、彼をいつまでも呪縛し続けます。ファムファタル(魔性の女)の形象を物語内で付与されている彼女は、稔と同郷で、幼少時代よく一緒に遊んだお姉さんですが、幼さとは正反対に、大人の肉体をまとっています。軍人とおとわが納屋で性交する場面を覗き見た稔は、それ以来おとわを嫌悪しますが、どこまでもとらわれてしまうのです。覗き見は、一種の去勢の失敗です。なぜなら視点の万能さを手に入れることと同義なのですから。万能さを断念する機会を彼は失ってしまったのです。
自分の生=性を規定したおとわは、いつまでも彼に亡霊のようにまとわりつくでしょう。稔の生は白仏とともにどのように生きられていくのか。うさんくさい白仏は彼を救うのでしょうか。芥川賞受賞後第一作の『白仏』は、現代のビルドゥングス・ロマン(成長小説)として読み継がれる名作です。
“愛をください、wowow 愛をください zoo”
このフレーズがいまだに耳に残る私は、10代のころに菅野美穂主演のドラマを見ていました。主人公の彼女は感傷的で、助けてほしい女の子の象徴だったように思います。
いつの時代にも、愛に飢えた女性たちがいるでしょう。それは時代のイコン(偶像)かもしれません。今でもテレビをつければ、愛されたいがために、叫び声をあげている女性が、おもしろがられ、テレビの前で消費されています。
いつでも女性は消費の対象です。大正モダンの女性が、百貨店の広告で明確な消費の対象に選ばれて以来、女性は欲望され続けています。フランスの精神分析の大家、ジャック・ラカンは「女性は存在しない」といいました。そうです、女性は存在しない。
では、女性はどうやって抵抗するのでしょうか。「愛をください」と叫ぶしかないのでしょうか?
- 著者
- 辻 仁成
- 出版日
- 2009-06-11
「たとえだけど、こういうのはどうでしょう。一つの完璧なルールを作ってみるのです。絶対にお互い、会わないというルール。馬鹿げたルールかもしれないけど、僕は面白いと思うな。」
(『愛をください』より引用)
李理香と基次郎は文通を始めます。李理香は施設出身で幼いころに両親に捨てられます。リストカットをする彼女のもとに届いた基次郎の唐突な手紙。こうして彼らの物語は始まります。
彼らは絶対に顔を合わせてはいけません。近況を報告し、悩みを相談します。長い文通もあれば、絵葉書程度のやりとりもあります。顔も知らない、会ったこともない人との文通は奇妙です。つかみどころがない……。
よく考えてみれば、現代では、迷惑メールしかり、インターネットには嘘八百の文字列が私たちをあざ笑っているのではなかったでしょうか。そう、基次郎から送られてくる手紙に真実の保証などないのでは?
しかし、です。一生懸命書いている私も、本当のことを書けるものなのでしょう。李理香はリストカットをし、勤務先の保育所の男性と不倫をしてストーカー行為をされたあげく、再会した実の父親にコーヒーやソースを頭からぶっかけます。そんな日々の本当のことを書こうと思えば思うほど、文章は紙面から滑り落ち、するすると逃れ去っていくかのようです。なぜなら彼女の本質的な悩みは、「女性が存在しない」ことだからではないでしょうか。
嘘に気付き始めた彼女は、禁忌を犯します。基次郎は誰か。その先に見える、本当の自分、本当の基次郎は?手紙をめぐるやさしい嘘と、裏切り続ける文字を愛する作家、辻仁成の世界が凝縮した作品です。
シックスセンス=第六感は大人になるとなくしてしまう、死者が見える能力。映画『シックス・センス』の監督M・ナイト・シャマランは、その能力を、大人を成仏させる能力として描き出しました。ブルース・ウィリスは、自分は分別もあり子どもの精神をカウンセリングする能力を持っている、卓越した存在として自己規定していました。私が子どもを導かなくてはいけない、このあわれな子どもを……。だが、逆に子どもの第六感は、大人の凝り固まった五感を癒すでしょう。
本書『ミラクル』は映画『シックスセンス』のオスメント少年と同じように、死者が見える子どもが主人公。では、彼が癒すものは何か?
- 著者
- 辻 仁成
- 出版日
- 1997-07-30
アルはごく幸せな夫婦のもとに生まれた男の子です。父親は、鍵盤引きとして日々仕事に精を出し、素敵な奥さんにも恵まれます。アルを授かった二人は、幸せの絶頂でした。しかし、メロドラマよろしく、幸せは長く続きません。出産と同時に母親はなくなってしまうから。
父親は憔悴しきっていました。鍵盤もろくに弾けません。ショットバーでの演奏も間違うことが多くなってしまいます。「ねぇ、僕のママはいつ帰ってくるの?」 そう尋ねるアルに父親は、嘘をつきます。もうすぐさ、と。彼はママにもアルにも追いつめられることになるのです。
アルは母親を知りません。知りたくても知ることができないのです。ママとは「許してくれる」存在だと聞いた彼は、道ゆく人に声をかけ、「僕を許してくれる?」と聞いて回ります。怪訝な顔で彼を眺める無数の「誰かの母親」たちは、当然彼をけむたがります。許してもらうために、盗みを働くアル。でも誰も許してくれない。どこにもママはいない。
アルは母親に会いたくてたまりません。そんなアルは、やがて幽霊が見えるようになります。しかも話もできる。幽霊たちはこういいます。「君が望めば私達はいつも君に逢える。逆に、君が必要ないと思えば、私たちは消える。」 彼が見えているものは嘘でしょうか?
そんなアルにクリスマスの夜に起きた奇跡(ミラクル)。大人の嘘と、子どもの奇跡。あなたが心をえぐられるのはどっちでしょうか?
辻仁成の繊細な物語を体験してもらえましたでしょうか。言葉が嘘であること、人間の性愛が簡単に翻弄されていくさまは、言葉だけがなしえるうさんくさいゲームです。みなさんもぜひ、ご一読してみてはいかが?