「こちらあみ子」は主人公・寺田あみ子視点の三人称で幕を開けます。
小学5年生のあみ子は独自の感性を持った、少々風変わりな子として知られていました。学校では友達と仲良くできず、担任に叱られてばかりです。兄の孝太はそんなあみ子と一緒に登下校し、彼女が考えた遊びにも付き合ってくれます。
あみ子には母がいません。その代わりに地元の児童向け書道教室を営む継母・さゆりがいました。さゆりの書道教室の生徒・鷲尾佳範はとても字が綺麗で、あみ子にも礼儀正しく振る舞いました。そんなのり君に好意を持ったあみ子は、書道教室の様子をこっそり覗くものの、さゆりにばれるたび注意が飛びます。
しかしさゆりはさゆりなりに周囲から浮いてるあみ子を気にかけ、下校に付き添ってくれるようのり君にお願いするなど、親心を見せていました。
あみ子の宝物は十歳の誕生日に父親からもらったトランシーバーでした。
ある時さゆりの妊娠が発覚。あみ子は弟ができると喜びます。弟が生まれてきたらトランシーバーの片方を貸し、一緒に遊ぼうと期待を膨らませるあみ子でしたが、臨月を待たずさゆりは流産してしまいました。
以来さゆりはすっかり塞ぎこみ、趣味の料理や書道にも関心を失ってしまいました。
あみ子はさゆりを元気付けるため、アイスの棒に「弟のおはか」と書いてプランターにさします。弟のお墓を作ってあげれば、さゆりが喜ぶと思ったのです。されどこの行動は裏目に出、「弟のおはか」を見たさゆりは泣き崩れ、以降あみ子を避けるように。
さゆりが妊娠していたのは女の子でしたが、あみ子は何故か弟だと思い込んでいたのです。
やがてあみ子は公立中学に上がります。この頃には書道教室の生徒は激減していたものの、のり君だけは変わらず通い続けていました。
ですが非行に走った孝太が月謝を盗み、書道教室は閉鎖に追い込まれます。のり君と接点がなくなったあみ子は、前にも増して身嗜みを気にせず、不潔なぼさぼさ頭で学校へ行き始めます。
案の定クラスで孤立するあみ子に隣の席の男子だけがたびたび話しかけ、ちょっかいをかけてきました。女生徒数人にトイレに呼び出された時は、孝太の悪評に怯え、いじめっ子たちが逃げていきました。
保健室登校の常連になったあみ子は、勉強のストレスでお腹を壊し運ばれてきたのり君と、久しぶりに顔を合わせます。
校医が席を外した隙を見て、あみ子はのり君に告白しました。のり君は嫌悪の表情を浮かべ、あみ子の顔面を殴ります。以前食べたビスケットが、あみ子が口に含んで湿らせたものだと判明したのも無関係ではありません。
のり君に殴られ歯を数本折ったあみ子は、それでも彼を庇い、車で迎えに来た父親に「転んだ」と嘘を吐きます。
その後あみ子は保健室登校を打ち切り、さゆりは心療内科に通い、兄は家を避け始めます。父親はあみ子を祖母に預け、さゆりの故郷へ引っ越す決断を下しました。
中学の卒業式に出席したあみ子は、廊下の壁に張り出された習字を眺め、大好きな「鷲尾佳範」(わしおよしのり)君の名前を胸に刻むのでした。
- 著者
- 今村 夏子
- 出版日
- 2014-06-10
「こちらあみ子」は作者の生まれ故郷である広島を舞台にしています。作者の今村夏子は2010年に「あたらしい娘」で第26回太宰治賞を受賞しデビュー、本作はのちに「こちらあみ子」にタイトルを改め短編集に収録されます。
2022年には森井勇佑監督により映画化されました。
今村夏子の真骨頂は不穏な日常描写にこそあります。
あひる目当ての子供が集まる民家の話「あひる」は、大人の好意を搾取する子供とあひるの替え玉まで用意し子供に媚びる大人、双方の欺瞞とすれ違いを描いてモヤモヤをかきたてました。
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今村夏子のおすすめ本5選!「芥川賞」を受賞した大注目作家!
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- 著者
- 今村 夏子
- 出版日
- 2019-01-24
- 著者
- 今村 夏子
- 出版日
新興宗教に依存する両親と中学生の娘の一家を描いた「星の子」も映画化されています。
- 著者
- 今村夏子
- 出版日
- 2019-12-06
「こちらあみ子」は「少し風変わりな彼女のあまりに純粋な行動が、家族や同級生など周囲の人たちを否応なく変えていく過程を鮮やかに描いた」と要約されています。
これはダブルミーニングで、事実は少々異なります。上記の表現からはポジティブな変化を感じ取りますが、実際は悪い方への変化。さゆりは流産を境に精神を病んで兄は非行に走り、父親は理解できない娘を持て余します。
本作を語る上で外せないのは、あみ子がまず間違いなく発達障害である点。作中ではその表現は一切用いられず、あみ子の奇行の理由は濁されているものの、見る人が見れば早い段階でわかります。
あみ子が発達障害な事実は物語の本質と関係ない、とも言いきれません。本作は発達障害の娘と、彼女を愛する事に挫折した、カサンドラ症候群の継母の物語であるからです。
大前提として、さゆりや孝太が最初から悪い人間だったわけではありません。あみ子と初対面時のさゆりは、あみ子の好きなものを熱心にメモし、良き母親になろうと努力しました。
のみならず、何かと危なっかしいあみ子と一緒に下校してくれるようのり君に頼んでいます。孝太も妹の面倒をよく見、父は誕生日にトランシーバーを買い与えました。あみ子は愛されていたのです。
一方で周囲がどれほど理解に努めても、当事者の問題行動が改善されねばフォローに限度があります。
尻拭いを一手に引き受ける家族はストレスが募り、やがて限界を迎えます。
発達障害は脳機能の発達に関係する障害であり、対人関係の構築と維持がとても苦手。多くの場合学習障害や注意欠陥多動性障害も併発し、周囲には「自分勝手」「協調性がない」と見なされがちです。
授業中に突然唄い出し机に絵を描き、極め付けに素手でカレーを食べるあみ子の行動は、問題児の誹りを免れません。
「こちらあみ子」の辛い所は、悪い人間がほぼ登場しない筋立て。
のちにあみ子を無視する人々も当初は親切に振る舞い、あるいは穏便に接し、良好な関係を築こうと歩み寄っていたのです。
あみ子の家庭が崩壊したのは、他の家族があみ子のフォローに振り回される生活に疲れたから。
両親と兄がカサンドラ症候群を患っていたのだとしたら、平和な日常を壊す元凶を、生活圏内から遠ざけたくなるのは無理からぬこと。
あみ子に悪意がないのは十分わかった上で、悪意がないからこそより始末に負えない事も世の中には存在します。
カサンドラ症候群とはアスペルガー症候群(ASD)の家族とコミュニケーションが成立せず、努力が報われない徒労感や無力感から関係性が悪化し、どんどん孤立していく症例。
「こちらあみ子」はASDのあみ子とカサンドラ症候群の家族の断絶を描いた、ディスコミュニケーション小説だったのです。
- 著者
- ["アゴ山", "鳥頭ゆば"]
- 出版日
- 著者
- えどがわ 理恵
- 出版日
- 著者
- 宮尾 益知
- 出版日
- 著者
- Happy Navigator 那美
- 出版日
発達障害の話題に終始するのは、「こちらあみ子」の読み心地を損なうことになるかもしれません。「こちらあみ子」はあみ子視点の日常を描いた話で、彼女の目を通した世界が魅力的なのは否定しがたいです。
ラスト、中学を卒業したあみ子は祖母の家に預けられます。早い話が家族に捨てられてしまったのです。両親と兄はさゆりの故郷に引っ越し、音信不通になります。
後半はややネグレクト気味だったとはいえ、父は父なりに、継母は継母なりに、あみ子を愛そうとした事実だけは訴えたいです。さゆりがあみ子とピクニックにでかけるシーンは確かな親子の絆を感じ、心が温かくなりました。
だからこそ「弟のおはか事件」が決定打となり、完全に心が離れてしまったのが哀しいです。
さゆりが妊娠していたのはあみ子の妹、女の子でした。あみ子自身に全く悪気はないにせよ、「トランシーバーごっこがしたい」→「それなら弟のほうがいい」と連想し、さゆりのお腹の子は男の子だと決め付けていたのです。
流産直後でただでさえ情緒不安定なさゆりにしてみれば、「きょうだいの性別さえ興味を持たず、知らずにいた継子」に愛情を持てるわけがありません。金魚のおはかのように弟(=妹)のおはかを手作りし、わざわざ見せ付ける発想に至っては、当て擦りとしか思えないのではないでしょうか。
善意から出たあみ子の行動は、傷付いたさゆりの神経を逆撫でする結果に終わりました。
誰が悪いわけでもない。
自由奔放なあみ子も彼女を受け入れられず苦しむ家族も、各々できる範囲で精一杯努力したものの報われず、あの結末に至ります。
発達障害の特徴として、異常なこだわりの強さが挙げられるのにも注目してください。あみ子が小学5年の時に出会ったのり君に執着し、彼の本名「わしおよしのり」を一生忘れないと誓ったのも、この特性に起因するのでしょうか。
小学5年から中学3年まで、およそ5年に亘りあみ子の心を占め続けたのり君と対照的に、あみ子に構っていた隣の席の男子は苗字すらわからずじまい。
それは彼に対するあみ子の関心が薄く、名前さえ覚えないから。彼女の興味の範囲は極端に狭く、偏っているのです。
「こちらあみ子」はあみ子視点で読むか、さゆりやのり君をはじめとする周辺人物の視点で読むかで印象が変わります。
さゆり視点のあみ子は悉く恩知らずなまねをする義理の娘、のり君視点では空気が読めず、距離が近すぎる気持ち悪い子。故にあみ子に告白されたのり君が、嘗て彼女がなめたビスケットを食べさせられたと知って激怒した件も、同情こそすれ責める気持ちにはなれませんでした。
本作がバッドエンドかベターエンドかは読者によって解釈が分かれます。
それはあみ子を障害が原因で田舎に捨てられた可哀想な子と見るか、偏見持たざる祖母のもとでのびのび暮らす自由人ととらえ、新天地の生活に救いを見出すか、各々の価値観にも関わってきます。
「こちらあみ子」はフィクションですが、あみ子は紛れもなく私たちの身近にいます。たとえば私であり、これを読んでるあなたかもしれません。
あなたはあみ子を愛せますか?
今村夏子「こちらあみ子」を読んだ人には井手正和「発達障害の人には世界がどう見えるのか」をおすすめします。
発達障害患者の感じ方や考え方にフォーカスしたノンフィクションで、カサンドラ症候群に陥らない為に、適切な距離感をもってパートナーに接する大切さが説かれています。
- 著者
- 井手正和
- 出版日
次は今村夏子が大好きな作家、小川洋子の短編集「薬指の標本」。
映画化された「博士が愛した数式」など、感動もので知られる小川洋子ですが、ちょっと奇妙な世界で生きる風変わりな人間を描いた短編こそ、彼女の美質が凝縮されています。
「薬指の標本」の主人公は人々が思い出の品々を持ち込む「標本室」で働く「わたし」。ある標本技術士に素敵な靴を贈られた日から、密やかな感情が芽生えるのだが……。
日常から数センチ浮遊した今村夏子の世界観が好きなら、小川洋子の作品世界にもぜひ触れてください。
小説『博士の愛した数式』7つの魅力をネタバレ解説!あらすじ、結末など
とても優しく、美しく、切ない想いに、思わず涙してしまう名作小説。記憶を維持できない病を持つ博士と、家政婦と、彼女の子供を中心にしたこの物語は、決して明るい内容ではありません。それなのに、暗さを感じさせない、前向きで暖かな印象の残る作品となっています。 この記事で、ベストセラーで映画化もされた本作の秘密をひも解いていきましょう。ぜひご覧ください。
小川洋子、初めて読むならどの作品?おすすめランキングベスト9
作家、小川洋子といえばやはり、映画化もされた『博士の愛した数式』をご存じの方が一番多いのではないでしょうか。しかしそれ以外にも、彼女の作品は多岐に渡ります。今回はそんな小川洋子作品を厳選して紹介します。
- 著者
- 小川 洋子
- 出版日
- 1997-12-24