少女小説研究の第一人者である嵯峨景子先生に、その月に読んだ印象的な一冊を紹介していただく『今月の一冊』。23回目にお届けするのは2022年9月に亜紀書房から発売された『臆病者の自転車生活』です。大の運動嫌いと語る嵯峨先生がなぜこの本を選んだのか。そしてどのような魅力があるのかを語っていただきました。
嵯峨景子の今月の一冊、第23回です。今月は2022年9月刊行の安達茉莉子『臆病者の自転車生活』(亜紀書房)をご紹介します。
- 著者
- 安達 茉莉子
- 出版日
2024年に入って以来、目が回るような忙しさが続いています。「仕事があるのはありがたい」と思いつつも、さすがに疲労も限界に……。ちょうどゴールデンウィークのタイミングだったこともあり、しばし仕事を入れず休息をとることにしました。
とはいえ、運動嫌いで大のインドア派なので、どこかに出かけるでもなく家にこもって、以前から気になっていた本をゆっくり消化していました。仕事の資料としてではなく、心のおもむくままに本を手に取り、ただ無心に活字をインプットする。今の私に必要だったのは、こうしたささやかな、けれども贅沢な時間だったのかもしれません。
そんなインドア大好きのはずの私ですが、この間に読んだたくさんの本のなかでも、最も印象的だったのが『臆病者の自転車生活』でした。2015年から創作活動を始めた安達茉莉子は、イラストと言葉による繊細な表現が人気の作家・文筆家です。個人出版のリトルプレスからスタートし、近年は『私の生活改善運動 THIS IS MY LIFE』(三輪舎)や『毛布 あなたをくるんでくれるもの』(玄光社)を刊行するなど、商業出版の場でも活躍の場を広げています。
以前から著者の創作スタイルやエッセイに興味を惹かれながらも、『臆病者の自転車生活』を長い間読みそびれていたのは、テーマが“自転車”だからでした。運動が大嫌いで、大のインドア派。そんな私にとって、体を動かす自転車は苦手意識を呼び起こす存在でしかなく、自分には関わりのないものとしか思えなかったのです。けれどもここ最近は自分の中でいろいろな変化があり、広い世界に飛び出したい、遠くに行きたいと思いがむくむくと湧いてきています。そんな気持ちに後押しされるようにして、長年避け続けてきた『臆病者の自転車生活』を読み始めました。
「根気もなく、回避傾向があり、気も弱い。それでも、目の前にふと現れた自転車に乗ってみたら、驚くほどに何もかも全部変わっていった。心に怯えた犬を飼った臆病者でも、自転車に乗れたし、むしろそんな人をこそ軽々と遠くに連れていってくれるのが自転車だ」
上の引用は、『臆病者の自転車生活』の「はじめに」に登場する一節です。自転車に対する心のハードルを下げながら、その魅力を端的に伝えてくれるフレーズに、ぐっと心を掴まれました。テーマもさることながら、安達茉莉子の紡ぐ言葉の世界がなんとも魅力的で、エッセイを読む醍醐味を味わえます。
運動は苦手で、溌剌としてもいない。そんな著者は2021年秋に電動自転車を購入して以来、自転車の魅力にどんどんとハマり、間もなく二台目の自転車となるロードバイクまで手に入れてしまいます。一体どのようにして自転車と出会ったのか。どんな電動自転車があり、どの種類を実際に購入したのか。電動自転車やロードバイクに乗る時には何が必要で、どのような点に注意をしなければいけないのか。作者の体験を失敗談なども交えながら語られる自転車の世界には、新しい発見や学び、そして喜びに満ちあふれています。何かにのめり込んだ人が綴る、熱量が高くて愛に満ち溢れた文章が私は大好きです。その熱量に後押しされるように、こちらもどんどんと興味を惹かれ、自転車に乗りたくなっていきます。
夜のみなとみらいや、鎌倉へのサイクリングという小さな冒険を経て、より遠くへ行きたくなり、ロードバイクを購入して真鶴や北海道にまで出かけてしまう。これまではできないと思っていたことができるようになり、行動範囲がどんどんと広がっている様はなんとも爽快です。自転車というテーマに限らず、何か苦手なことがある人の背中を押して、勇気をくれる一冊だと思いました。自転車というごくありふれたツールとの出会いで、生活習慣ばかりか人生の景色まで一変してしまうさまをあますところなく描いた、魅力に満ちた名作エッセイです。
先ほど、私の身辺に変化があるという話をしましたが、今年の夏に長年暮らした根津を離れ、新しい街に引っ越すことが決まりました。新しい住まいは東京都内だけれど、23区外になる予定です。数年前に自転車を購入したものの、根津は坂が多くてうまく乗りこなせず、マンションの自転車置場に長らく放置をしてしまいました。新しい街では、今は埃をかぶっている自転車ももっと活躍するはずです。そしてゆくゆくは、電動自転車も手に入れてみたい……。気がつけば私もすっかり『臆病者の自電車生活』に影響されているようです。
- 著者
- 安達 茉莉子
- 出版日