昭和4年(1929年)に発表された江戸川乱歩『押絵と旅する男』は、乱歩作品の中では珍しくミステリー色のない幻想短編です。浅草十二階の展望台を舞台装置に用いた本作は、押絵の美少女に恋した愚かな男の顛末を描いて、えもいわれぬ余韻を残しました。 今回は乱歩の数ある短編の中でも出色の完成度を誇り、根強いファンに愛され続ける『押絵と旅する男』のあらすじと魅力を、ネタバレありでご紹介していきたいと思います。最後までお付き合いください。

物語は蜃気楼見物帰りの汽車の客席から幕を開けます。
二等車内にて古めかしい出で立ちの老紳士を見かけた「私」は、彼が風光明媚な車窓に立て掛けた額縁に好奇心をそそられます。
それは艶やかな振袖の美少女と洋装の老人が仲睦まじく寄り添うさまを描いた、見事な押絵細工でした。「私」は背景の絵と比べ二人がとても生き生きとしていることに驚き、不思議な押絵細工の謂れを尋ねます。
老紳士は「私」に双眼鏡での押絵の鑑賞を許し、世にも奇妙な身の上話を始めました。
今を遡ること35・6年前、老紳士には当時25歳ほどの兄がいました。その兄の食がだんだんと細り、一日中物思いに耽って口数も少なくなったことを、家の者たちは心配していました。
ある日のこと、老紳士は母に頼まれて兄を尾行します。行き先は浅草十二階と呼ばれる展望塔。
いそいそと浅草十二階に上った兄は、持参した双眼鏡でどこかを覗き、いかにも恍惚とした笑みを浮かべています。そこで老紳士が問い詰めると、彼は「片想いの女性を見ていたんだ」と照れ臭そうに白状するではありませんか。
兄が惚れた女性に一目会いたい……。
告白を決めた兄に付き添って女性のいる場所へ赴いた彼は、衝撃的な真実を目の当たりにします。兄が一目惚れした美しい少女の正体は、見世物小屋に展示されていた、八百屋お七の覗きからくりだったのです。
呆然とする弟に対し、兄は「双眼鏡を逆さまにして自分を見ろ」と指示します。老紳士がわけもわからず言われたとおりにすると、兄の姿は双眼鏡の中でどんどん小さくなり、遂には魔法の如く消えてしまいました。
ハッとして押絵を見直すと少女の隣に兄がおり、二人は幸せそうに寄り添っていたのです。
その後老紳士は大枚をはたいて押絵を買い取り、絵の中に閉じこもっていたのでは兄夫婦も退屈だろうと、二人を連れて様々な場所を旅しているのでした。不思議なことに押絵の兄は歳月の経過に応じて年を取り、少女は相変わらず若く美しいまま……。
老紳士が押絵を風呂敷に包む寸前、「私」と目が合った絵の中の二人は、確かに微笑んだように見えました。
でもね、私は悲しいとは思いませんで、そうして本望を達した、兄の仕合せが、涙の出る程嬉しかったものですよ。
登場人物紹介
- 著者
- ["江戸川 乱歩", "しきみ"]
- 出版日
江戸川乱歩『押絵と旅する男』は昭和4年(1929年)に発表された短編。乱歩作品の中では一際幻想色が強く、耽美な作風によって広範なファンを獲得しています。
本作に対し、「ある意味では、私の短篇の中ではこれが一番無難だといってよいかも知れない」と珍しく肯定的な評価をしている乱歩。基本辛口な彼には珍しいですね、それだけ特別な思い入れがあったんでしょうか。
確かに残忍な殺人事件は起きず登場人物は誰も死んでいないので、「無難」の評価は間違っていません。倒錯的な性描写はおろか反社会的な犯罪描写も一切ない為、万人向けと言える作品です。故に絵本化やアニメ化され、山田譲司『江戸川乱歩異人館』2巻にも、「額男~押絵と旅する男~」のエピソードが収録されています。
- 著者
- ["山口 譲司", "江戸川 乱歩"]
- 出版日
イラストレーターの藤田新策が作画を担当した『乱歩えほん 押絵と旅する男』と、立東舎乙女の本棚から刊行されている、しきみ作画担当の『押絵と旅する男』も必見です。
乙女の本棚シリーズには他にも錚々たるイラストレーターが参加し、江戸川乱歩作品を題材にした美麗な絵本を描き下ろしています。
本作の見所は老紳士の語りの妙。まずは意味深な書き出しにご注目ください。
この話が私の夢か私の一時的狂気の幻でなかったならば、あの押絵と旅をしていた男こそ狂人であったに相違ない。
狂っているのは押絵の男女に微笑まれた「私」なのか、兄が押絵の中に入ってしまったと信じる老紳士なのか……答えは最後まで明かされません。
主人公が沼津へ旅した目的が蜃気楼を見る為、というのも示唆的。海の彼方に現れる蜃気楼も押絵を使った覗きからくりも、人間の錯視が生み出した現象に他なりません。
ちなみに押絵とは厚紙を型にして綿を入れ、布で包んで貼ることで立体的な絵柄を表現する、日本の伝統的手芸作品をさします。題材は花鳥風月から実在の人物まで多岐に及び、羽子板や壁掛け、屏風などに用いられてきました。
なので二次元よりは三次元に近く、双眼鏡越しに眺めるぶんには生きてる人間と取り違えてもおかしくない、見事な立体感を伴っています。
関東大震災で倒壊した浅草の名物、浅草十二階が登場するのも時代を感じさせますね。正式名称は凌雲閣(りょううんかく)といい、八角形のハイカラな外観が特徴的な、レンガ造りの十二階建て展望塔でした。
日本初の電動式エレベーターを備えた展望塔は連日満員御礼となり、浅草公園内は大勢の大道芸人で賑わったと言います。
話の大半を老紳士の回想が占めるせいか今はなき浅草十二階が舞台となっているせいか、過ぎ去りし時代への憧憬や懐旧の念を強く感じさせるのも特徴。
夕暮れの二等車内と老紳士の頭の中にしか存在せぬ浅草十二階が交錯した時、我々はどちらを「真実」と認識するのでしょうか?
老人の饒舌な語りに耳を傾けるうちに、「私」と一体化した読者は万華鏡めいた白昼夢に溺れ、押絵に恋した男が生きていた古き良き時代に想いを馳せます。狂っているのは老人かその兄か、それとも押絵の二人に笑いかけられた「私」なのか……。
それは見る距離や角度によって変幻自在に化ける蜃気楼さながら、何通りもの解釈が成立するのが『押絵と旅する男』の含蓄深さです。
- 著者
- ["江戸川 乱歩", "しきみ"]
- 出版日
本作は乱歩作品には珍しくミステリー要素がないと言いました。一方で兄が恋した少女の正体は驚くべきもので、人間の錯覚と先入観を利用した、巧妙なトリックが仕掛けられています。
押絵の少女のモデルとなった八百屋お七は江戸時代に実在した放火魔。
江戸本郷の八百屋の娘として生を受けた彼女は、天和の大火で家族と共に焼け出され、正仙院の境内に避難します。そこで寺小姓の生田庄之介と恋仲となるも店の再建と同時に立ち退かざるを得なくなり、敢え無く引き裂かれてしまいました。
されど募る未練は断ち切れず、庄之助に会いたいと思い詰めたお七は家に火を放ちます。幸いすぐに火は消し止められたものの、ボヤを起こした罪で即座に捕まり、鈴ヶ森刑場で火あぶりに処されたのでした。
短絡的動機と衝動的犯行に擁護の余地はありませんが、そうまでして離れ離れの恋人を求めた、一途な乙女心が切ないですね。
最終的に老紳士の兄は押絵の中に入り込み、少女と添い遂げる運命を選びました。そんな兄の選択を老紳士は否定せず、目に涙まで浮かべ祝辞を述べています。
しかし待ってください。老紳士が泣いた理由は、本当に兄の恋が成就した喜びなのでしょうか?
あの人たちは、人間は押絵なんぞになるものじゃないと思い込んでいたのですよ。でも押絵になった証拠には、その後兄の姿が、ふっつりと、この世から見えなくなってしまったじゃありませんか。それをも、あの人たちは、家出したのだなんぞと、まるで見当違いな当て推量をしているのですよ。おかしいですね。結局、私は何と云われても構わず、母にお金をねだって、とうとうその覗き絵を手に入れ、それを持って、箱根から鎌倉の方へ旅をしました。それはね、兄に新婚旅行がさせてやりたかったからですよ。こうして汽車に乗って居りますと、その時のことを思い出してなりません。やっぱり、今日の様に、この絵を窓に立てかけて、兄や兄の恋人に、外の景色を見せてやったのですからね。兄はどんなにか仕合せでございましたろう。娘の方でも、兄のこれ程の真心を、どうしていやに思いましょう。二人は本当の新婚者の様に、恥かし相に顔を赤らめながら、お互の肌と肌とを触れ合って、さもむつまじく、尽きぬ睦言を語り合ったものでございますよ。
立て板に水の独白から推し量れるのは狂気の域まで高じた妄執……。
それは自分を味気ない現実に置き去って少女と結ばれた兄に対する恨みであり、「兄の為に」とくどいほど繰り返す行間には、押絵の世界に逃げた恋の勝者への羨望と嫉妬が渦巻いていました。
兄の失踪を家出と信じて疑わず、ひたすら世間体を気にする両親を「あの人たち」と呼ぶさまからは、厭世的な価値観が透けて見えます。
さらに妄想を逞しくすれば押絵の少女に一目惚れしたのは老紳士も同じで、彼等は三角関係に陥っていたのかもしれません。
同じ家で生まれ育った年の近い兄弟なら、考え方や異性の好みが似るのは自然なこと。老紳士はもとより兄に同情的であり、思い込みの激しい兄の言動に共感していました。
若き日の老紳士も押絵の少女に心を奪われていたと仮定すれば、抜け駆けした兄を憎む気持ちは理解できます。夕陽が差し込んだ瞬間に絵を伏せたのは、若い身空で火あぶりにされたお七への配慮でしょうか。
ここで気になるのが少女の美貌が変わらず、兄だけ老け込んでいくわけ。
オスカー・ワイルド『ドリアン・グレイの肖像』はモデルに代わって年を取る肖像画の話でしたが、本作において押絵の世界に行った兄はちゃんと年を取ります。しかもその事を恥じているらしく、年々表情が歪んでいきます。
最初から押絵として描かれた存在と人間から押絵に生まれ変わった存在では、時間の流れ方が違うのでしょうか?
怪異を見破る手段として昔の人々が用いた狐の窓や股眼鏡(股のぞき)の逆説として、文明開化を象徴する舶来の双眼鏡は、人を人ならざるものへ置き換える魔法の効果を宿すと信じたのでしょうか。
生者を描き込むと命をとられるムカサリ絵馬や冥婚の風習との繋がりも興味深いですね。
してみると兄もまた時間の重力に抗えず、いずれは寿命が尽きて死を迎えるのかもしれません。さらに勘繰るなら、少女の虜になった男が兄だけとも限りません。
絵の中で死んだ男の末路は永遠の謎。少女の隣からただ消え去るのか、老いさらばえた死体だけが現実に戻されるのか……全てが明らかになる時は刻々と近付いています。
斯くして連れ合いに先立たれた少女はひとりきりになり……さて、老紳士はどうするのでしょうか。
大前提として、夫婦水入らずの新婚旅行に弟を同伴したい兄がいるはずありません。人の手を借りねば移動できないのは事実にせよ、赤の他人の「私」の目に、伴侶と不釣り合いな老醜をさらすのは避けたいのが本音。
にもかかわらず老紳士は「私」にわざわざ双眼鏡を貸し、対照的な二人の表情を……残酷なまでの年の差をじっくり見比べさせます。
見世物の少女に横恋慕した弟が、彼女と夫婦になった兄を晒し者にして間接的な復讐を遂げる……そう考えると陰湿ですね。
老紳士が年齢不詳な見た目をしているのは、彼の魂が半ば押絵に吸い取られているから。兄が老衰で死んだ後は自分が取って代わり、押絵の少女と添い遂げる計画なら筋が通りませんか?
兄夫婦を旅先に連れ歩きたいというのは建前。兄の老いをその目で確かめて死を看取り、今度こそ少女の伴侶の座を射止めるのが真の動機……。
はたして老紳士の恋は実るのか、あてどない旅の行方が気になります。
- 著者
- ["江戸川 乱歩", "しきみ"]
- 出版日
江戸川乱歩『押絵と旅する男』を読んだ人にはオスカー・ワイルド『ドリアン・グレイの肖像』をおすすめします。
本作は童話『幸福の王子』で一世を風靡したオスカー・ワイルドの唯一の長編小説。放蕩の限りを尽くす快楽主義の美青年ドリアン・グレイと、彼の代わりに年を取る肖像画の確執を描いたストーリーは、先の読めない展開の連続で読者を魅了しました。
- 著者
- オスカー ワイルド
- 出版日
- 1962-05-02