【現代の悩みを哲学で解決】なぜ他人の目が気になるのか? サルトルの『まなざし』から考える

更新:2025.12.18

現代の悩みを小説形式で考える哲学シリーズ。 今回は他人の目が気になってしまう女子大学生の物語です。 ゼミの発表を終えた夜、胸のざわめきが止まらない。 誰も責めていないのに、視線だけが重く残る。 なぜ他人の目は、これほどまでに私の心を揺らすのだろう…。 その疑問を、サルトルの哲学に重ねてみたい。

大学院のときは、ハイデガーを少し。 その後、高校の社会科教員を10年ほど。 身長が高いので、あだ名は“巨人”。 今はライターとして色々と。
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プロローグ:眠れない夜

ゼミ発表が終わったのは、午後4時過ぎのことだった。

紗季は自分の席に戻りながら、心臓がまだ高鳴っているのを感じていた。

15分間の発表と質疑応答。準備は十分にしたはずだ。教授からのコメントも「よく調べていますね」という穏やかなものだった。

それなのに、帰り道からずっと胸の奥がざわついている。

電車の窓に映る自分の顔を見ながら、紗季は発表中の記憶を何度も巻き戻していた。

あのとき、声が震えていなかったか。早口になっていなかったか。隣の席にいた田中くんが途中でスマホを見ていたのは、退屈だったからではないか。後ろの列にいた先輩たちは、何を思いながら聞いていたのだろう。

夕食を終えて部屋に戻っても、その思考は止まらなかった。ベッドに横になると、天井を見つめたまま、同じ場面が何度も再生される。

誰も何も言っていない。批判されたわけでもない。それでも「見られていた」という感覚だけが、重く残っている。

私は、いったい何を恐れているのだろう。

翌日、紗季は大学の研究室を訪ねることにした。以前から気になっていた哲学の教員がいる。専門は現代思想で、学生の相談にも乗ってくれると聞いていた。

「見られている自分」という問題

研究室のドアをノックすると、穏やかな声が返ってきた。

「どうぞ、開いていますよ」

白髪まじりの教授は、本棚に囲まれた小さな机に向かっていた。紗季が事情を話し始めると、教授は手を止めて椅子ごと向き直った。

「他人の目が気になりすぎる、ですか」

「はい。発表自体はうまくいったと思うんです。でも終わった後、誰かにどう見られていたかが気になって仕方なくて……。こういうこと、昔からずっとあるんです」

教授は少し考えてから、静かに口を開いた。

「それは弱さだと思いますか」

「……弱さ、ですか?」

「他人の目を気にするのは、自分に自信がないからだ。そういうふうに言われることがありますね。あなた自身は、どう思っていますか」

紗季は言葉を探した。

「正直、そう思っていました。もっと堂々としていたいのに、できない自分が情けないというか」

教授はゆっくりうなずいた。

「なるほど。でも、少し立ち止まって考えてみましょう。他人の目が気になる。これは本当に『弱さ』なのでしょうか。それとも、人間として当たり前の構造なのでしょうか」

サルトルの「まなざし」:見られることで生まれる自分

教授は立ち上がり、本棚から一冊の分厚い本を取り出した。

「ジャン゠ポール・サルトルという哲学者がいます。20世紀フランスを代表する思想家の一人です。彼は『存在と無』という著作の中で、まさにあなたが経験していることを分析しています」

「他人の目が気になる、ということをですか?」

「ええ。サルトルはそれを『まなざし』という概念で説明しました。フランス語ではル・ルガール(le regard)と言います」

教授は窓の方を向きながら続けた。

「サルトルが挙げた有名な例があります。公園を一人で歩いているとき、私たちは世界の中心にいるような感覚を持っています。ベンチも木も芝生も、すべてが自分を起点に配置されている。ところが、そこに別の人間が現れた瞬間、何かが変わります」

「何が変わるんですか?」

「世界の中心が、ずれるのです」

教授は紗季の方を向き直った。

「相手も自分と同じように世界を見ている。相手にとっては、相手自身が世界の中心であり、私はその風景の一部になる。私は『見る主体』であると同時に、『見られる対象』になるのです」

紗季はその言葉を頭の中で反芻した。

「見る側と見られる側が、同時に存在する……」

「そうです。サルトルはさらに踏み込んで、こう言いました。他者のまなざしによって、私は自分自身を『対象』として意識させられる。自分がどう見えているか、どう判断されているかを、否応なく考えざるを得なくなる、と」

恥ずかしさの正体

紗季は思い出していた。発表中、ふと顔を上げたとき、何人かの視線と目が合った瞬間のこと。あのとき確かに、自分が「見られている」と強く意識した。

「サルトルはもう一つ、印象的な例を挙げています」

教授は続けた。

「鍵穴をのぞいている人の話です。ある人が、好奇心から部屋の鍵穴をのぞいている。そのとき彼は完全に行為に没頭していて、自分自身を意識していません。ところが、背後で足音が聞こえた瞬間、すべてが変わります」

「見られた、と思うわけですね」

「そうです。その瞬間、彼は自分が『鍵穴をのぞいている人間』として他者に見られていることを意識する。そして恥ずかしさを感じます。サルトルはこの恥ずかしさについて、重要な指摘をしています」

「どういうことですか?」

「恥ずかしさとは、自分が他者の目にどう映っているかを意識したときに生まれる感情だ、ということです。つまり、恥ずかしさは他者なしには存在しえない感情なのです」

紗季は自分の発表後の感覚を思い浮かべた。誰かに見られていたという意識。自分がどう映っていたかを考え続ける夜。

あれは確かに、恥ずかしさに近いものだった。

「では、他人の目が気になるのは……」

「はい。サルトルの考えに従えば、それは弱さでも、克服すべき欠点でもありません。他者とともに存在する限り、私たちは必ず『見られる存在』になる。それは人間存在の構造そのものなのです」

自由と責任:まなざしを引き受ける

紗季は少し混乱していた。

「でも、それだと結局のところ、他人の目から逃れられないということになりませんか。何も解決しない気がします」

教授は穏やかに笑った。

「そう感じるのも当然です。サルトルは『他人は地獄だ』という有名な言葉も残していますからね。でも、これは他人が邪魔だとか、一人で生きたいという意味ではありません」

「どういう意味なんですか?」

「私たちは他者によって規定される存在だ、ということです。そして同時に、サルトルはこうも言っています。人間は『自由の刑』に処せられている、と」

「自由の刑……」

「他者にどう見られているか。それを完全にコントロールすることはできません。しかし、その視線をどう受け止めるかは、自分自身が選ぶことができる。サルトルにとって、これこそが人間の自由であり、同時に責任でもあるのです」

教授は紗季の目をまっすぐ見た。

「あなたがゼミ発表の後、他人の目を気にしたこと。それ自体は消せないし、消す必要もありません。重要なのは、その経験に対してあなたがどういう態度をとるかです」

紗季は黙って聞いていた。

「『自分は弱いからこんなに気にしてしまうんだ』と解釈することもできる。でも、こう考えることもできます。『自分は他者とともに生きているから、他人の目が気になるのだ』と」

見られることを引き受ける

窓から差し込む午後の光が、少しずつ傾きはじめていた。

「サルトルの思想は、楽観的なものではありません」と教授は言った。「他者のまなざしから解放される方法を教えてくれるわけではありません。でも、その代わりに別のことを教えてくれます」

「何でしょうか」

「他人の目が気になるのは、あなたが他者とつながっている証拠だということです。それを恥じる必要はない。むしろ人間として当然の反応だと認めた上で、そこからどう生きるかを選んでいく。それがサルトルの言う『自由』です」

紗季は深く息を吸い込んだ。

他人の目が気になる自分を、弱いと責める必要はない。かといって、気にならないふりをする必要もない。気になっている自分をそのまま認めた上で、それでも自分の言葉で話す。それでも自分の考えを発表する。

それが「まなざしを引き受ける」ということなのかもしれない。

「先生、少しだけ楽になった気がします」

「そうですか。でも、楽になったというより、『気になっていい』と許可を出せたのかもしれませんね」

紗季は立ち上がり、頭を下げた。

研究室を出るとき、廊下を歩く自分の足音が聞こえた。また誰かの目を気にする瞬間は来るだろう。でも、それは恥ずかしいことではない。

私は、他者とともに生きている。

エピローグ:まなざしのなかで

一週間後、次のゼミ発表があった。

紗季は以前と同じように緊張していたし、発表後もやはり他人の反応が気になった。完全に克服したわけではない。そんな魔法のような変化は起きなかった。

でも、一つだけ違うことがあった。

その日の発表者は、紗季の他にもう一人いた。同じゼミの後輩で、少し声が震えながら自分の研究について話していた。紗季は彼女の発表を聞きながら、ふと気づいた。

私も、彼女を見ている。

後輩の言葉を追いながら、「緊張しているな」と感じている自分がいる。

そして「この論点は面白い」と思っている自分がいる。つまり、まなざしを向けているのは紗季自身も同じだった。見られる側にいるのは、自分だけではない。

教室にいる全員が、誰かを見ながら、同時に誰かに見られている。

その当たり前の事実が、不思議と胸に落ちた。

発表を終えた後輩が席に戻るとき、紗季は小さく声をかけた。

「面白かったよ。最後の考察のところ、もっと聞きたいと思った」

後輩は少し驚いた顔をして、それから嬉しそうに笑った。

夜、ベッドに横になったとき、紗季はその笑顔を思い出していた。自分が誰かに見られていたように、自分も誰かを見ていた。

そして、見られることは怖いだけではなかった。誰かのまなざしの先に、自分の言葉が届くこともある。

他人の目が気になる。それは変わらない。

でも、その目は一方的に自分を裁くためだけにあるのではない。

視線は、交差するものなのだ。

さらに問いを深めるオススメ書籍

ジャン゠ポール・サルトル(2007)『存在と無:現象学的存在論の試み (1)』(松浪信三郎 訳)筑摩書房 

著者
ジャン=ポール サルトル
出版日

「まなざし」論の原点です。本文で触れた「鍵穴」の例も、この大著の中で書かれています。見られた瞬間、私は「誰かにとっての対象」になる。そのとき自由だったはずの私に何が起きているのか。サルトルはこの問いを手放さず、どこまでも追い詰めていきます。読み通すには骨が折れますが、本書を読んだあと、日常の視線が少し違って感じられるようになるでしょう。

エマニュエル・レヴィナス(2020)『全体性と無限』(藤岡俊博 訳)講談社

著者
["エマニュエル・レヴィナス", "藤岡 俊博"]
出版日

サルトルの議論では、見る者と見られる者はどこかで対立へ傾いていきます。レヴィナスはその構図自体を疑いました。他者とは、理解し掌握すべき相手なのか。それとも私の中に倫理を呼び起こす存在なのか。問いの立て方が変わると、「まなざし」の意味も変わります。視線を浴びることが、裁きではなく、別の何かになりうる。その可能性を開いてくれる一冊です。

ミシェル・フーコー(2020)『監獄の誕生<新装版>』(田村俶 訳)新潮社 

著者
["Foucault,Michel", "フーコー,ミシェル", "俶, 田村"]
出版日

「他人の目が気になる」のは、私の心が弱いからでしょうか。フーコーは別の視点から問いを立てていきます。そもそも私たちは、なぜ「見られる位置」に立たされているのか。学校、軍隊、監獄といった制度は、人を配置し、やがて自分で自分を監視するよう仕向けてきました。視線は個人の体験であると同時に、社会が設計したものでもある。サルトルの分析を構造の次元へ接続すると、違う風景が見えてくるはずです。

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