【現代の悩みを哲学で解決】「完璧」から抜け出せない:ウィトゲンシュタインと「言葉のゲーム」

更新:2026.2.17

現代の悩みを小説形式で考える哲学シリーズ。 今回はエントリーシートが書けない、女子大学生の物語です。 自己PR400字…最初の一文が、どうしても書けない。 下書きはある。けれど、文章にすると途端に安っぽく見えてしまう。 完璧な言葉を探すほど、パソコンを打つ指は動かなくなっていく…。 その行き詰まりを、ウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」に重ねてみたい。

大学院のときは、ハイデガーを少し。 その後、高校の社会科教員を10年ほど。 身長が高いので、あだ名は“巨人”。 今はライターとして色々と。
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プロローグ:空欄が増えていく

美咲はエントリーシートの画面を見つめていた。

自己PR400字。学生時代に力を入れたこと400字。志望動機300字…。

どれも、最初の一文が書けない。

下書きはある。箇条書きもある。

けれど、文章にすると途端に安っぽく感じてしまう。

もっと良い言い回しがあるのではないか。もっと正確に自分を表す言葉があるのではないか。

その問いが指先を固め、カーソルは点滅したまま動かなかった。

嘘っぽく見えたら終わる。かといって、平凡に見えても終わる。完成度の低い自分を提出してしまう恐れから、最初の言葉が出てこない。

スマホに締切通知が出た。美咲はノートパソコンを閉じ、大学のキャリアセンターへ向かった。

「完璧」という言葉の罠

担当の職員は、美咲の話を聞きながら静かにうなずいていた。

「書けないのは、材料がないからじゃないね。美咲さんは、完璧を先に決めようとしていない?」

「はい。『これが正解』って言い切れないと、怖くて出せなくて」

「その怖さは自然なものだよ。ただ、一つ聞いてもいい? 完璧なESって、どういうものだと思う?」

美咲は言葉に詰まった。完璧。当然のように使っていたが、具体的に何を指すのかと問われると答えられない。

「……落ちないES、でしょうか」

「なるほど。じゃあ、落ちないレポートは完璧なレポート? 落ちない料理は完璧な料理?」

「それは……違う気がします」

「そうだよね。『完璧』って言葉は、場面によって意味が変わる。でも私たちは、どこかに『完璧の本質』があると思い込みやすい」

職員は一冊の本を取り出した。

「ウィトゲンシュタインという哲学者がいる。彼は、言葉の意味は使われ方の中で決まると考えた。たとえば『ゲーム』という言葉。サッカーもチェスも鬼ごっこもゲームと呼ばれるけど、すべてに共通する本質ってある?」

美咲は考えた。

競争?

でも一人遊びのゲームもある。

勝敗?

でも、ルールのないごっこ遊びもゲームと呼ばれる。

「ウィトゲンシュタインはこれを『家族的類似』と呼んだ。家族の顔が似ているように、ゲームという言葉でまとめられるものは互いに似ているけれど、すべてに共通する一つの特徴はない。似ているようで一致しないものの集まりなんだ」

美咲の中で、何かがほどけ始めた。完璧という言葉も同じなのかもしれない。ESの完璧とレポートの完璧と料理の完璧は、似ているようで違う。

一つの本質を探すから、出口が消えるのだ。

ESは「本当の自分」を提出する場ではない

職員は求人票と企業の募集要項を指さした。

「もう一つ、大事なことがある。ESは、自分の本体を提出する書類じゃない」

「本体じゃない……?」

「そう。ESは企業が作った問いに、一定の形式で答える場なんだ。私的な日記とは違う。言ってみれば、共有されたルールの上で行われる言葉のやり取り、つまり言語ゲームの一種だね」

美咲は「本当の自分」を正確に写し取ろうとしていた。けれど企業は、写真の解像度を競う場を用意しているわけではない。

知りたいのは、問いに対してどんな根拠を出し、どんな筋道で語るかだった。

「ウィトゲンシュタインは、私的な言語だけで意味を確立するのは難しいと考えた。意味は共有された使い方と結びつくものだから。ESも同じで、正しさは一人の頭の中では完結しにくいんだ」

書けなかったのは、自分が薄っぺらいからではない。問いの前で、完璧という言葉を一人で定義しようとしていたからだ。

美咲はそのことに気づき始めていた。

ルールは解釈ではなく実践で身につく

美咲は反射的に尋ねた。

「でも、企業ごとに求める答えは違いますよね。だったら正解なんて、やっぱりないじゃないですか」

「正解が一つに固定されないのは、その通り。だからこそ、ルールは解釈だけでは回らない。書いて、読まれて、直して、だんだんゲームのルールが感覚的に分かってくる。ウィトゲンシュタインがルールの理解について語るとき、そういう実践の側面を重視しているんだ」

美咲は別の怖さを言葉にした。

「でも、提出して落ちたら、自分が否定された気がして……だから完璧にしてから出したいんです」

「その気持ちはよく分かる。でも、順番が逆かもしれない。完璧にしてから出すんじゃなくて、出して直すという循環の中で精度が上がっていく。しかも人間としての価値じゃなくて、相手の問いにどれだけ噛み合っているかなんだ」

職員は続けた。

「いま必要なのは、完璧な自己PRじゃない。機能する暫定版だよ」

暫定版。その言葉が、美咲の肩から力を抜いた。

仮なら書けるし、仮なら直せる。完璧を出発点にしなくていい。

「完璧なのか」ではなく「何の役割を果たす文か」を問う

職員は紙に三行だけ書いた。

  • この設問の目的は何か
  • それを示す根拠は何か
  • 400字で削るなら、どこからか

「完璧かどうかを問うと答えは無限に広がる。でも、役割を問うと文章は狭まるんだ」

美咲はノートパソコンを開き、自己PRの一行目にこう打った。

「私は、初対面の相手とでも目的を言語化して合意を作るのが得意だ。」

少し大げさに見える。そう感じた瞬間、消したくなった。けれど美咲は手を止めた。

まず根拠を書こう。

二文目に、サークルの新歓イベントで初対面のメンバーと企画を詰めた経験を置いた。

三文目で、そのとき意識したことを短く添えた。

150字ほど埋まったところで、美咲は冒頭に戻った。

「合意を作る」は抽象的すぎる。イベントの話を書いたのだから、そこに寄せた方がいい。

一行目を打ち直した。

「私は初対面のメンバーとでも、企画の方向性を言葉にして揃えることができる。」

まだ完璧ではない。

けれど、最初の一文より具体的になっている。根拠と一行目が噛み合い始めている。

その手応えが、美咲を驚かせた。

エピローグ:「落ちた」としても、言葉は続く

帰り道、美咲は提出ボタンの前で一度だけ止まった。

心臓が早くなる。けれど、その緊張の質が以前とは違っていた。「本当の自分を差し出す恐怖」ではない。「参加する緊張」に近いものだった。

送信を押した。画面は静かに切り替わり、完了のメッセージが出た。

世界は何も変わらない。美咲の価値も、その場で確定したわけではない。

数日後、選考結果が届き始めた。落ちた企業もあった。通った企業もあった。

不採用の通知を開いたとき、胸は痛んだ。けれど、以前のように自分の全体が否定されたとは感じなかった。

あの企業の問いに対して、今回の答えが合わなかった。言語ゲームの中で、今回は噛み合わなかっただけだ。

次の企業のESを開いたとき、美咲は空欄を眺める時間が短くなっていることに気づいた。

まず暫定版を置く。そして問いの役割に合わせて直していく。その順番が身についてきたからだ。

完璧は、出発点ではない。書いて、出して、直して、また書く。

その更新の先に、いつか振り返って「あれは良かった」と呼べる言葉が残るのだろう。

美咲は「次の一行目」を打ち始めた。

さらに問いを深めるためのオススメ書籍

古田徹也(2020)『はじめてのウィトゲンシュタイン』NHKブックス

著者
徹也, 古田
出版日

ウィトゲンシュタインの思想を、前期から後期まで一本の流れとして描き出した入門書。「言語ゲーム」や「家族的類似」といった概念が、なぜ生まれたのかという問いの文脈から丁寧に解説されています。哲学の専門用語を最小限に抑えながら、ウィトゲンシュタインの思想に迫る構成が魅力です。「難しそう」という印象を持っている方にこそ、最初の一冊として手に取ってほしいと思います。

 ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(2003)『論理哲学論考』(野矢茂樹 訳)岩波書店

著者
ウィトゲンシュタイン
出版日
2003-08-20

ウィトゲンシュタインが生前に刊行した唯一の哲学書。本記事で紹介した「言語ゲーム」は後期の著作『哲学探究』で展開された概念ですが、その思想的な出発点はここにあります。「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」という有名な一文で締めくくられる本書は、言葉と世界の関係を根本から問い直す画期的な試みでした。文庫で手に取りやすく、哲学者ウィトゲンシュタインの原点を知る一冊として最適です。

野矢茂樹(2022)『ウィトゲンシュタイン「哲学探究」という戦い』岩波書店

著者
野矢 茂樹
出版日

本記事で扱った「言語ゲーム」「家族的類似」が登場する『哲学探究』を、日本を代表するウィトゲンシュタイン研究者が読み解いた一冊です。ウィトゲンシュタインは『論理哲学論考』で一度は哲学の問題を解決したと考えたが、のちに自らの思想を乗り越えようと試みました。本書はその「戦い」の軌跡を追いながら、後期思想の本質に迫っていきます。入門書を読んだ後、もう一歩踏み込みたい方におすすめです。

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