少女小説研究の第一人者である嵯峨景子先生に、その月に読んだ印象的な一冊を紹介していただく『今月の一冊』。35回目にお届けするのは2025年12月に草思社から発売された『東欧センチメンタル・トリップ』です。90年代コロナ禍まで、30年に及ぶ東欧の移り変わりを記録した本書の魅力を、嵯峨先生に語っていただきました。

「嵯峨景子の今月の一冊」、第36回です。今月はイスクラ著『東欧センチメンタル・トリップ』(草思社)をご紹介します。
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ここ数年、一番の趣味と言えるのが海外旅行です。時間とお金をやりくりして旅行計画を立て、海外に出かけてはその土地ならではの景色や食べ物、買い物を楽しむ。今や海外旅行は、私の生きがいとなっています。若い頃から旅は好きでしたが、20代30代はバンドや演劇のための遠征旅行が中心だったため、行き先は国内に限られていました。ですが今は推している韓国アイドルの影響で、何かあれば海外遠征をするフッ軽なオタクへと進化を遂げています。去年は香港・韓国・台湾・イギリス・フランスに行くなど、アジアからヨーロッパまで駆け回りました。
旅行熱の高まりにあわせるように、書店でも旅にまつわる本を手にする機会がぐっと増えました。私が暮らす調布は新刊書店が充実しているエリアで、さまざまなお店があるため本の買い物には不自由しません。なかでも調布PARCOのパルコブックセンターには、旅行本をセレクトした一角があり、立ち寄ったら必ず覗くお気に入りの場所です。『東欧センチメンタル・トリップ』も、この棚で出会い購入しました。
著者のイスクラは、ヨーロッパ旧社会主義国の雑貨屋を経て、近年は食文化や建築物など執筆業を中心に活動するなど、社会主義時代の文化を長年追いかけ続けている作家です。他の著作に、当時の料理を再現したレシピ本『ノスタルジア食堂 東欧旧社会主義国のレシピ63』や『ノスタルジア喫茶 ソヴィエト連邦のおやつ事情&レシピ56』、旧東ドイツに現存するスポットを紹介するビジュアルブック『OSTMODERN 』などがあります。
今回取り上げる『東欧センチメンタル・トリップ』は、30年におよぶ東欧の旅の思い出をまとめた初のエッセイ集です。著者の原点となったのが1995年、大学生の時に参加したドイツ・フランクフルトのサマーコースでした。この体験をきっかけに旧社会主義国により一層魅せられ、ポーランドやリトアニア、ロシアにチェコ、ウズベキスタンなどと旅先を広げていきます。
卒業後は旅行会社勤務のかたわら休みをやりくりして旅に出かけ、退職後は雑貨商や文筆業で身を立てながら東欧文化の発信を続けていく。そんな活動の集大成ともいえるエッセイの中には、その時々の旅で出会った人々との交流や景色、忘れられない食べ物などのきらめく思い出が細やかに描き込まれています。写真では残せなかったその時々の幸せで切ない記憶が、文字を通じて鮮やかに立ち上がる瞬間に、幾度も心が震えました。
著者が旅を始めた90年代は、中東欧やロシアが大きな転換を迎えていた時代です。この時に何気なく目にした建物や食文化の中には、時の流れの中で消えてしまい、今はもうないものも少なくありません。東欧文化に魅せられた一人の女性の歩みを記録した旅行記としてももちろんですが、消えゆく社会主義時代の証言集としても貴重な記録と言えるでしょう。
本書の中でもとりわけ心に残ったのが、シベリア鉄道の旅でした。極東フェリー「ルーシー号」で日本を出発し、ウラジオストクからモスクワに向かう中でバイカル湖にも立ち寄るという、長い長い鉄道の旅はなんとも強烈で、一期一会の人との出会いやカルチャーショックが詰まった刺激的なパートでした。お風呂のない列車に何日も乗るなんて自分には無理……と最初は思っていたのに、読み終わる頃にはこの乗り物でしか味わえない魅力に取りつかれ、いつかやりたい事リストの中にシベリア鉄道乗車が加わりました。世界情勢の影響でロシアへの扉が閉ざされているからこそ、いきいきと綴られるロシアの人々とのふれあいが、より一層切なく心に沁みました。
新型コロナとパンデミックの混乱を記録したルポルタージュのような2020年早春の旅には、当時の想像を絶する状況や緊迫感にあふれた移動が生々しく刻まれています。今はパンデミックも落ち着き旅行が日常に戻ってきましたが、ロシアのようにいつ状況が急変してその国への扉が閉ざされるかはわかりません。近いうちに、ずっと憧れていたチェコに出かけたい。この本に後押しされるように、初の東欧旅行の計画を立て始めています。
本書に通底する切なさと温かさが入り交じった独特のトーンは絶品で、東欧文化への深い愛に裏打ちされたテキストの数々にすっかり魅了されてしまいました。旅好きはもちろんですが、各地のおいしいものがたくさん紹介されたグルメガイド、そして東欧の料理を紹介したレシピ集としても使えるので、料理好きの方にもおすすめです。旅の思い出は色あせることはなく、時の中で磨かれてより一層きらめく宝物となる。私もこれからたくさん旅行をして、かけがえのない思い出を増やしていきたいと思っています。
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