江戸幕府における常設の職としては最高位にあたる「老中」。幕閣の中枢としておよそ260年間も幕府を支えました。この記事では、人数や役割、活躍した代表的な老中などをわかりやすく解説していきます。
江戸幕府に常設されていた職のなかで最高位にあたる「老中」。かつて徳川家で家政を司っていた「年寄」に由来していて、老中の「老」は年寄の別名、「中」は家中や村中などと同様に「集団のすべて」という意味があります。
江戸幕府の公式な歴史書である『徳川実紀』には「御年寄衆」「宿老」とも書かれていました。また幕府が出す伝達文書に加判をすることから「加判の列」とも呼ばれていたそうです。1593年に任じられた大久保忠隣をはじめ、幕末までに146人が老中の職につきました。
幕府の要職としては、老中のほかにも「大老」や「若年寄」などがあります。
大老は、老中の上に臨時に置かれる最高職です。幕府草創期において、松平定勝や松平忠明、保科正之などの将軍の親族、井伊直孝や酒井忠世などの重臣が担った、将軍への補佐を役職化したものと考えられています。
定員は1名で、「大老四家」と呼ばれる井伊家、酒井家、土井家、堀田家のなかから選ばれました。しかし、「徳川四天王」と呼ばれた家柄のうち榊原家や本多家が排除されているなど、大老四家に固定された理由や経緯はわかっていません。また柳沢吉保のように大老四家以外の大名が任じられる場合は「大老格」と呼ばれました。
歴史上初めて大老に任じられたのは、3代将軍の徳川家光によって任命された土井利勝、酒井忠勝の2人。幕末までに11人が任じられています。
若年寄は、1633年に徳川家光が側近の松平信綱、堀田正盛、三浦正次、阿部忠秋、太田資宗、阿部重次を「六人衆」とし、日常の雑務を任せたことに由来する職務です。国政を担当する老中とは異なり、将軍家に仕える旗本や御家人の統制など、家政を担当しました。
老中に出世するための登竜門でもあり、幕末までに148人が務めています。
老中の定員は4~5人。通常時は月番制で、1人が江戸城本丸御殿内の御用部屋に詰めて職務にあたるのが通例です。重大な事柄が発生した際には合議制で判断を下し、特に重要なやり取りは盗聴を防ぐために囲炉裏の灰の上で、筆談で議論しました。
老中のなかでも筆頭格の者は「老中首座」と呼ばれます。また、主に経済・財政部門を管掌する「勝手掛老中」、幕政には関わらず将軍の座を退いた大御所や将軍継嗣の家政を総括する「西の丸老中」などが置かれる場合もありました。
老中に就任できるのは基本的には「2万5000石以上の譜代大名」だけ。しかし2万5000石未満の譜代大名や外様大名であっても例外的に認められる場合があり、その場合は「老中格」と呼ばれました。
老中に就任するまでのコースとしては、奏者番・寺社奉行から京都所司代・大坂城代・若年寄を経るものと、将軍の側近くに仕える側用人から老中になるものの2つが一般的。江戸幕府における代表的な出世コースとみなされていました。
また、老中になると江戸城に詰めることになるので、関東周辺に領地をもつ大名が選ばれることが多かったそう。領地が遠国だと老中に就任できる可能性が低くなることから、老中になるための前段階として関東近郊への転封を望む者もいました。
老中の主な役割は、幕府の各部門を指揮・監督することです。
具体的には、大名や朝廷の監視を担う「大目付」、江戸の行政・警察・司法を担う「町奉行」、京都や大坂などの行政や司法を担う「遠国奉行」、幕府の財政を担う「勘定奉行」、江戸城の警備を担う「大番頭」、二条城や駿府城の管理を担う「城代」など。
江戸幕府の機構を説明する際に、将軍または老中首座を「内閣総理大臣」、各老中を「閣僚」に例えるケースが多くありますが、実際には老中は月番で政務全般を担っていることから、政務を分担しておこなう閣僚に例えるのは正確ではありません。
また老中は、諸大名が将軍への嘆願や贈答などを円滑におこなえるよう、伝達・仲介の役割を担うこともありました。これは各大名家で特定の老中に依頼するのが慣例で、「取次の老中」と呼ばれています
老中は午前10時頃に江戸城に登城し、午後2時頃に下城するのが一般的。勤務時間は4時間ほどでした。とても短いように感じられますが、これとは別に老中には「対客日」というものがあります。
月番老中は月に約10日、非番の老中は月2日が対客日とされ、自宅で大名などの来客に対応し、陳情や嘆願を聴くというもの。時間も決められていて、午前5時から午前7時までとされていました。この2時間の間に、多い時には100人以上の人々と面会しなければなりません。
さらに老中自身も大名なので、江戸城から下城して以降は、自分の領地に関わる仕事をしなければならず、多忙な毎日を送っていたそうです。
では、歴代の代表的な老中を紹介していきます。
3代将軍である徳川家光の時代、1632年から1662年まで老中を務め、1638年から1653年までは老中首座でした。幼少の頃から才知に富んでいて、別名を「知恵伊豆」ともいい、春日局や柳生宗矩と並び家光を支える「鼎の脚」のひとりに数えられました。
1637年に勃発した「島原の乱」では戦死した板倉重昌の後任として幕府軍の総大将となり、反乱の鎮圧に功績を上げ、戦後のキリシタン取り締りの強化、鎖国体制の整備に尽力しています。1651年に起こった「由比正雪の乱」や1657年の「明暦の大火」への対応も主導しました。
10代将軍である徳川家治の時代、1769年から1786年まで老中を務めました。田沼氏は、紀州藩士だった意次の父・意行が8代将軍である徳川吉宗の側近だったことから幕臣に取り上げられた家柄で、意次自身も9代将軍の家重、10代将軍の家治の2代にわたって重用されます。
老中になった後は、株仲間の結成、銅座や俵物などの専売制実施、鉱山や蝦夷地の開発、印旛沼や手賀沼の干拓などさまざまな幕政改革を推進。「田沼時代」と呼ばれる一時代を築きます。
しかし幕府優先の政策は諸大名の反発を招き、役人の間に賄賂などの腐敗が広がるという副作用がありました。さらに明和の大火、浅間山の噴火、天明の大飢饉など災害が相次ぐなかで、積極的に救援に乗り出さなかったこともあり、幕府を主導する意次の権威は失墜。1786年に後ろ盾であった家治が亡くなると老中を辞任させられ、蟄居を命じられました。
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11代将軍である徳川家斉の時代、1787年から1793年まで老中を務め、老中首座として「寛政の改革」を主導しました。「寛政の改革」は、祖父でもある8代将軍、徳川吉宗の「享保の改革」を手本にしたもの。田沼時代に疲弊した農村を救い、貧富の差を解消するためにおこなわれた囲米などの農業政策や、人足寄場などの福祉政策、物価の引き下げや米価の調節による流通市場の統制、棄捐令など困窮する旗本・御家人の救済策、寛政異学の禁に代表される情報・思想統制などが主な政策です。
これらの改革によって、当時莫大な赤字を抱えていた幕府財政は黒字化し、20万両の備蓄金も蓄えることができました。しかしその厳格な政治は後に「白河の 清きに魚のすみかねて もとの濁りの田沼こひしき」と揶揄されるなど、庶民からの反発を招くことになります。
また、光格天皇が父である閑院宮典仁親王に「太上天皇」の尊号を贈ろうとした際に、定信が「皇位についていない人間に尊号を贈ることはできない」という判断でこれを拒絶したため、同じように将軍位についていない父の一橋治斉に「大御所」の尊号を贈ろうと考えていた家斉の不興を被ることに。その結果定信は、1793年、出張中に突如として解任されています。
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11代将軍である徳川家斉および、12代将軍である徳川家慶の時代、1828年から1843年と1844年から1845年にかけて老中を務め、1839年からは老中首座になりました。大きな出世欲をもった人物で、多額の費用を使って猟官運動を展開。老中になるにあたって遠国の唐津藩主であることが障害になると、藩士や領民の反対を押し切って浜松藩への転封を願い出たほどです。
その甲斐あって老中への就任を果たすと、鳥居耀蔵、渋川敬直、後藤三右衛門らを登用して「天保の改革」を主導しました。天保の大飢饉による物価の高騰や百姓一揆、大塩平八郎の乱などの国内問題、さらに「アヘン戦争」、「モリソン号事件」などの国外問題が山積するなか、人返し令や株仲間の解散などの経済改革、風俗の取締りによる綱紀粛正、江川英龍や高島秋帆を登用して西洋流砲術を取り入れるなどの軍制改革を推進します。
改革は多分野にわたり、「法令雨下」と例えられるほど多くの法令が出されましたが、急激な改革は庶民の反発を招きました。さらに上知令の断行をめぐっては幕閣内からも反対の声が上がり、失脚させられています。
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12代将軍である徳川家慶および、13代将軍である徳川家定の時代、1843年から1857年まで老中を務めました。1845年には失脚した水野忠邦の後任として老中首座になります。
1853年にマシュー・ペリー提督が率いるアメリカ東インド艦隊が来航すると、それまでの慣例を破って外様大名や市井の人々にも広く意見を求め、翌年には「日米和親条約」を締結。「安政の改革」を主導し、陸軍の前身となる講武所、海軍の前身となる海軍伝習所、東京大学の前身となる蕃書調所を設置するなど明治以降の日本の礎となる改革を実施しました。
しかし開国派と攘夷派の争いや、将軍継嗣問題をめぐる一橋派と南紀派の争いがくり広げられる幕府内において憔悴し、改革なかばで老中在任のまま亡くなります。
11代将軍である徳川家斉の時代から、13代将軍である徳川家定の時代まで、1837年から1843年と1855年から1858年の2度にわたって老中を務めました。2度目に老中になった際には阿部正弘から譲られて老中首座となります。
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- 著者
- 福田 智弘
- 出版日
老中や大老は、約260年にわたって幕府を主導した人々です。しかし歴史の授業ではほんの数人しか触れられず、影が薄い存在になっています。
本書はそんな老中や大老に焦点を当て、彼らの役割、功績、逸話などを紹介した作品。「虫を食って出世した老中」や「暗殺された大老は井伊直弼だけではなかった」など興味深いエピソードの数々に、目からウロコが落ちるはず。最後まで楽しく読めるおすすめの一冊です。
- 著者
- 穂高健一
- 出版日
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読み進めていくと、幕末にこれほどの逸材が居たのかと驚かされ、39歳という若さで亡くなってしまったことが残念でなりません。
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