【#5】元文藝春秋文芸局長・羽鳥好之の歴史本探偵見参!/重いテーマに真正面から取り組む圧巻の歴史小説

更新:2023.10.4

元文藝春秋文芸局長の羽鳥好之が、愛してやまない「歴史本」を語る新連載をスタート!浅田次郎、林真理子ほか、数々の名著を生み出してきた元編集者の、琴線に触れた歴史本を紹介していきます。 今回紹介する1冊は、幕末の宗教弾圧の時代に生きた人々の精神を描いた大作。「信仰」の存在意義を根本から問い直す重厚な歴史小説の魅力をわかりやすく解説します。

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重いテーマに真正面から取り組む圧巻の歴史小説

今月の歴史本:『パシヨン』川越宗一著

著者
川越 宗一
出版日

直木賞受賞作の『熱源』(文藝春秋刊)はじめ、人物を深く彫り込む重厚な作品で知られる川越宗一氏。この作家が「島原の乱」を描くとなれば、読者にも相応の覚悟が求められるは自明のことでもあろうか。久しぶりにこうした歯ごたえある作品に出会うと、この暑さの中、背筋も伸びる思いですっきりする。

私の考えでは、島原の乱をもって、鎌倉期から続いた日本の宗教革命は無念な終焉を迎える。これ以降、宗教は人々に救いと自由をもたらす使命と役割を奪われて、徳川幕府の統制政策の一翼を担ってゆくようになるのだ。世にいう“葬式仏教”の始まりである。

その最後の宗教戦争は、ただし、信徒による純粋な宗教闘争ではなかったとは、司馬遼太郎はじめ、多くの識者が指摘してきたことだ。幕府の成立によって帰農させられていた武士層、なかんずく、かの地のキリシタン大名、小西行長の遺臣たちによって主導された農民一揆の色合いが濃かったというのが、主な論議であろうか。ただし、幕府がこれを禁教への抵抗とみなし、徹底した殲滅をはかったことは事実であった。

この物語も冒頭、関ケ原の敗戦を知らない小西家の家臣が、城を守って戦う場面から始まる。説得に応じて開城するも、篤いキリスト教信仰を持ち、主家への思いも抱き続ける遺臣の一人が、残された行長の孫を守って新たなスタートを切る設定は、上記の展開を予想させるに十分だった。しかし、そうはならなかったのだ、はやり。川越宗一はそんな物語は作らない。

主人公の小西彦七(マンショ)と、彼を養育した益田源介一家、妻の絹、娘の末、彦七の友人で末の夫となった慶三郎の人生が、一方の軸である。度重なる幕府の弾圧を逃れ、最後は天草の離島でひっそりと信仰を守っていた源介一家は、いやが応にも、この大乱に巻き込まれてゆく。一方の彦七は、司祭になる目標をもって、マカオからゴア、そしてポルトガルの都、リスボアへと渡って宗教者の道を歩んでゆく。晴れてイエズス会の司祭に叙任された小西マンショは、故国で、信徒が激しい弾圧にさらされて殉教を重ねている現状を耳にし、敢然と帰国を決意する。小西マンショは実在の人物だが、その道のりは険しいゆえに読み応えもあり、また、同じ道を歩んだ二人の日本人、ミゲル・ミノエスと岐部渇水の人物像が真に素晴らしいことを付記しておきたい。物語は哀しい結末に向けて、徐々に進められてゆく。

もう一方のストーリーは、弾圧を加えてゆく幕府側、のちにキリスト教奉行となった井上政重を軸に進んでゆく。この人物、或いは、兄の正就の方が有名かもしれない。正就は二代将軍秀忠の信任を得て異例の出世を遂げるものの、遺恨を受けて江戸城内で刺殺されてしまう。数少ない城中刃傷事件としていまに記憶される人物だ。その敬愛する兄の援護で世に出たはずの政重は、しかし、兄の死を踏み台に出世の階段を駆け上がろうとする。作者はそこに重大なる仕掛けを施している。政重はこの事件を機に信じるものを失い、幕府による世の安定のためにはどんな手段も厭わないと誓う、功利的かつ冷徹な人間へと姿を変える。

物語構造で言えば“悪の誕生”である。政重の妻、志茂はかつてクリスチャンだった。一度は信仰を捨てたものの、密かに立ち戻ってしまっていた妻、唯一の心の支えだった妻を放逐することで、神の敵としての政重像は完成する。残虐な拷問を繰り返し、それによる棄教を伴天連たちに迫る政重は、悪としての迫力に満ち満ち、それゆえに、心中の深い渇望に苦しむ姿が描かれて圧巻である。こちらの軸もまた、終末に向けて足音を高めてゆくのだ。

もちろん、二つの軸は一方的に進むのではなく、双方が織りをなすように展開される。その過程で、信仰に生きて死んでゆく英雄たち、原マルチノ(かの天正少年遣欧使節)や木村セバスチァンたちの人物像、なかんずく、彼らが語る信仰のひと言、ひと言が真に素晴らしく、私は本が真っ赤になるほど線を引いてしまった。あまりに多くて紹介できないのが残念だが、ここにこそ、作者の真骨頂があると言ったら、失礼にあたるだろうか。

さて、肝心の島原の乱である。

厳しい禁教弾圧と、領主松倉重政の圧政に耐えかねた領民たちがついに蜂起する。それを主導したのは、源介の従弟、益田甚兵衛とその息子の四郎であった。天草四郎の登場だ。作者は、この蜂起が、人を先導することを好む小人物によって引き起こされた不幸であり、だが、いったん火のついてしまった信徒たちの感情が、天人としか思えない美しい声を持つ少年に導かれ、死の淵へと進んでいってしまう展開を、深い言葉を添えて描いてゆく。その過程で、日本に戻ってきた小西マンショが信徒の籠城する城内に潜入、その導きにより、敢えて信仰を捨て、生きる道を選んだ者たちは、城外に逃れてゆくのだった。その最中、登場人物たちは問い続ける。神とは何者か、信仰とは何か、そして真の自由とは何なのか――。信仰を捨てられず、死んでゆくしかない信徒に寄り添おうとする四郎の姿も、なんとも哀しく美しい。

従来は、信徒数万人が皆殺しになったとされてきたが、近年の研究では、その死者は籠城していた人数よりずっと少ないという説も出されている。幕府によるプロパガンダがなされたというのだ。このあたり、信長の比叡山焼き討ちと似た事情があるようで、作者はその説を採っているのかもしれないが、私はこう思った。なぜ、民衆は凄惨な結末を顧みず立ちあがったのか。なぜ、幕府は何倍もの軍勢を動員しながら、武具弾薬に劣る民衆一揆の鎮圧に苦しんだのか作者はその答えを必死に探そうとしている。歴史的な実証ではなく、小説家の洞察力を使って。

だが、物語はまだ終わらない。いや、ここからが作者が書きたかったことではないかと思うのだ。

棄教をすすめてまで信者に生きる道を選ばせた小西マンショは、自身も脱出に成功し、日本に残る最後の司祭として潜伏する。だが、やがては元信者の裏切りによって捕縛され、江戸の政重の下に送られる。政重の屋敷での苛烈極まる拷問と、その最中、二人によって展開される問答が凄まじい。信じるものも、守るべきものも失い、悪鬼となって“転び”を迫る政重そんな憐れな男のために、最後の“赦し”を施そうとするマンショ、二人の対決がこの小説の白眉である

やがて読者は気が付くだろう。否、薄々感づいていたことが確信に変わるだろう。これは「大審問官」なのだ、と。ドストエフスキーによって書かれた世界文学の金字塔、かの『カラマーゾフの兄弟』で展開される「信仰」への根源的な問いが、本作の著者の中でも、ずっと声を発していたに違いないということに。

最後に、本作が今年度の「中央公論文芸賞」に決定したとのことだ。読み手の選考委員の集まった賞はやはりこの作品を見逃さなかった。

島原城/photoAC

 


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著者
羽鳥 好之
出版日

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