20世紀前半は、世界大恐慌や二度の世界大戦による混乱の時代でした。 この暗い時代にあって、イギリスの経済学者ジョン・M・ケインズは「雇用・利子・貨幣の一般理論」を発表し、経済学に革新的な展開をもたらしました。 ケインズの業績は今日に至るまで経済政策の指針となっていますが、その思想はどのようにして生まれたのでしょうか。 今回の記事では、ケインズの生涯と思想形成の背景、代表的なアイデアについて解説します。

1929年には世界大恐慌が起こり、そのあと世界経済は深刻な不況に陥りました。アメリカでは失業率が25%に達し、4人のうち1人が失業しました。
社会的な混乱のなか、1920年代前半にはイタリアでは、ムッソリーニがファシスト独裁を樹立。そしてドイツでは、1933年にヒトラーが首相となり、短期間のうちにナチスの独裁体制が築き上げられました。
自由主義者や社会主義者の反対は、容易に打破されていったのです。
1939年、ナチス・ドイツは第二次世界大戦を始めます。
序盤は優勢でしたが、やがて戦局は変わりました。
ヒトラーは自らの命を絶ち、日本には原爆が落とされ、大戦は終わりを迎えることになります。
このような混沌とした時代では、通常の人生設計を立てるのは難しいでしょう。
学校を卒業し、仕事を見つけ、愛する人と結婚して幸せな家庭を築く…。
そのような普通の夢も、戦争や経済の混乱によって破られる可能性が高い時代です。
節約しても、インフレにより貯金が価値を失うことも、また戦争によって命を絶たれることもあるでしょう。
このような時代に、人々はどのように生きていくべきでしょうか?
しかし戦争と経済による混乱のなかでも、科学や哲学の世界は非常に活発でした。マッハ、アインシュタイン、ウィトゲンシュタイン、ハイエク、フロイト、フッサールなど、多くの優れた研究者が現れました。ハイデガーの『存在と時間』も、この時代に書かれています。
科学や哲学には、まるで収穫の時期のような繁栄の時があるようです。
不安に満ちた時代に、経済学の分野でケインズが登場し、大きな変革をもたらしました。
1883年の6月、ジョン・メイナード・ケインズはイギリスのケンブリッジ、ハーヴェイロード6番地で生まれました。
同年3月には、カール・マルクスがロンドンで亡くなっています。
マルクスが亡くなった年にケインズが生まれることは、何か象徴的なものを感じます。
ケインズの父は、ケンブリッジ大学の経済学と論理学の教授でした。母はケンブリッジ大学の卒業生で、ケンブリッジ市で初めての女性市長となりました。
ケインズの実家があるハーヴェイロードは、ケンブリッジのエリートたちが住む地域です。住民は教養があり、裕福で洗練された人々でした。
ケインズの提唱する経済学は「国の支援がなければ資本主義は不安定になる」という理論を持っています。ケインズのいう「国」や「政府」の実体は、実際には財務省などの高官たちを指しています。そのためケインズの経済学が高官の知恵を信頼し、それに依存しているとの批判がなされることもあります。ケインズの経済学は「ハーヴェイロードの仮説」に基づいていると、彼らは批判しました。
「ハーヴェイロードの仮説」とは、ハーヴェイロードのような教養のある人々に経済を任せれば、国は安定するという考え方です。
イートン校という名門のパブリックスクールからケンブリッジ大学へと進学し、ケインズは典型的なエリートの道を歩んでいます。大学を卒業したあと、彼は高級官僚として政府での仕事をこなしながら、ケンブリッジ大学での教職も務めました。
ケンブリッジにいた時期には、哲学者ラッセルと一緒に「変わり者」とされる、ウィトゲンシュタインの面倒を見たこともあります。
1924年、41歳のときに『自由放任の終焉』を出版。マルクス主義だけでなく、自由放任的資本主義にも問題があると指摘しました。
仲間の経済学者たちと共同研究を進めながら、1936年に『雇用、利子および貨幣の一般理論』(通常は『一般理論』と略されます)を出版します。
この著作は、文字通り世界経済に大きな影響を与えました。
第二次世界大戦中、ケインズは大蔵大臣の経済顧問として活動しています。
戦後は国際金融制度の構築に尽力しました。
1946年に心臓発作で急逝、62歳でした。
資本主義経済は、時折不況という病気に見舞われます。
商品が売れなくなると、工場は生産を減少させ、多くの人々が失業することになります。
そのため、何らかの対策を考える必要があります。
ケインズが現れる前の伝統的な経済学(古典派と呼ばれるもの)は、以下のように考えていました。
「短期的な不況には過度に心配する必要はない。長い目で見れば経済は回復する。したがって、政府が市場の自由競争に干渉することは避けるべきだ」
こうした経済学の背後には、次のような論理があります。
商品が売れなくなると、その商品の価格は下落しがちです。商品の価格が下がると、その商品に対する需要は増えるでしょう。
そして、商品は再び売れるようになるでしょう。したがって、過度に心配する必要はありません。
現状では商品の価格がまだ十分に下がっていないため、需要が回復していないだけなのです。
賃金に関しても同様のことが言えます。
アダム・スミスの『国富論』によれば、求職者の数が求人数よりも多いと、一部の労働者は雇用を得られず失業します。
失業者が増えると、賃金は自動的に下がります。それは、低い賃金でも働きたいと思う人が多いからです。
賃金が下がると、労働者は子供の数を減らします。多くの子供を育てるのが難しくなるからです。
子供の数が減少すると、将来の労働者数も減ります。
労働者の供給が減少すると、労働者の不足が生じます。その結果、求職者数が求人数を下回るようになり、賃金は再び上昇します。だから、賃金が一時的に下がっても、心配する必要はありません。
長期的に見れば、賃金は自然に回復するでしょう。
古典派は自然の流れを尊重します。
暑さが来れば、そのあと冷たさが訪れます。日は沈んで、再び昇ります。季節が巡るように、自然のリズムが続きます。
人は病気になることがあり、熱が出ることも。でも、じっくり休めば、熱は治まり、回復します。回復しない場合、それはその人の運命で、誰も助けられません。経営が困難な企業は、自然に経営を停止させるべきです。これが自然の法則というものです。
これが古典派自由主義の考え方です。
ケインズは古典派の理論を完全に否定しているわけではありません。
しかし、古典派の「長い目で見れば…」という考え方には疑問が残ります。
たとえ話をしてみましょう。
乗っていた船が突然の嵐に遭遇し、船が激しく揺れています。そんなときに「心配しないで、長い目で見れば嵐はいつかは収まる」と言う船長を、私たちは信頼できるでしょうか。
たしかに「長い目で見れば」経済は回復するかもしれませんが、その「長い目」の間に私たちはこの世を去ってしまうかもしれません。
「待っていれば良くなる」と言われても、その待機時間のときに、命を失ってしまったら…。
古典派の哲学者たちは「それも仕方ない」と考えるかもしれませんが、ケインズは嵐からの脱出策を模索します。
その成果が『一般理論』なのです。
現代の世界でも、多くの人々が貧困を経験しています。
少し考えてみると、とても不思議なことです。
貧困の背後には様々な理由が存在します。
昔の社会では、技術が発展していなかったり、十分な生産設備(機械や工場)が存在しなかったため、多くの商品を生産することが難しい状況がありました。
そのため必要な物を入手できない人々が現れ、貧困が生まれます。
この場合、貧困の原因は生産力の不足です。
しかし、現代の状況は異なります。
私たちの社会は高度な技術や設備を持っており、必要であれば大量の商品を生産する能力があります。
社会が不況のときですが、仕事や所得がない人々がいる一方で、先進的な工場や機械(生産設備)が存在します。
しかし、それらの生産設備は活用されず、放置されています。
現代社会の貧困は、生産力の不足が原因ではありません。生産力は十分にあるにも関わらず、失業や貧困が発生しています。
では、なぜ工場は稼働しないのでしょうか? 生産したものが売れないからです。
では、なぜ売れないのでしょうか? 消費者の需要が足りないからです。
このような需要の不足は、どこから来るのでしょうか?
このようにケインズは「現代の豊かな社会のなかで、なぜ貧困が存在するのか」を探求したのです。
ケインズは混乱の中で生まれ、戦争や大恐慌の時代を経験しました。
その経験を通して、彼は資本主義経済の自動的な修復力には限界があることに気付きます。
ケインズの分析は「今の豊かな社会において、なぜ貧困が存在するのか」を考えさせてくれます。
経済は自然の力だけでは不十分で、適切な政策を取ることで安定させることができる、と経済学の新しい方向性をケインズが示しました。
現在においても、その業績は経済学の中心に位置しているのです。
中村 隆之(2018)『はじめての経済思想史 アダム・スミスから現代まで』講談社
- 著者
- 中村 隆之
- 出版日
アダム・スミスから現代までの主要な経済思想家の理論を丁寧に解説した入門書です。経済学の発展は「よいお金儲け」を促し「悪いお金儲け」を抑制する試みの歴史であるとし、各時代の経済思想家が現実の問題にどう向き合って理論を構築したかがわかります。
産業革命期の労働者の苦境にマルクスが挑んだように、思想家たちは経済の実態に合わない理論に疑問を呈し、新しいアイデアを生み出してきました。ケインズの有効需要の理論もまた、当時の経済事情を踏まえた画期的なアイデアでした。
本書を読めば、経済思想の変遷と各時代の課題の関係が一望でき、現代の経済を考える上で重要な知見が得られるでしょう。経済の歴史に関心がある人におすすめの1冊です。
ケインズ(2008)『雇用、利子および貨幣の一般理論』(間宮陽介訳)岩波書店
- 著者
- ケインズ
- 出版日
- 2008-01-16
『一般理論』は、ケインズの最大業績とされる書籍です。1930年代の世界恐慌期に発表され、従来の自由放任主義とは異なる新しい経済政策の指針を示しました。
ケインズは、経済が完全雇用(失業がない状態)を実現するためには、国民が商品やサービスを買う総需要を十分に持続・増加させることが必要だと考えました。
そのためにケインズは、政府が経済に関与する必要があると述べています。政府が税金を上げ下げしたり、借金をして政府支出を調整する「財政政策」や、中央銀行がお金の量を増減する「金融政策」です。
現代マクロ経済学の基礎を築いた本書は、ケインズの斬新な理論がどのようにして形成されたのかを知る上で欠かせません。現代経済を考えるうえでも、多くの示唆に富んでいます。
吉川洋(1995)『ケインズ - 時代と経済学』筑摩書房
- 著者
- 吉川 洋
- 出版日
本書は、ケインズの代表作「一般理論」にとどまらない幅広い業績を時代背景とともに詳細に解説しています。インドの通貨改革から平和の経済的意味、貨幣論など、ケインズの多彩な関心事がわかります。「長期的には我々は皆死んでしまう」といった名言の生まれた経緯も示されています。
ケインズは従来の経済学が「長期的には経済は自動的に均衡する」と考えることに疑問を呈しました。その「長期」の期間に人々は苦しむことになると主張したのです。
経済の自動修正を待っている間に、実際には多くの人々が失業などで苦しむことになります。「それを防ぐためには政府の積極的な経済運営が必要だ」という、ケインズの主張を端的に表現した言葉だと言えます。
ケインズの思想と時代背景を多面的に理解したい人におすすめです。