華麗なる名探偵明智小五郎のデビュー作となった江戸川乱歩『D坂の殺人事件』。本作は東京のD坂こと団子坂周辺を舞台に、古本屋の女房の殺人事件を巡る推理と、その恐るべき真相を描いて読者の心を掴みました。青空文庫で無料で読めるので、ご存知の方も多そうですね。 今回は江戸川乱歩『D坂の殺人事件』のあらすじと魅力をネタバレでご紹介していきます。最後までお付き合いください。

舞台は東京下町のD坂こと団子坂。
9月初旬のある日、主人公の「私」は大通りの喫茶店で休みながら、向かいの古本屋の店先をぼんやり眺めていました。そこには美人の妻がおり、「私」は彼女の姿を一目見たいが為に長居していたのです。
すると人間の研究をしていると称す高等遊民の青年・明智小五郎が通りがかり、「万引きを放置するのはおかしい」と、古本屋の主人と女房が姿を見せないことを訝しみました。そこで二人して古本屋に入った所、変わり果てた女房の死体を発見します。彼女は絞殺されていたのです。
警察の捜査の結果遺体の全身に無数の生傷があることが判明し、亭主が暴力を振るっていた可能性が浮上しました。しかし主人にはどうやっても崩せないアリバイがあります。
ならば強盗目的の外部犯かと思いきや、古本屋の出入り口は隣家と通りに面しており、不審な出入りがあればすぐ気付かれるはず。「私」は長屋の住人を疑うものの確証は持てず、目撃者として名乗り出た工業学校の学生たちは、「奥座敷にいた男の着物は黒かった」「いや、白だった」とそれぞれ異なる証言をします。
10日後……明智が下宿している煙草屋の二階を訪れた「私」は、自分の推理を述べます。
「青年たちの証言が食い違っていたのは犯人が白と黒の縦縞の着物を羽織っていたせい。それが障子の格子に区切られ、見る角度の違いで一色に見えたのだ。それはあの日の君の格好だろ」
さらに「私」は奥座敷の電燈に明智の指紋しか残ってなかった事実を持ち出し、目の前の明智こそが古本屋の女房殺しの犯人だと糾弾します。この推理を聞いた明智は笑い転げ、着物の柄の違いはよくある記憶違いに過ぎないと前置きしてから、既に解けていたD坂の殺人事件の真相を語り始めました。
曰く、犯人は近所の蕎麦屋の主人。根拠は彼女の全身に古本屋の女房と同じ生傷があることで、それを銭湯の客が目撃していたのです。
蕎麦屋の主人は生粋の残虐色情者(サディスト)、対する古本屋の女房は生粋の被虐色情者(マゾヒスト)。
ひょんなことから互いの性癖を知った二人はこっそり密会を重ねていたものの、倒錯プレイが行き過ぎて女房を絞め殺してしまったというのが、D坂の殺人事件のおぞましい真相でした。
明智が語り終えると同時に配達された新聞には、蕎麦屋の主人の自供が掲載されていました。
登場人物
- 著者
- 江戸川 乱歩
- 出版日
- 2015-09-19
江戸川乱歩『D坂の殺人事件』は1925年(大正14年)に発表された短編小説。名探偵明智小五郎のデビュー作としても名高く、これまで何度も実写映画化やドラマ化されています。通称は「D坂」。モデルとなっているのは東京都文京区の団子坂です。
江戸川乱歩文庫版の装画は銅版画家・多賀新の描き下ろし。角川文庫版は『文豪ストレイドッグス』の春河35が描いた江戸川乱歩になっています。2015年公開の映画『D坂の殺人事件』は「私」の配役を明智の妻・文代に、被害者を蕎麦屋の主人に変え、大胆なアレンジを加えています。
- 著者
- 江戸川 乱歩
- 出版日
- 2016-03-25
本作は明智小五郎のデビュー作ですが、主人公(語り手)は別人なのにご留意ください。明智小五郎は探偵役を担いますが、狭義の主人公には当てはまりません。
当初はレギュラー化の予定はありませんでしたが、思いのほか周囲の評判が良かったので、その後のシリーズにも続投させたそうです。モデルは講釈師の神田伯龍。
初登場時の明智は20代前半の若々しい青年で、自他ともに認める高等遊民でした。
高等遊民とは明治から昭和初期に掛けて流行した言葉で、「大学等の高等教育機関を卒業しながらも経済的な不自由がない為に労働に従事せず、趣味の読書や学術研究をして過ごす人種」を指します。今風にいうとニートでしょうか。
この頃はまだ未婚独身で探偵事務所も開いておらず、本で埋め尽くされた煙草屋の二階に下宿している設定。
余談ですが『二銭銅貨』の「私」も下駄屋の二階に下宿していたことを踏まえると、質素な暮らし向きの描写には、貧困に苦しんだ作者の経験が投影されているように感じます。乱歩も本にはお金を惜しまなかったんでしょうね。
5分でわかる『二銭銅貨』ネタバレ徹底解説 六畳間で同居する無職青年とその友人の暗号談義
1923年(大正12年)に発表された江戸川乱歩の『二銭銅貨』。本作は乱歩の出世作となった名短編で、現在でも根強いファンに愛されており、乱歩の短編集に必ず入っています。今回は時代を経てもなお色褪せない魅力を帯びた、『二銭銅貨』のあらすじと魅力をネタバレありで徹底解説していきます。最後までお付き合いください。
- 著者
- 江戸川 乱歩
- 出版日
してみると小林刑事は小林少年のプロトタイプでしょうか?本作では明智の引き立て役に甘んじたものの、作中でキレ者と評判を取る当たり、汚名返上の活躍が期待できます。
明智の理路整然とした名探偵ぶりはデビュー作から健在。蕎麦屋の女房にも古本屋の女房と同じ傷があることにヒントを得て、混迷の様相を呈したD坂の殺人事件の真相を見事に暴き出します。
正直な所「障子の格子が区切ったせいで白と黒の縦縞が一色に見えた」とする、「私」の主張にも説得力があります。
しかし明智はこれを「単なる記憶違い」とばっさり切り捨て、人間の思い込みの危うさ、先入観の厄介さ、人間心理の底知れなさを指摘しました。
トリックの巧拙を論じるよりも犯人の複雑怪奇な精神性や動機面を掘り下げて真相に辿り着く、いかにも乱歩らしい構成ですね。
そもそもタイトルからしてミスリード。本件は殺人事件に非ず、行為中の事故と言った方が正しい悲劇でした。事件を複雑にしているのは加害者と被害者の秘密の関係、世を憚る倒錯した性癖だったのです。
乱歩作品といえばエログロ変態性欲の宝庫。作中には酸鼻を極める殺人シーンや虐待シーンが登場し、刺激的なフィクションを悦ぶ、我々の残忍な好奇心を満たしてくれます。
本作もまた描写は控え目ながら、変態性欲を扱った本格探偵小説です。
事件解決の糸口になったのは遺体に残された夥しい生傷。これと同じものが蕎麦屋の女房の体にもあったことから、明智は蕎麦屋の主人と古本屋の女房の不倫を疑い、蕎麦屋の主人こそが絞殺犯だと突き止めました。
実は蕎麦屋の主人はサディスト、古本屋の女房はマゾヒストでした。
加虐性愛(サディズム)とは虐待行為に性的興奮を覚える傾向をさし、被虐性愛(マゾヒズム)は痛みを快楽に置き換える傾向をさします。
いずれも性倒錯の一種であり、世間にバレたら後ろ指をさされるのは確実。人付き合いの濃密な下町で客商売をしている蕎麦屋の主人と古本屋の女房にとって、致命傷になりかねない醜聞であるのは間違いありません。
一方で性格の不一致と同じかそれ以上に、性的嗜好の不一致がもたらす苦痛にも留意すべきです。極論パートナーとの行為で欲求不満が解消されない場合、別の相手を探すのは止められません。
蕎麦屋の主人と古本屋の女房の場合、不倫がガス抜きになっていたと思われます。
乱歩作品の中で最もサドマゾヒズムを突き詰めた作品と聞かれ、まずタイトルが挙がるのが『芋虫』。これは四肢を欠損した軍人とその妻の淫虐の宴を描いた短編で、芋虫のような見た目に成り果てた男が、若く美しい妻を凌辱するシーンには狂気が迸っています。
5分でわかる!発禁になったエログロ小説『芋虫』のネタバレあらすじ解説
猟奇的な作風で一世を風靡したミステリーホラー作家・江戸川乱歩。令和の時代でもなお熱烈な支持を受け続ける彼の、最大の問題作と聞いて何を思い浮かべますか? 今回は内容の過激さが祟り、発禁処分を下されるなど物議を醸した江戸川乱歩究極のエログロ小説、『芋虫』のあらすじをネタバレ解説します。
蕎麦屋の主人は妻を捌け口にしてなお足りず、奥ゆかしい古本屋の女房に至っては、一緒に暮らしている夫にさえ本当の欲求を隠していました。だからこそ互いに惹かれ合い、不倫関係に陥ったのでしょうか。
D坂の殺人事件は不幸にもエスカレートしていった、SMプレイの顛末でした。
SMにおける窒息プレイは定番中の定番、そして人は刺激に慣れていくもの。蕎麦屋の主人と古本屋の女房も最初は軽い気持ちで新しい趣向を試し、危険な快楽にどっぷり嵌まってしまったのではないでしょうか。
それが彼等の運命を狂わせ、本屋の女房を死に至らしめました。
古本屋の女房はまさか殺されるとは思わず、蕎麦屋の主人の方はまさか殺してしまうとは思わず……殺意の不在が招いた悲劇に胸が痛む、なんともやりきれない結末です。
最初から殺人事件と決めてかかっていたら、D坂の殺人事件は解けませんでした。
それが明智小五郎のすごい所。古今東西の本を読み漁った彼は、あらゆる人間心理の深奥に通じた洞察力を以て、「殺人に至る病の根深さと性癖の業の深さ」を看破します。
- 著者
- 江戸川 乱歩
- 出版日
- 2015-09-19
江戸川乱歩『D坂の殺人事件』を読んだ人には、同じく明智小五郎が登場する『怪人二十面相』をおすすめします。
本作は明智小五郎の助手の小林少年と、彼が率いる少年探偵団の面々が活躍する冒険活劇。
謎の怪盗『怪人二十面相』と明智小五郎が知略を尽くす対決には、子供から大人まで夢中にさせるロマンが詰まっています。『D坂の殺人事件』から数年後の設定なので、推理力に磨きをかけてより紳士になった、明智小五郎のスマートさが際立ちます。
- 著者
- 江戸川 乱歩
- 出版日