なにかと慌ただしく過ぎていく日常のなかで、心の疲れを感じることもありますよね。そんなとき、美しい言葉に触れると、健やかさを取り戻すことができるかもしれません。ちょっと立ち止まって詩を読んでみませんか?おすすめ詩集10選を紹介します。
続いて、茨木のり子作『倚りかからず』をご紹介します。1926年生まれの茨木が73歳のときに出版した詩集です。
茨木は、若いころ「自分の感受性くらい」という詩のなかで「自分の感受性ぐらい 自分で守れ ばかものよ」と表現しました。そんな茨木らしく、背筋がしゃっきりと伸びた作品が多いのがこの詩集です。
- 著者
- 茨木 のり子
- 出版日
かくしゃくとした雰囲気のある本書ですが、その空気ばかりが魅力なのではありません。
「もはや
できあいの思想には倚りかかりたくない
もはや
できあいの宗教には倚りかかりたくない
もはや
できあいの学問には倚りかかりたくない
もはや
いかなる権威にも倚りかかりたくはない
ながく生きて
心底学んだのはそれぐらい
じぶんの耳目
じぶんの二本足のみで立っていて
なに不都合のことやある
倚りかかるとすれば
それは
椅子の背もたれだけ」
(『倚りかからず』より引用)
「倚りかかりたくない」の繰り返しからの「椅子の背もたれ」のくだりが、ユーモラスですね。このようなユーモアも、茨木の作品をより魅力的なものにしています。
ほかにも、「笑う能力」という作品では、最近経験した聞き間違いや書き間違いを挙げ、最後に「みずからの膝が笑うようになってきた」と、落とし所を鮮やかにつくってみせています。
「店の名」という詩のなかで、友人のやっている古書店から「詩集は困る」と言われてちょっと困ってみせている姿は、いかにも等身大。
このように、茨木の作品には随所に読者を楽しませる仕掛けが散りばめられています。きっと彼女はサービス精神が旺盛な方だったのだろう、と想像してしまうほどです。
彼女が作品の中にふんだんに盛り込んでくれている、詩人の飾らない生の姿をつい追いかけてしまいたくなります。齢を重ねることで次第にあらわれてきた身体的な変化について、しめっぽくなるのではなく、カラッと明るく笑いに変えてしまう、そのさじ加減が絶妙だとも言えます。
この『倚りかからず』は、詩集としては異例の15万部のベストセラー本となったことでも話題を集めました。この詩集にはそれだけ、人々の心を強く惹きつけるものがあるということでしょう。
73歳の詩人の等身大の姿が浮かび上がってくる作品たち。さりげないユーモアがぴりりと効いていて、ページをめくる手が止まらなくなります。
まずご紹介したいのが、吉野弘の詩集『二人が仲睦まじくいるためには』です。
この本のタイトルは、吉野の代表作「祝婚歌」の冒頭のフレーズからとられています。「祝婚歌」は、結婚式のスピーチで引用されることも多い作品。夫婦関係に限らず、他人と上手に関係を築くために大切なヒントが盛り込まれています。
人が人とつながるなかで、時には摩擦やすれ違いがあっても、根底には必ず愛が溢れている……この詩集には、吉野のそんな人生観がつまっています。読んだら自然に元気が湧いてくること間違いなしです。
- 著者
- 吉野 弘
- 出版日
「生命は
自分自身だけでは完結できないように
つくられているらしい
花も
めしべとおしべが揃っているだけでは
不充分で
虫や風が訪れて
めしべとおしべを仲立ちする
生命は
その中に欠如を抱き
それを他者から満たしてもらうのだ」
(『二人が仲睦まじくいるためには』より引用)
声に出して読んでみると、この詩のおおらかさに、優しく包みこまれるような感覚になります。「もっと肩の力を抜いていいんだよ」。この詩には、そんなメッセージが込められているのではないでしょうか。
『汚れっちまった悲しみに…』は、中原中也の詩集です。表題作の「汚れっちまった悲しみに…」は、教科書にも掲載されていたので、聞いたことがある、という方も多いのではないでしょうか。
中原中也は1907年に生まれ、明治から昭和初期を生きた詩人です。そう聞くと、古めかしくて読みづらいだろう、という印象を持たれるかもしれません。しかし、実際にページを開いてみると、意外にも共感できるフレーズでいっぱいなのです。
- 著者
- 中原 中也
- 出版日
たとえば、「嘘つきに」という一編。
「私はもう、嘘をつく心には倦きはてた。
なんにも慈しむことがなく、うすっぺらな心をもち、
そのくせビクビクしながら、面白半分ばかりして、
それにまことしやかな理窟をつける」
(『汚れっちまった悲しみに…』より引用)
思わず心の中で「わかる~」と叫んでしまうような、誰にでも経験のある情景を描いています。つきたくない嘘をはずみでついてしまったり、言い訳してしまったり。あとで振り返って、そんな自分のことが何となくうすっぺらに感じられて嫌になってしまうところも、よくわかりますよね。
そんなことの繰り返しで(かどうかはわかりませんが)疲れきってしまった自分の心のことを、中原は別の詩で「ひからびたおれの心」と表現しています。
「ひからびたおれの心は
そこに小鳥がきて啼き
其処に小鳥が巣を作り
卵を生むに適していた」
(『汚れっちまった悲しみに…』より引用)
これも「そうそう!」とうなずきたくなりますよね。悲しいことやつらいことがあって心が折れそうになったとき、心の中に小鳥がきて巣をつくってくれたら、どんなにか明るく元気づけられることでしょうか。この感覚はもしかしたら、オフィスワークに疲れたときに急にペットを飼いたくなる衝動にも似ているかもしれません。
長田弘の『世界はうつくしいと』には二十七編の詩がおさめられています。長田自身はあとがきでこの詩集のことを「寛ぎのときのための詩集」だと語っています。
細心の注意をはらって選ばれた言葉が静かな空気を作り出している詩集。全体に満ちている、言葉にしがたい不思議な静かさが、まるで森林のなかを歩いているような、そんな「寛ぎ」の空気のなかに導いてくれます。
- 著者
- 長田 弘
- 出版日
- 2009-04-24
「ことばが信じられない日は、
窓を開ける。それから、
外にむかって、静かに息をととのえ、
齢の数だけ、深呼吸をする。
ゆっくり、まじないをかけるように。
そうして、目を閉じる。
十二数えて、目を開ける。すると、
すべてが、みずみずしく変わっている」
(『世界はうつくしいと』より引用)
とてもおだやかな言葉ですが、読んでいると胸がわくわくします。ゆっくり過ごすことのできる休日に、深く椅子に腰かけてページをめくるのにぴったりの本ではないでしょうか。
詩のなかの長田の呼吸のリズムに合わせて、私たちの肺のなかにも、ゆったりとした詩の世界が広がるのが感じられます。そして読後にひろがるみずみずしさがすばらしい!
石垣りんの『空をかついで』に収録されている詩の多くは、「鍋」や「シジミ」や洗濯ものなど、私たちの暮らしのなかから題材をとったもの。日々の暮らしにしっかりと根差したところから生まれた詩がまとめられている1冊です。ご飯をつくったり、洗濯をしたりという日常の仕事が、どんなに明るく力強く、美しいものか。石垣の詩は私たちに語り掛けてくれているようです。
- 著者
- 石垣 りん
- 出版日
「みんな いちにち まいにち
汲み上げる
深い空の底から
長い歴史の奥から
汲んでも 汲んでも 光
天の井戸。
(日本の里には 元日に 若水を汲む
という 美しい言葉が ありました)
昔ながらの
つるべの音が 聞こえます。」
(『空をかついで』より引用)
「水を汲む」という、一昔前までは一般的な家事であった労働について「汲んでも 汲んでも 光」と書く石垣。家事や労働の奥に「光」をとらえて離さない石垣のまなざしに、勇気づけられる作品です。
仕事でくたくたになって帰宅した日など、炊事や洗濯なんてやりたくない……という気分になってしまうこともありますよね。そんなとき、5分でも自分のための時間を作って、この詩集を開いてみるのはどうでしょうか?
初心にかえって、日々の生活を慈しむ気持ちが取り戻せるかもしれません。
「日本近代詩の父」と称される朔太郎は、現代詩を語るうえで欠かせない役割を果たしており、一度はその詩に触れておきたいという詩人です。
- 著者
- 萩原 朔太郎
- 出版日
- 1981-12-16
近代を生きる人々の自由な感情や意思を表現するのには、これまでの文語的な定型詩ではできないとし、口語的な自由詩を書くことを推し進めた萩原朔太郎。その詩は、それまでの詩作の概念の枠を打ち破る革新性にあふれています。
「こころをば なにに たとへん
こころはあじさゐの花
ももいろに咲く日はあれど
うすむらさきの思い出ばかりはせんなくて」
(『こころ』より引用)
「こころ」という、形のないものを言葉で表そうとしたとき、朔太郎の感性に触れると、このような表現になって現れます。規則的な形式をなくした時、ただ単に「自由に表現できる!」と喜べるかというと、実際のところそう簡単なものではありません。
「自由」は、ともすると無秩序に陥りやすく、力量や感性のないものが向き合うと、芸術の分野では逆にこの「自由」は重圧に変わり、何も生み出せなくなるともいえます。革新的な動きがあった後、すぐに「~主義」「~派」という形式美に陥ってしまうのは、その所以です。
「こころは夕闇の園生(そのう)のふきあげ
音なき音のあゆむひびきに
こころはひとつによりて悲しめども
かなしめどもあるかひなしや
ああこのこころをば なにに たとへん」
(『こころ』より引用)
感性を研ぎ澄まし、命を削るように詩作した朔太郎の作品は、自由詩を美しく結実させることに成功した響きのようなものを感じ取ることができます。
『折々のうた』は、現代詩人を代表する一人「大岡信」が、1979年~2007年までの29年間6762回に及び、朝日新聞に連載したものです。
大岡の感性で日本語の豊かな表現を集めた作品。連載の年数、回数もさることながら、日本語というものに向き合った詩人の情熱も感じられる詩集となっています。
- 著者
- 大岡 信
- 出版日
- 2003-05-20
これだけ身近でありながら、真剣に「日本語とは……」などと考えたことは、あまりないのではないでしょうか。ましてや、「日本語の豊かさ・美しさ」と言われても、実感がわかないというのが正直なところでしょう。
『折々のうた』は、言葉と向かい合う一人の詩人が、日本語の豊かさ・美しさを伝えるために、厳選して集めてきた詩がたくさん詰まっています。
「また蜩(ひぐらし)のなく頃となつた
かな かな
かな かな
どこかに
いい国があるんだ」
(『折々のうた』より引用)
この詩をよんだ「山村暮鳥」の人物に触れ、作品の解説を大岡がするという形をとっています。ただ、説明・解説をするとは言っても、大岡自身も詩人であるだけに、読み手の想像力を奪ってしまうようなことはしていません。取り上げた詩歌の言葉がもつ奥深さに触れる、きっかけとなるようなものに留めています。
俳句・短歌から漢詩・現代詩に至るまで、詩人「大岡信」が選び抜いた作品は、言葉の宝庫ともいえるでしょう。これまで「詩歌」というものを学校の授業以外では読んだことのないという人にも、日本語の奥深さに触れるきっかけ作りにお薦めの詩集です。
日本の現代詩を語るうえで欠かせない詩人と言われる、吉岡実。
その作風は、シュールレアリズム的な世界を言葉で表出しているように思われています。しかし、何かに例えてしまうと、吉岡の持つ詩の凄みが逆に伝わらなくなってしまうので、何はともあれ、とりあえずその詩に触れてもらいたいと思います。
- 著者
- 吉岡 実
- 出版日
「四人の僧侶
一人は枯木の地に千人のかくし児を産んだ
一人は塩と月のない海に千人のかくし児を死なせた
一人は蛇とぶどうの絡まる秤の上で
死せる者千人の足生ける者千人の眼の衡量の等しいのに驚く
一人は死んでいてなお病気
石塀の向うで咳をする」
(『僧侶』より引用)
9編からなる吉岡の代表作『僧侶』の8から抜粋したものです。
一見、無茶苦茶な言葉の羅列に感じてしまうかもしれませんが、何か心を引っかかれたような感覚に襲われたのではないでしょうか。いえ、おそらく人それぞれ、その感覚は違うのだと思います。正直なところ「なんだこれ……」で終わってしまう人も多いのではないかと思われます。
ただ、詩というものを考えるとき、万人に対して同じように感じてもらえるものなのかというと、決してそうではありません。ある特定の人たちの、心を揺さぶった時、それは単なる言葉の羅列ではなく「詩」となって存在感を放つのではないでしょうか。
言葉というものは、一つ一つが意味を持っているため、絵画で表現するような完全な抽象は描くことはできません。個別に意味のある「言葉」を、ただただ無茶苦茶に並べれば、幻想的な風景が生み出せるかというと、そう簡単なものでもないです。吉岡が生み出す作品には、この「言葉」と「言葉」が感性で絶妙に掛け合わされ、混ざりあい融合した時に、一種の凄みのような力を発します。
「その男はまずほそいくびから料理衣を垂らす
その男には意志がないように過去もない
鋭利な刃物を片手にさげて歩き出す
その男のみひらかれた眼の隅へ走りすぎる蟻の一列
刃物の旅面で照らされては床の塵の類はざわざわしはじめる」
(『過去』より引用)
ぜひ、このような凄みのある吉岡の詩を、一度楽しんでみてください。
悲痛であるはずのものが、なぜかどこか明るく感じる。悲惨な事象であるのに、なぜか笑いさえ覚えてしまう。そんな対極的なものを内包し存在感と輝きを発しているものに接したことはあるでしょうか。
田村隆一の詩を読んでいると、悲痛な内容にも関わらず、どこか軽快で陽気ささえ感じてしまう瞬間があります。字面としては、同じ言葉を用いているのに、どうしてこんなにも心に受ける印象が違ってくるのだろうと不思議になってきます。
- 著者
- 田村 隆一
- 出版日
「わたしの屍体を地に寝かすな
おまえたちの死は
地に休むことができない
わたしの屍体は
立棺のなかにおさめて
直立させよ
地上にはわれわれの墓がない
地上にはわれわれの屍体をいれる墓がない」
(『立棺』より引用)
死して尚、横たわることはできず、棺を立ててその中で直立させよと田村は歌っています。正直、なんのことだか分からない……しかし、心を打ちぬいてくる確かな感触が、その言葉には宿っているのです。
「わたしの屍体を火で焼くな
おまえたちの死は
火で焼くことができない
わたしの屍体は
文明のなかに吊るして
腐らせよ」
(『立棺』より引用)
冷静に見ると、凄いことを書いているのですが、その言葉から伝わってくるのは、暗いイメージではないところが、田村の詩の魅力です。優れた芸術は、対極の要素を内包して、受け手の心を揺さぶり、存在感を放ちます。
「一篇の詩が生れるためには、
われわれは殺さなければならない
多くのものを殺さなければならない
多くの愛するものを射殺し、暗殺し、毒殺するのだ」
(『四千の日と夜』より引用)
言葉で表現してあるのに、それを言葉で説明しようとすると、うまくできないことを痛感させられる。優れた詩は、そういうものなのでしょう。田村隆一は、一つの「詩域」ともいうべきものを確立した、戦後日本詩壇を代表する詩人です。
そんな田村の受け手の心を揺さぶる詩を、ぜひ一度手に取ってみてください。
「つまづいたって
いいじゃないか
にんげんだもの」
(『にんげんだもの』より引用)
恐らく、知らない人の方が少ないのではないかと思われるぐらいに、一世を風靡した詩、相田みつをの『にんげんだもの』は、苦難の人生の末、相田が60歳の時に出した初詩集の題名にもなっている詩です。
書家でもあったみつをが、この独特な書体で平易すぎるとも思えるような詩を書くに至ったのは、どうしてなのでしょうか……。
- 著者
- 相田 みつを
- 出版日
- 1984-04-15
平易な言葉に徹し、自分の手で筆と墨を使って表現する。それは相田が、自分の思いを世の中に具現化しようとしたとき、試行錯誤し悩んだうえでの、最適な方法として洗練された形が、あの平易な言葉と独特の書体の融合だったのでしょう。それは、今まで誰も成しえなかった境地であり、そういう意味では、前段の吉岡実や田村隆一と同じ地平にいるのではないでしょうか。
相田の作品に触れると、いつも「剛毅朴訥」という四字を思い浮かべます。飾り気を極限まで削ぎ落し、紙の上をグイグイと力強く這うようにして書かれた文字は、独特な力を内側に秘めた詩として立ち上がっています。それは、人生に裏打ちされた「詩」であり、内側から突き出てくるものを形にした「書」です。
相田の場合、自分のことよりもまず、弟のことを考えてくれた敬愛する2人の兄を戦争に奪われたことと、生涯の師に出会い禅を学んだこと、この2つが彼の中に大きな軸を形成しています。
「詩」そのものを読む前に、詩人の生涯を調べるのは、自分の感性が開くのを制限してしまうので、とりあえず、まずは言葉に触れてみることをおすすめします。そして、言葉に込められているものを素直に感じ取り、何か心に染みてくるものがあれば、2編、3編と読み進めてみて下さい。
「道はじぶんでつくる
道は自分でひらく
人のつくったものは
じぶんの道にはならない」
(『人間だもの』より引用)
そして、言葉そのものに触れた後、詩人の人生をたどってみると、より深く「詩」が心に響いてくるようになるでしょう。
おすすめ詩集10選、いかがでしたでしょうか?
小説に比べて一編の長さが短く、気軽に読めるところも詩集の魅力です。普段時間がなくてなかなか本を読むことができないという人も、詩集からチャレンジしてみてはどうでしょうか。美しい言葉に心が潤うはずです。