24年という短すぎる生涯の中で、数々の名作を書き上げた樋口一葉。息を呑むほどの美しい文体と、読み手を飽きさせない物語から、文学界に与えた影響は計り知れません。彼女の素晴らしい作品を通して、明治の世界観を堪能してみてはいかがでしょうか。
樋口一葉は1872年、東京で農家の娘として生まれ、幼少の頃から読書に親しみながら育ちました。1896年、肺結核により24歳という若さで死去するまでの短い生涯で、22編もの作品を書き残しています。
彼女の生活は決して裕福ではなく、女性に学問は必要ないという母の考え方に苦しむこともありました。そのような樋口一葉の経験は小説に大きく反映されおり、名作『にごりえ』では実の祖父を登場させるなど、実在した人物をモデルに使うことも少なくなかったようです。
美しく研ぎ澄まされた文体で高く評価されている彼女ですが、作品の魅力はそれだけに留まりません。彼女の書く文章は美しいだけではなく、ストーリーも非常に面白いのです。あらゆる情報を敏感に読み取り、それを的確に文章へと組み込む才能に優れていたのでしょう。
どの作品にも、実際に経験したことがある人にしか表すことのできないようなリアリティがあります。そして、比較的短い物語の中で表現される人間模様は深く複雑で、読み返すたびに違った表情を見せてくれます。その巧みなセンスは、短編小説の天才と呼ぶにふさわしいのではないでしょうか。
樋口一葉の代表作と言われる『たけくらべ』。思春期にさしかかった子供たちが、否応なしに大人へと変わっていく過程が躍動感のある文章で鮮やかに書かれています。10代特有の微笑ましくていじらしい悩みは、時代が変わっても共通のものであるのだな、と感じられます。
物語は14歳の美登利と15歳の信如、そして13歳の正太郎を中心に進んでいきます。美登利は負けん気の強い女の子で、その美しい容姿と気立ての良さから近所の人気者です。1つ年下の正太郎は美登利のことを慕っており、周りに冷やかされるほど仲の良い二人ですが、実は美登利は彼を男性として全く意識していません。
表向きは悪く言いながらも、本当に気になっているのは同じ学校で1つ年上の信如なのです。しかし、美登利と信如にはお互いに意識しながらも、決して結ばれることができない理由があります。
- 著者
- 樋口 一葉
- 出版日
近所の子供たちと無邪気に遊ぶ美登利ですが、ゆくゆくは姉と同じように遊女となり生きていく身。そして美登利とは対照的に、信如は父の跡を継ぎ僧侶となる運命にあるのです。少女と少年であった二人は、遊女と僧侶へと変わるべき時を迎えます。
樋口一葉のこの物語を読んでいると、雑踏のざわめきや雨の音すらも感じられるから不思議です。そして、最後に美登利の家に水仙の造花が投げ込まれているシーンなどは、溜息がでるほど切ない美しさがあります。爽やかな少年少女の物語だけでは終わらない、大人になることの残酷さを描いた樋口一葉の本作品。今もなお、色褪せることのない物語は、これからも多くの人を魅了していくことでしょう。
物語は、遊女たちが通りのお客さんに声をかけて誘い入れる、活気溢れるシーンから始まります。遊女として生きる主人公お力は、口が達者で器量もいいことからお店の人気者です。ある日、店に呼び込んだ結城という男がお力を気に入り、それから結城は店に頻繁に出入りするようになります。気丈に振る舞いながらも、どこか寂しげなお力。熱心に話を聞いてくれる結城に、少しずつ弱さをさらけ出していきます。
結城とは別の、源七という男もお店をたまに訪ねてくるのですが、お力は顔を見ることもなく追い返してしまいます。源七は、かつてお力に夢中になりすぎたあまり、商売に失敗して苦しい生活を送っているのです。実はお力はそのことに責任を感じており、源七の子供から「鬼」と呼ばれていることに心を痛めます。
源七とお力は直接顔を合わせることも、言葉を交わすこともありません。既に二人は別々の人生を送っているように見えるのですが、お力が源七の子供にカステラを買い与えたことをきっかけに、物語は思わぬ方向へと進んでいきます。
- 著者
- 樋口 一葉
- 出版日
前半部の、思わずクスッと笑ってしまうユーモアに富んだ人物描写から一転して、後半部は決して逃れることのできない深い闇に飲み込まれていくような展開となっています。中でも注目すべきは、怒りを抑えきれなくなった源七の妻が、お力への憎悪を一気に吐き出すシーンでしょう。読者を圧倒する樋口一葉の迫力ある文章に、文字の持つ力の凄さを改めて思い知ります。
そして、ラストで読者に衝撃を残しながらも、物語は静かに終わっていくのです。
お金持ちの原田家に嫁いだお関という主人公の女性が、十三夜に実の両親を訪ねてきます。遅い時間に娘が来たことに驚く二人ですが、久しぶりに会えたことが嬉しく、喜んで迎え入れます。しかし、お関の口から語られたのは衝撃の事実でした。
お関が原田家に嫁いだのは、近所の子供と羽子板で遊んでいたときに、通りがかった原田の車に追羽根を落としたことがきっかけでした。羽根を取りに行った美しいお関を見て、是非お嫁にほしいと頼まれたのです。お関の家は原田家のように裕福ではないため、身分の差から一度は断るのですが、相手方からの熱心な要望により最終的に結婚を承諾します。
出会いだけを聞くと、ロマンチックな話ではないかと思いますが、その後の展開は悲惨なものでした。お関の美しさに惹かれて結婚した夫は、子供ができてから態度を急変させ、酷い言葉を浴びせるようになります。とうとう我慢の限界を迎えたお関は、離婚する意思を固め、実家へと戻ってきたのです。
- 著者
- 樋口 一葉
- 出版日
娘に深く同情した母は、すぐに離婚するようにと感情的に言い立てますが、それに対し父は極めて冷静な対応。今の暮らしを捨てたとしたら、さらに不幸になるに違いないと教え諭します。結局原田の家に戻ることを決めたお関は、帰り道に偶然にも昔の知り合いに再会します。その人物は、かつてのお関の想い人でした。
人の移り行く気持ちが繊細に書き表された樋口一葉の本作品。月の夜に起きた出来事は、どこか夢を見ているような幻想的な雰囲気があります。
また、本作品が書かれた時代では、女性にとっての離婚は恥とされていました。辛い目に遭いながらも耐え忍んだ、お関の苦悩が伺えます。この時代の価値観や女性の生き方を知る上でも、樋口一葉の優れた作品と言えるのではないでしょうか。
主人公は18歳のお峯。健気でまっすぐな性格で、思わず応援したくなるような女の子です。お峯は山村家というお金持ちの家で、女中として働いています。雇い主は厳しいですが、お峯は一生懸命働き、伯父一家のところへ遊びに行くことを許されます。
お峯は両親を亡くしているため、伯父と伯母を実の両親のように慕い、一人息子の三之助のことも弟のように可愛がっています。久しぶりに会いに来たお峯を、伯父一家は暖かく迎えてくれました。しかし、病気になった伯父に代わり、幼い三之助が働きに出ているという悲しい事実を知らされます。そして、借金延長のための金銭を、伯父一家に用意することを約束して、奉公先へと帰っていくのです。
- 著者
- 樋口一葉
- 出版日
- 2015-12-31
この物語で、お峯の他に重要な人物となるのが、山村家の一人息子である石之助です。妹たちとは母親が異なる彼は、とんでもない不良息子で家族から疎んじられています。大晦日に実家に戻り、威張り散らす石之助に対し、継母はとても心中穏やかではいられません。
そんな状況の中、お峯は伯父に渡すお金の話をしますが、聞き入れてもらえず、途方に暮れた彼女はついにお金を盗んでしまいます。自分の犯した罪から、自殺することすら考えるお峯。しかし、最後にはあっと驚く展開が容易されているのです。
話のテンポが良く、最後まで一心に読み切ることのできる樋口一葉の本作品。物語のその後について、自由に想像を巡らせることも楽しみの1つとなっています。
樋口一葉の作品の中でも、ひときわ短編であるのがこの『わかれ道』です。目の前にはっきりと情景が現れるような、生き生きとした描写が魅力となっています。
主人公は吉三という傘職人の青年と、吉三よりも年上であるお京という女性。物語は、吉三が夜にお京の家を訪れる場面から始まります。二人は恋人の関係ではなく、背が低く暴れん坊の吉三のことを、お京は弟のように可愛がっているのです。また、冒頭から交わされるテンポの良い会話は読み進めるのが楽しく、微笑ましいものとなっています。
天涯孤独の吉三は、お京だけが自分の理解者であり家族のような存在です。お京のような女性は、いい人に気に入られて幸せに暮らすべきだとも考えています。ただし、お妾になることを勧めているわけではないよ、とも告げます。
- 著者
- 樋口 一葉
- 出版日
- 2005-10-05
しかし、そんな幸せな時間もつかの間、二人に別れがやってきます。今の生活に嫌気がさしたお京が、妾に行くことを承諾してしまうのです。吉三は必死に止めにかかりますが、お京は考えを変えようとはしません。
最後のシーンでは、本を読み終えたことも忘れじっと見入ってしまうような、大きな余韻が残ります。短い小説とは思えないほどの、深い読後感が非常に印象的な樋口一葉の1冊です。
これらの作品はどれも、明治時代の女性が中心人物となっています。そのため、理解しがたい価値観や、ピンとこない職業があるのではないでしょうか。しかし、樋口一葉の小説には、実際は見たことがない世界でも、まるで見てきたかのような錯覚を起こすほどのリアリティがあります。彼女が作り出す、明治時代の世界に入り込んだとき、あなたを取り巻く周りの景色も違って見えるかもしれません。