約60年の作家生活の中で、国語の教科書にも取り上げられるような作品を含め、たくさんの名作を生みだした井伏鱒二。彼の作品に触れたことがある人も多いと思います。
広島県安那郡加茂村(現・福山市)にあった井伏家は、室町時代まで遡れる旧家であり、「中ノ土居」という屋号もある地主。その次男として、1898年、井伏鱒二は生を受けました。
旧制広島県立福山中学校(現・広島県立福山誠之館高等学校)に入学した井伏鱒二は、作文は得意でも成績はいまひとつだったらしく、中学3年生ころから画家を志すようになりました。なお、余談ながら、同中学校の庭には池があり、2匹の山椒魚が飼われていたといいます。もちろん後の作品「山椒魚」に結びついたことは言うまでもありません。
卒業後、奈良や京都を写生しながら旅行した際に、宿の主人が日本画家・橋本関雪と知り合いだったため、井伏鱒二はスケッチを渡して入門を申し込みます。しかし断られてしまい、そのまま帰郷することになるのです。
当時、文学好きの兄が同人誌などに投稿していたことから、勧められて早稲田大学文学部仏文学科に入学します。既に文壇で活躍していた岩野泡鳴、谷崎精二などを訪ねるようになりましたが、三回生のときに教授と衝突。休学してしまいました。
その後、復学を希望したものの、この教授の反対があって実現できず、中退してしまいます。またこの頃、親友だった青木が自殺したことで、同時期に在籍していた日本美術学校も中退。人生のターニングポイントになったのでした。
1923年、同人誌『世紀』に参加し、小説「幽閉」を発表。その翌年、佐藤春夫に師事するようになります。なおこのデビュー作「幽閉」は1929年に改作され、「山椒魚」として『文芸都市』誌に発表されます。
井伏鱒二は小説を書く以外にも、ヒュー・ロフティングの『ドリトル先生』シリーズの翻訳を手掛けています。また、唐代の詩人・于武陵の詩『勧酒』につけた「サヨナラダケガ人生ダ」は妙訳として知られています。
谷川にある岩屋をねぐらとしている山椒魚は、自分が外に出られなくなっていると気づきました。二年間の岩屋生活で体が大きくなってしまい、頭が「コロップの栓」みたいに出入口につかえていたのです。ほとんど動き回ることもできない岩屋で山椒魚は虚勢をはるものの、外に出て行く方法はなにもありません。
出入口から外を眺めて、周囲を嘲笑しながら過ごす山椒魚の岩屋の中に、ある夜、小海老がまぎれこみ……。
- 著者
- 井伏 鱒二
- 出版日
- 1948-01-15
前述したように、井伏鱒二の学生時代に書かれた習作「幽閉」を改稿した作品です。同人誌『文芸都市』に初出後、作品集『夜ふけと梅の花』に収録されてからもたびたび著作集の巻頭を飾っています。
ちなみに、井伏鱒二自身は「最初に発表した作品ではあるが、処女作ではない」としているものの、このように必ず巻頭収録にするため、作家としての出発点と考えてはいたようです。
最初に発表した作品であったがゆえに思い入れが深かったのか、作家生活のほぼ大半を占める60年間、彼自身の手による改稿が加え続けられました。ただそれは、主に文章表現の訂正程度です。
ところが井伏鱒二は、高校の国語教科書にも取り上げられて、広く親しまれているこの作品を、1985年の自選全集に収録する際に、結末部分を大幅に削除してしまうのです。
削除することによって、どのような印象に変わったのか。なぜ、削除したくなったのか。教科書で読んだこと「山椒魚」ですが、最後の改訂版と読み比べてみるとおもしろいでしょう。
突然ですが、ジョン万次郎をご存じでしょうか?
本名は中濱萬次郎。江戸時代の末期に土佐国中濱村(現・高知県土佐清水市中浜)の半農半漁の家に生まれたために、幼いうちから働いて家族を養い、寺子屋へも通えず、読み書きもほぼできませんでした。
そんな彼は14歳のとき、嵐に遭って漁師仲間とともに遭難します。5日半の漂流生活の後、伊豆諸島の無人島に漂着して生活していたところ、アメリカの捕鯨船ジョン・ハイランド号に救助されました。
そこからなんと、船長に頭の良さを気に入られ、また万次郎自身も希望したため、一緒に航海へ出ることになります。そしてはじめて見た世界地図で、日本の小ささに驚くのです。このとき、船名にちなみジョン・マンとの愛称をつけられています。後のジョン万次郎の誕生です。
帰国後の万次郎は、薩摩藩の洋学校の英語教師を務め、和洋折衷船の建造に助言し、土佐藩の藩校の教授にも任命されました。このときに後藤象二郎、岩崎弥太郎を教えています。また、黒船来航の折には幕府に召喚され、日米和親条約締結に尽力しました。
- 著者
- 井伏 鱒二
- 出版日
- 1986-09-29
学のない貧しい少年が家族のために出た漁で遭難するも、その後アメリカの文化に触れ、日本という国の新しい始まりにまで関わることになります。そんな数奇な運命を描いたのが、この短編『さざなみ軍記・ジョン万次郎漂流記』です。
記されているのは、新聞記者から借りた資料をもとに書いた事実のみの圧縮ではありますが、万次郎の努力や人柄が伝わってきます。井伏鱒二の作品の中でも、特に良作と名高い一冊です。
「ジョン万次郎」という呼称も、井伏のこの短編で広まったもので、それ以前には使用されていませんでした。それほど影響を残した作品なのです。
とても読みやすい本書。当時の日本を知ることもできますし、おすすめです。
「こんな看板が、最近、蒲田駅前の広場のはずれに立てられた。大きな看板である。」というさらりとした文章で物語は始まります。
蒲田駅前に産科と内科を開き、土地の警察医も務める三雲八春は、休診日だというのにつぎつぎと患者が飛び込んで来て、結局は大忙しの一日を送る羽目になります。登場するひとびとは皆わけありで、三雲はなんとかしてやろうと奮闘しますが、ときには無力感を感じてしまうこともあるのです。
- 著者
- 井伏 鱒二
- 出版日
終戦まもない世相と当時のひとびとの姿を活き活きと描いていて、なんだか忘れていたものを思い出すような、ほんのり温かくなる名作です。
ちなみに登場する三雲医院は、蒲田に実在する医院がモデルなのだとか。モデルにされるということは、その医院にこんな温かな人情家のお医者さんがいたのでしょうか。そんな背景を考えつつ、井伏鱒二の描く人情物語を楽しんでみてください。
昭和30年代初頭、上野駅前の柊元旅館で働く番頭の生野次平は、女に対して強引な態度は取れないし、仲間からもからかわれる程度の自称好色家です。
ある夜、遅い時間に風呂につかっていると、女が二の腕をつねって去って行きました。彼女はパトロンとともにやってきた於菊。面影は変わっていましたが、生野にとって因縁のある女でした。
- 著者
- 井伏 鱒二
- 出版日
- 1960-12-15
このように因縁のある女性との再会からはじまり、番頭仲間が愛人同伴の湯治を目論んだがゆえの騒動、というのが物語の軸となります。他にも出身地による客の性質の違いや呼び込みの手管、修学旅行の学生たちが巻き起こす騒動、美人おかみの飲み屋に集まる番頭仲間たちの珍妙さなども織り込みつつ、時代の波に翻弄される老舗旅館の番頭たちを描く傑作小説です。
於菊に美人おかみといった、自分に気がありそうな女性を前にしても一歩を踏み出せない生野の姿は、もどかしくもどこか共感してしまいます。古き良き時代の無骨で不器用な男を応援しつつ、読んでいただきたい1冊です。
原子爆弾投下より数年後の広島県東部。広島市内で被爆した閑間重松・シゲ子夫妻は後遺症で重労働をこなすことができず、養生のための行動で村人たちから怠け者扱いされてしまい、村の被爆者仲間とともに鯉の養殖をはじめようとします。
重松と同居中の姪・矢須子は縁談のたびに「市内で勤労奉仕中に被爆した被爆者」という噂が流れ、まったくまとまりません。そんなとき、矢須子に良い縁談が持ち上がり、なんとしてもまとめるたい重松は、彼女に健康診断を受けさせると共に、昭和20年8月当時の自分の日記を清書することにしたのです。それは日記により、矢須子が原爆のとき広島市内にはいなかった=被爆者ではないことを証明するためだったのですが……。
- 著者
- 井伏 鱒二
- 出版日
- 1970-06-29
井伏鱒二の『黒い雨』は、被爆者である重松静馬の『重松日記』と、やはり被爆した軍医・岩竹博の『岩竹日記』をもとにした作品です。そのため主人公の名前も重松静馬の名前からもらっています。連載時のタイトルは「姪の結婚」でした。
なおこの事実に関連して、井伏鱒二の死後、歌人の豊田清史が、『黒い雨』は重松静馬の日記をそのまま使用したものに過ぎないと主張した事実があります。この主張に対して、近代文学学研究者の相馬正一は「読者に『黒い雨』がいかにも『重松日記』の盗作であるかのような印象を与えた」と反論し、『重松日記』本文を改竄して『黒い雨』本文に近づけるような操作までおこなっていると批判しました。豊田の主張にはいくつもの虚偽があったことが、後に判明しています。
当の『重松日記』も刊行されていますので、『黒い雨』がその日記をそのまま使用したものに過ぎないかどうかは読者自身が確かめてみてください。2冊を読み比べてみることで、その真実と、『黒い雨』執筆の意味も見えてくることでしょう。
物語はシンガポールでの、日本軍の宣伝部隊の説明から始まります。この宣伝部隊が拠点にしているビルの近くに骨董屋さんがあり、なぜかペンキ屋さんと言い争っています。宣伝部隊所属の木山喜代三(作者本人がモデル)が事情を聞くと、新しくこしらえた看板の日本語があっているかあっていないかで揉めているそう。そこに、この看板の文字の手本を書いたベン・リヨン少年が現れ、木山とリヨン一家の関係が始まります。
井伏鱒二は第二次世界大戦中、陸軍の軍属として、当時日本軍の占領下にあった昭南(現在のシンガポール)に赴任しました。そのときの街の様子とそこに暮らす人々を、小説として落とし込み、戦争中(1942年)に発表したのが『花の町』になります。
- 著者
- 井伏 鱒二
- 出版日
この小説のおもしろさは、小説本体だけでなく「作家が検閲を意識しながら占領下の街を書いたらどうなるか」という読み込みができる点にあります。
小説が書かれたときのシンガポールは、元々はイギリス領。戦闘が日本の勝利で一段落し、戦況も逼迫してくる直前の、表向きは小康状態を保っていた時期でした。
作者の井伏鱒二は、実際にこの街を見て、物資の不足や占領した兵士の狼藉を見聞きしています。しかし日本国内で発表する小説に、日本統治下の都市が苦しんでいるなどとはとても書けない。当時は検閲があったので、いわゆる「リップサービス」をする必要がありました。
例えば現地の住人に、日本軍司令部を支持する発言をさせたり、新設された日本語学校が大変な倍率だという描写があったりします。
しかし行間から伝わってくるのは、しらじらしさ。どこか浮世離れした、事実は書いているけど真実はぼかしている、そんな雰囲気です。
どの作品にも強さとユーモラスさが内包されている井伏鱒二の作品。とても読みやすい作品ばかりですので、当時の世相を楽しみつつ、じっくりと読んでみていただきたいです。