井上荒野は『切羽へ』で直木賞も受賞している女性作家です。愛人・不倫・死・嘘などのテーマを多く扱う中で、激しいはずの感情をも淡々と描くことが得意な作家。おすすめのものを6つ紹介したいと思います。
井上荒野(イノウエ・アレノ)は、戦後文学を牽引したことで知られる作家の井上光晴の長女として1961年に生まれました。成蹊大学文学部を卒業後、ライター等の期間を経て、『わたしのヌレエフ』で第一回フェミナ賞を受賞しています。フェミナ賞は現在では無くなってしまっていますが、応募資格が女性に限られる文学賞でした。同賞を主催・発表していた雑誌『季刊フェミナ』の編集者には大庭みな子、瀬戸内寂聴、田辺聖子らの名だたる女性が名を連ねています。受賞に際しての選評では田辺聖子より「女主人公のまなざしが魅力的」という言葉を受けました。
デビュー後は一時期体調不良により筆を置きますが、結婚後執筆活動を再開。2004年に『潤一』で島清恋愛文学賞を、2008年には『切羽へ』で直木賞を受賞。その後『そこへ行くな』で中央公論文芸賞受賞、『赤へ』で柴田錬三郎賞も受賞しています。
角田光代や、二世作家という点でも共通点がある江國香織との親交が深く、対談等の席が複数回に渡って設けられています。
男に妻と愛人がいるという、よくある三角関係。愛想を尽かせかける妻と、連絡を待ち続ける愛人。ある日、男が不治の病を患い死期を宣告されるという事態になり、その関係性は徐々に変化していきます。
- 著者
- 井上 荒野
- 出版日
休業期間を経て、井上荒野の再起作として執筆した作品です。男が本当に愛していたのはどちらだったのか、二人の女は本当に男のことを愛していたのか。一見よくある三角関係である男と女たちの間で存在する、心情の微妙な揺れ動きの描写が秀逸です。
妻と愛人、二人の視点から交互に語られるという特殊な形式が存分に生かされています。どちらの思いも激情ほとばしるようなものではなく、じわじわと広がっていったり消失していったりするものですが、あくまで淡々と描き切るところに井上荒野の持ち味を感じさせます。
艶、という名前の女が死に瀕していました。艶は数多くの男性と関係を持ってきた女でした。様々な人間の目を通して見ることで、謎のベールに包まれた奔放な女の本当の姿に迫っていく物語となっています。
- 著者
- 井上 荒野
- 出版日
- 2012-11-28
連作短編集ですが、それぞれの物語での主人公は、艶が関係してきた男たちの周りにいる、愛人や妻などの女たちです。彼女らはそれぞれの男を通して見た、艶の姿を語っていきます。関係の遠い人から出てくるため、読者にとっては、読み進めるほどに艶の本性にじわじわと迫っていく形をとることになり、一種の謎解きのような面白さも。
自分の欲望に忠実な女と、彼女に振り回された男たち、そして彼らに振り回された女たち。情念的な世界観に引き込まれます。
吉川英治文学新人賞の候補にも選ばれた作品。才能に恵まれたヴァイオリニストである惣介の妻園子は誰よりも美しく、息子も父親の才能を受け継いでいます。経済的にも不自由のない、一見温かで恵まれた家庭ですが、惣介は若い女に浮気を繰り返しています。そして園子も、その事実を知っていて口を閉ざしているのでした。
- 著者
- 井上 荒野
- 出版日
- 2009-03-02
完璧な妻を自慢しつつも浮気を繰り返す夫、そんな夫をとがめもせず完璧に立ち回り続ける妻、両親の関係を理解している大人びた息子。そんな三人で構成されたいびつな家庭が描かれます。
幸せな家庭って何だろう。サラサラとした感触の文章の中で、時々ぞくりと肌が粟立つようないびつさが感じられ、気づけば最後のページに。美しいはずのない歪んだ家庭を、綺麗な舞台に仕立てあげる作者の筆致に凄みを感じます。
切羽(きりは)とは、掘っていくトンネルの一番先のことだそうです。掘っている間は常に一番先が切羽であり、しかしトンネルが開通すると無くなってしまうもの。日常の中でそんな「切羽」を生きる人々が描かれた作品です。
- 著者
- 井上 荒野
- 出版日
- 2010-10-28
九州弁が交わされるある島に、夫と共に住まう主人公。養護教諭として働き、凡庸でありながら充実した日々を送っているはずでしたが、本土から赴任してきた石和という若い男性教諭に何かと意識を向けてしまいます。
画家である夫、不倫を続けている同僚の月江、近所の老婆のしずかさん。誰もが切羽を生きていて、安定しているように見える生活はふとしたことで崩れ去る可能性を孕んでいます。
劇的な展開があるわけではないのですが、どこを読んでも、息をひそめて隠れているような危うさが感じられます。少しの不穏さを抱えたまま淡々と物語が進んでいく井上荒野の作風が好きな人には、絶対におすすめしたい一作です。
井上荒野作品は、何かが起こりそうな空気をひっそりと抱えたまま物語が収束していくことが多いです。しかし『だれかの木琴』では、超えてはいけない一線を踏み越えてしまったような主人公が描かれます。
- 著者
- 井上 荒野
- 出版日
- 2014-02-06
どこにでもいる平凡な主婦である主人公が、些細なことをきっかけに、若い男性の美容師をストーカーするようになってしまうというストーリーです。
彼女の行動は徐々にエスカレートしていきますが、美容師の彼のことが本当に欲しいわけではありません。
自分でも理解できないような場所で、感情の深さがどんどん勝手に進行していく……という恐ろしさを経験したことがある人には絶対ハマるはずです。自分で自分が手に負えなくなっていく、ゆっくりと壊れていく様が描かれます。実は誰もが持っているかもしれない狂気の片鱗。他人事とは思えなくなり、怖いもの見たさに読み進めてしまうような作品です。
宝石鑑定士を肩書きにしている男性結婚詐欺師と女性の相棒、騙された女性達目線で描かれている作品です。結婚詐欺師は偽名を使い、相棒である女性が選択した女性に次々と近づき騙す日常を送っています。しかし、ある女性を騙したことをきっかけに詐欺師と相棒を探る女性が現れるのです。
今まで遭遇したことのないピンチをどう切り抜けるのか、そして、詐欺師はどう生きていくのか。
- 著者
- 井上 荒野
- 出版日
- 2016-01-23
ある女性は、食べ終えた皿に残っていたシソを蛇口の水流だけで流すことができたら吉など願掛けを得意としています。またある女性は、朝刊の投書欄等を切り抜き、出掛けながら嘘が混じっているであろうと思い込みエッセイの虚を暴くように添削することを楽しみにしているのです。張りつめるようなあらすじであるがゆえにこのような人間味が溢れている部分に何ともいえない魅力を感じます。
さらに、少々ネタバレをするとこの物語には決定的な結末は描かれていないため自分自身で想像をする形式になっています。読中思うことは十人十色であると思うのでもちろん、読後みなさんが考える結末も各々違ってくるでしょう。
ともすれば薄暗い女性の感情の動きを、清冽な筆致で描く、井上荒野の作品を紹介しました。めくるめく展開の物語に疲れてしまった時や、過不足の無い流麗な文章を楽しみたくなった時は、ぜひご紹介した作品を手に取ってみてください。