坂口安吾のおすすめ作品6選!代表作『堕落論』『白痴』以外にも名言多数!

更新:2020.12.10

坂口安吾は第二次世界大戦をまたいで活躍した小説家です。彼の作品の持ち味はあふれんばかりの人間臭さ。その奔放な性格ゆえか未完の作品もありますが、一方で現代においてもファンを増やし続ける完成度の高い作品も多く存在します。

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坂口安吾の代表作を含むおすすめ作品6選!奔放さと繊細さを併せ持つ作家の生涯とは

坂口安吾は戦前から戦後にかけて活躍した昭和の作家です。太宰治と並んで無頼派と称されています。

本名は坂口炳五(へいご)。どうして安吾になったかというと、漢詩人であった父親に似ず、漢詩の勉強をさぼってばかりいた彼に漢文の教師が怒って、「お前なんかに炳五という名前はもったいない。自己に暗いやつだから暗吾と名乗れ」といったのが発端だとか。

このエピソードからもわかるように、学校嫌いで、不良仲間と遊びまわってばかりいたそうです。このように一見奔放に見える坂口安吾ですが、その一方で自己の孤独や生きる虚しさにとことん向き合う繊細な一面も持ち合わせており、青年期には仏教に深く傾倒しています。

作家として活躍し始めてからもこの二面性は随所に現れます。売れっ子作家になった坂口安吾ですが、原稿料をほとんどためずに使ってしまい、税金を納められなくなってしまうのです。国税庁に財産の差し押さえをされると、これに激怒しなんと税金不払い闘争を展開。また競輪場に通っていて、レースに不正があったと騒ぎ、やくざの巣窟であった競輪場を相手取って裁判所に告訴したというエピソードもあります。

一方で、多忙をきわめる生活のさなかにヒロポン(覚せい剤)を服用し、徐々に中毒になっていきました。さらにアドルム、セドリンといった別の薬物にも手を出し、ひどい鬱状態を繰り返します。一時期は緊急入院をしたほど薬物依存は深刻だったそう。彼の死因は脳出血ですが、このような生活も最期に影響を与えていたでしょう。

やりたい放題にみえる彼の生活ですが、内心には原稿をかきあげるプレッシャーと戦っていたのかもしれません。奔放にして繊細、これが坂口安吾の作品に不思議な人間味を与えているようです。

精力的な安吾の作品は評論、随筆、歴史小説、推理小説、純文学、ホラーにコメディ……と多彩なジャンルに及びます。ここでは彼の生き方を反映した人間臭さを感じさせる代表作をご紹介します。

「生きよ、堕ちよ」……現代にも通じる名言の宝庫!『堕落論』

坂口安吾の代表作です。これは小説ではなく評論ですが、それほど長いものでもなく読みやすいです。

第二次世界大戦における敗戦国日本の姿を冷静に書き出し、今後日本人はどのように生きたらよいのかを示唆した作品、といえばなんだかとても仰々しく感じられますが肩肘を張ったところはなく、坂口安吾らしいシニカルさが発揮されています。ちょっと苦笑しながら読めるところも。

 

著者
坂口 安吾
出版日
2000-05-30


大雑把に要約するとこうです。

戦争中は敵の捕虜になるなとか、未亡人は貞淑であれとかいう風潮だったのに、戦争が終わったら特攻隊は闇屋になり、聖女は堕落します。しかし人間は本来移り気なものだし、堕ちるのが本質であるのです。だから、昔と今とは何も変わっていないんですよ。人間は堕ちることでしか救われないのです。

「生きよ堕ちよ、その正当な手順の外に、真に人間を救い得る便利な近道が有りうるだろうか。」
(『堕落論』より引用)

この部分は有名ですね。『堕落論』はこのように人間の本質であるダメなところ、移り気なところを肯定してくれているので現代でも読んでいてはっとさせられる名言が満載です。

戦争と女。破壊と創造。戦下で坂口安吾が問う「人間」とは『白痴』

戦争下の日本で演出家見習いの井沢は白痴(知的障害者)の女と知り合い、同棲を始めます。時勢によって右往左往している映画会社の低俗さに嫌気がさしていた彼は白痴の女の純粋なところにひかれていきます。

空襲後の焼けただれた死体などショッキングな描写も多々ありますが、ただ戦争の残虐性を訴えただけの小説ではありません。

空襲にさらされ、火の海の中を逃げ惑う井沢達。そこで女が見せる初めての人間らしい応答。死と隣り合わせの生活と、白痴の女の無垢な世界の対比が読者に生の人間を感じさせてくれます。現代におけるさまざまな飾りで息苦しくなっている人に覗いてもらいたい世界観です。

 

著者
坂口 安吾
出版日
1989-07-03


一方の『青鬼の褌を洗う女』は醒めた女性目線で人の愛と孤独について突き詰めた作品です。

母親は主人公である「私」を溺愛していますが、その様は親が子に与える無償の愛とはずれています。「私」はそれを敏感に感じ取って、嫌悪しているのです。そこにある愛情は、娘のためとはいいながら、実は母親の自己愛が形を変えたものです。

本作の舞台は戦中であり、空襲、徴用、疎開など生々しい戦争生活が書きだされてはいるものの、厳戒態勢の日本下にあったとは思えないほど「私」は奔放で、自堕落です。あとくされがないからと、徴兵される男何人もに体を許します。母の偏愛がそうさせるのでしょうか。主人公の中には満たされない破壊的な衝動が内在しているのです。

そして空襲が始まり、火の海に囲まれた彼女は思います。

「私はしかしあのとき、もしこの火の海から無事息災に脱出できれば、新鮮な世界がひらかれ、あるいはそれに近づくことができるような野獣のような期待に亢奮した。」
(『青鬼の褌を洗う女』より引用)

破壊の後の創造を期待する、この感覚。狂気じみていながらなんとなく共感してしまうところです。

小説ではこの後勤め先の専務の愛人となった主人公を中心に、人のさみしさ、孤独を描いていく展開になっています。この寂寥の感覚は必ず現代を生きる私たちの身にも迫ってくることでしょう。

魔性の魅力に満ちた桜の木。坂口安吾のすさまじきホラー小説『桜の森の満開の下』

『堕落論』や『白痴』と並ぶ坂口安吾の代表作の一つです。他の2作品とは違い戦争が絡んでこないおとぎ話のような世界観ですが、ある意味戦争以上にぞっとさせる描写がてんこ盛りのホラー小説となっています。

桜の花は美しいけれど、その美しさには魔性のものを感じます。この『桜の森の満開の下』はその桜の魔力を前面に押し出しているのです。

 

著者
坂口 安吾
出版日
1989-04-03


昔々の話。鈴鹿峠で山賊をしていた男が主人公です。山のすべてが自分のものだとうぬぼれているこの盗賊が恐れていたのは桜の森。満開の桜の下を通ると旅人はみな気が変になるのです。山賊もまた桜の森の花の下を通ると気が違うような気がしました。

ある日、残忍な山賊はいつものように旅人を殺して連れの女を自分のものにしました。この女はたいへんな美人でしたが、恐ろしい女でした。山賊のもとにいる他の妻を自分のために殺させたり、生首を集めさせたり……。

山賊が、桜の森の満開の下で女の顔に見たものとは?

狂気の美女と桜の取り合わせが恐ろしいくらい美しいです。幻想怪奇小説として、大変完成度の高い作品。主人公が満開の桜の中に取り残されるラストはあまりに印象的です。

坂口安吾の教師時代を書いた小説『風と光と二十の私と』

坂口安吾の自伝的小説集といえる本です。「わが戦争に対処せる工夫の数々」のような若干ユーモラスな小品から「いずこへ」といった人生観を現した作品まで様々な随筆が載っています。

表題作の「風と光と二十の私と」は学校をさぼってばかりいた坂口安吾が、小学校の代用教員として採用された経験を書いたものです。不良少年だった安吾。落第し、退学処分にされ、中学校を卒業したのが二十歳の時だった坂口安吾だけに、落ちこぼれとみなされる生徒へのまなざしはたいへん優しいです。

勉強ができなかったり、乱暴だったりする問題児、一般的には悪い子というレッテルを張られた生徒の中に美しい魂を見出す作者の視線がすばらしいですね。

 

著者
坂口 安吾
出版日
1988-10-03


こんなエピソードもあります。ある日地元の有力者の息子、萩原という生徒が安吾に叱られたといって、学校の主任に訴えてきます。

実はその日一度もこの生徒を叱った覚えのないのですが、そういう噓をつくからには何か事情があるのだろうと察した安吾は主任を帰らせ生徒と二人で話をします。

「本当のことを教えろよ。学校から帰る道に、なにか、やったんだろう」
(『風と光と二十の私と』より引用)

生徒は泣き出します。乱暴な生徒に脅かされて、万引きをしてしまったのです。表面からはわからない生徒の苦悩をちゃんと見抜いているんですね。

一方で同業者の教師に対する視線は冷ややかです。教育現場の批判もちゃんとやってのけるあたり、さすが坂口安吾といったところです。

珍妙なデビュー作。坂口安吾のユーモアのセンスについていけるか?『木枯の酒倉から・風博士』

坂口安吾の初期作品で構成された短編集です。後の作品のようなまとまりはありませんが、不思議な雰囲気の中に、安吾らしさを見つけることができます。

坂口安吾が文壇の注目を浴びるきっかけとなった、初期の作品「風博士」。安吾は真面目な作品においてもたびたびユーモラスな文体をみせることがあります。この「風博士」にはそのユーモアが満載されているのです。

 

著者
坂口 安吾
出版日


古めかしい文章は一見難しそうな印象を受けますが、その内容はかなりふざけています。冒頭、風博士と呼ばれる人物が自殺したということが述べられ、彼の遺書が公開されます。その遺書には風博士の論敵、蛸博士との確執が書かれているのです。蛸博士のいやな面をつらつらかき続けるのですが、そのなかでも吹き出す記述がこれです。 

「たとえば諸君、頃日余の戸口に Banana の皮を撒布し余の殺害を企てたのも彼の方寸に相違ない。愉快にも余は臀部及び肩胛骨に軽微なる打撲傷を受けしのみにて脳震盪の被害を蒙るにはいたらなかったのであるが、余の告訴に対し世人は挙げて余を罵倒したのである。」
(『風博士』より引用)

つまり蛸博士はバナナの皮をわざと落としておいて、自分を殺そうとしたと風博士は訴えているのですが、なんという古臭いコメディでしょう!しかも、それをこんなにお洒落に書くなんてびっくりしませんか?

「木枯の酒倉から」もふざけた作品。酔っ払いの話を聞いているような、まとまりのない話です。読んでいるとこちらまで酩酊しそうな気分になります。

 

坂口安吾が論じる恋愛とは『恋愛論』

「恋愛とはいかなるものか、私はよく知らない」

『恋愛論』は1947年の女性雑誌「婦人公論」に発表された評論作品ですが、冒頭からいきなりこの文言で始まるのですから、これから一体何を語り出すのか見当がつきません。

恋愛をよく知らないというのは小説家・坂口安吾独特のひねり。普段着でも着物姿の女性たちが多く、恋愛よりもお見合い結婚が優先されるような太平洋戦争直後の時代に書かれた作品とは思えないほど先鋭的な恋愛論になっています。

 

著者
坂口 安吾
出版日


『桜の森の満開の下』をはじめとする坂口安吾の小説は不道徳なものや無頼漢、世の中から孤立した人たちをモチーフにしています。この『恋愛論』においても、「孤独は人のふるさとだ」と語る熱っぽさに魅了されてしまいます。

「恋愛」という甘美な言葉、その幻想を看破する坂口安吾の言霊(ことだま)が私たちの常識を破壊していくのです。安吾の裸の言葉が見せかけの衣装をまとっただけの良識を論破する、その破壊力から生じるカタルシスが心地良い恋愛評論になっています。

「恋愛がバカげていても…バカげた一生においてバカは最も尊いものであることも、また、銘記しなければならない」というくだりがまるで高僧の名言のように思えてしまう、安吾文学独特の世界観が味わえる作品です。

坂口安吾の世界は不思議な魅力にあふれています。それはたぶん安吾の人間性がそのまま作品にあふれているから。不完全な人間という存在を丸ごと肯定してくれるかのような度量の広さを感じます。世間体が窮屈なこの時代ですが、坂口安吾のおおらかさに触れて少し肩の力を抜いてみませんか。

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