皆さんは人に言うのが憚れる恐怖症をお持ちですか? 高所恐怖症や閉所恐怖症は比較的メジャーですが、世の中には他にも集合体恐怖症・甲殻類恐怖症・渡橋恐怖症・ピエロ恐怖症・嘔吐恐怖症・注射恐怖症など、多種多様な恐怖症が存在します。 今回は人が怖さを感じる対象の研究に焦点を当てた、ベテラン精神科医の知見をご紹介していきます。
本書はベテラン精神科医兼作家の春日武彦氏が、ホラー映画や小説を引用して恐怖を感じる人間の精神構造を分析していく本です。
春日武彦は1951(昭和26)年京都府生まれ。
日本医科大学卒業後は医学博士から産婦人科医を経て精神科医になり、ナルシシズムに紐付く精神病理に切り込む、数々の書籍を出版しました。
主な著作は『ロマンティックな狂気は存在するか』『不幸になりたがる人たち』『自己愛な人たち』『老いへの不安』『屋根裏に誰かいるんですよ。』他。
作中にて、春日武彦は幼少期から重度の甲殻類恐怖症を患っていたことをカミングアウト。
カブトムシやクワガタはもちろんエビやカニ、はてはヤドカリすら生理的に無理らしく、普段から外骨格系の生き物が目に触れないように心がけて生活しています。
しかしパソコン検索時にうっかり対象の画像を見てしまうことがあり、不意打ちのショックは計り知れません。
一方で人間が恐怖を感じるメカニズムや狂気にはまりこむ過程を掘り下げていくうち、そこには興味深い法則性が見えてきました。
- 著者
- 春日 武彦
- 出版日
『恐怖の正体 トラウマ・恐怖症からホラーまで』は親書として出版されていますが、エッセイの趣が強く、学術書に付き物の堅苦しさは皆無。大変読みやすい文体で書かれており、中央公論新社の教養本に馴染みがない方でも、ストレスを感じず読み進めることができます。
研究成果はグラフや図を用いて簡潔に説明され、ロジカルな説得力を増していました。
以下、春日武彦が自己分析した甲殻類が苦手な理由です。
上記の前提条件を起点に論を進め、嫌悪と恐怖と不快はあらゆる恐怖症の根幹を成す三位一体の感情であること、最初に立ち上がるのが嫌悪の場合、マゾヒスティックな好奇心で対象と戯れることも可能と提唱。
現にスーパーの海鮮食品売り場に赴き、そこに陳列されたエビやカニを恐る恐る眺め、度胸試しをした経験もあるのだとか。
ならば恐怖症の中で最もメジャーといっても過言ではない、高所恐怖症の源泉は何なのでしょうか?
春日武彦は「ノックスの十戒」で有名なイギリスの推理作家、ロナルド・A・ノックスの小説『密室の行者』を引用します。
- 著者
- ["アントニー ウイン", "江戸川 乱歩"]
- 出版日
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これは食料が豊富に蓄えられた密室の中、ベッドの上で餓死した男の謎を解き明かす話で、その恐るべきトリックに言及することで、高所恐怖症の被害者が死の間際まで苛まれたジレンマを暴きだします。
上記は作者が推理した高所恐怖症の人間の心理ですが、これ以外にも様々な理由が存在します。
他にも集合体恐怖症・尖端恐怖症・閉所恐怖症・人形恐怖症・ピエロ恐怖症など、精神科医の知見を交え、細分化した恐怖症の実例を取り上げているのが見所。
春日武彦曰く、恐怖症の根底を支える三要素は「危機感」「不条理感」「精神的視野狭窄」。
甲殻類にせよ集合体にせよこちらに危害を加えてくる可能性は低く、直接的な脅威にはならないもの。
同様に高所や閉所でも安全性が保証されているなら恐るるに足りません。
なのに「もしかしたら……」とネガティブな想像が止まらなくなるのが恐怖症の恐ろしさ。
もし床が抜けたら?
鍵が壊れて閉じ込められたら?
うっかり手が滑って、眼球に画鋲や安全ピンが刺さったら……。
高所恐怖症・集合体恐怖症・尖端恐怖症・閉所恐怖症など、恐怖の対象が広義なほど対処が困難で日常生活に差し障ります。
まずもってあり得ない、普通の人なら一笑に付すであろうもしもの仮定を最悪の未来に接続させるのが、恐怖症の人々の思考回路なのです。
- 著者
- 春日 武彦
- 出版日
本書を読んで驚いたのは春日武彦の読書量。ホラー映画や小説を多く吸収してきた経験を生かし、それぞれの恐怖症の解説に、的確な事例を引いているのに注目してください。
閉所恐怖症の項目で引用されているのは2004年刊行の小説、ポール・L・ムーアクラフト『独房の修道女』。
- 著者
- ["ポール・L. ムーアクラフト", "Moorcraft,Paul L.", "百合子, 野口"]
- 出版日
本作は教会の壁に穿たれた狭苦しいスペースに閉じこめられ、生涯を祈りに捧げることを義務付けられた十四世紀の修道女、クリスティーンの物語。彼女たちは隠修女と呼ばれ、中世ヨーロッパに実在したというのですから衝撃を受けました。
閉所恐怖症の根源には「早すぎる埋葬」を忌避する気持ちも働いており、春日武彦が書き写した『独房の修道女』の記述を読めば、閉暗所がもたらす不安や酸欠の苦しみが追体験できます。
人形恐怖症の項目で言及されるのはスティーブン・キング原作のホラー映画、『IT/イット それが見えたら終わり』。春日武彦曰く、人形恐怖症とピエロ恐怖症の根は同じで、双方ともに不気味の谷現象が関与していると言えます。
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続いて紹介するのが純文学作家、古井由吉の初期作品『人形』。
古井由吉のおすすめ作品5選!文学賞を受賞した小説を振り返る
古井由吉は多くの賞を受賞し、十分な評価を受けています。今ではすべての賞は辞退していますが、現役で作品を書き続けています。人間の深い感情を、言葉による表現でまるでそばにいるかのように、匂いや感覚まで感じさせてくれます。
- 著者
- 古井 由吉
- 出版日
- 2012-05-09
田舎に帰省していた主人公・郁子は、育ての親代わりの伯父に手土産として人形を持たされ、部屋を借りている東京に帰ってきました。
以来彼女の周囲では不審な出来事が相次ぎ、街を歩けばやたらと人違いされ、死んだ友人の幽霊まで見えるようになりました。
部屋にいる間は常に無機質な視線が付き纏い、とうとう精神に錯乱を来たした郁子は異様な躁状態で人形に語りかけます。
「ねえ、教えてちょうだい。あたしはどんな顔してるの。あたしは誰なの、何人いるの、どこどこにいるの。あたしの、あたしたちの、ほんとうの顔は、おおもとの顔は、どんな顔なの」
やがて郁子と人形を分け隔てる境界線は溶けだして、一人と一体の自我は混ざり合っていきました。
ここまで恐怖症のメカニズムを語りましたが、必ずしも恐怖と苦痛や不快はイコールで結べず、エンターテイメントとして恐怖を求める人々……ホラー作品を愛好するマニアの存在にも、春日武彦は興味を示しています。
彼等が求める恐怖はスリルと互換可能です。読書にせよ映画鑑賞にせよ体験後は必ず日常に復帰できるからこそ、一定の距離感を以て、無責任に恐怖を楽しめるのです。
精神分析家マイクル・バリントは、スリルを求めてホラーに親しむ人々をフィロパット(philobat)と名付けました。これはアクロバットの派生語で、危険を過剰に避け、安全や安定に固執する人々はオクノフィル(ocnophil)と呼ばれています。
フィロバットとオクノフィル、貴方の本質はどちらでしょうか?
- 著者
- 春日 武彦
- 出版日
- 著者
- 平山 夢明
- 出版日
春日武彦『恐怖の正体 トラウマ・恐怖症からホラーまで』を読んだ人には、ホラー作家・平山夢明のエッセイ『恐怖の構造』がおすすめ。
長年ホラー小説で食べてきた平山夢明が、自身の心霊体験や小説の制作秘話を絡め、フランクな語り口で恐怖の構造を分解していきます。
平山夢明ファンはもちろん、国内外のホラーに関心があるなら幅広く楽しめる内容となっています。
- 著者
- 伊藤 龍平
- 出版日
続いておすすめするのは伊藤龍平『怪談の仕掛け』。
本作は怪談師・怪談会の人気に伴い、怪談を語ることの意味や魅力に主眼を置き、悲話・笑い話・猥談・落語・童話・ネットロア・予言譚・実話から怪談が派生する道筋を辿っています。
「怖がらせたい語り手と怖がりたい聞き手の共犯性の中で成立する遊び」と怪談を定義付ける、専門家の慧眼はさすがでした。